30.死なないで
「だい、じょうぶ」
絶望を刻んだ理一を安心させるためか、自らに言い聞かせるためか、それとも、とばりに告げているのか。ひなた自身もわからなかった。
けれど、ひなたはここで死んではいけないと必死に自我を保つ。そのための「大丈夫」であることに間違いはなかった。
気を抜けば、このまま死ねば、楽になれると思ってしまう。すべてから解放されて、苦しむことはない。そんな風に考えてしまう。
だが、それではこの十八年間を生きてきた意味がない。
今、選んだ意味もない。
ひなたはゆっくりと息を吸って、はく。痛みを徐々に分散させる。何度もやってきたことだ。体の傷は大抵の場合、心の傷より浅くすむ。慣れれば痛みにも鈍くなる。ひなたの体は痛みに慣れ過ぎている。これくらい、なんてことない。
それでも存外深く刺されたらしい。中々痛みは抜けていかなかった。
――当たり前か、とばりはりぃくんを殺そうとしていたのだから。
「変なの」
ひなたは自嘲気味に笑みを漏らした。姿を消していたとばりが背中越しに泣きそうな声で自らの名を呼び続けていることが不思議でたまらない。人を殺して、平気な顔で笑っていたテロリストが、幼馴染ひとりを傷つけて、傷ついているなんて。
今なら、ひなただけでなく理一も殺せるはずなのに。
ひなたは何度目かの深呼吸を繰り返して、背中に刺さったナイフにゆっくりと手をかけた。腎臓まで届いていなかったことだけが救いだ。とばりはひなたを殺せない。咄嗟にひなたを認識して急所を避けたのだろうか。とばりも甘い。超、甘い。
大丈夫。今すぐに死ぬことはない。ナイフを抜いても、大量に血が噴き出るだけですむ。失血死する可能性はあるが、それは今すぐではない。体の可動域をナイフに邪魔されて生きながらえるよりも、とばりとの決着をつけて死ぬ方がいい。
ならば。
ひなたは迷うことなくナイフを引き抜いた。
瞬間、ぐらりと頭が揺れる。血が失われていく。並大抵の神経では、立つことさえままならない。
それでも――
「まだ、死ねない」
ひなたは引き抜いたナイフを震える手で地面に捨てる。ナイフの柄に触れた手が、そこに彫られた漢数字の二を感じとった。
世界をわけあったふたつ。
とばりも、ひなたに渡したナイフと同じものを持っていたらしい。
なるほど、とひなたはひとり思う。
ナイフの重さは、命の重さによく似ている。
体はまだ動く。後数秒でいい。もって。自らの体に言い聞かせる。
「大丈夫」
自己暗示。強い意識で脳を混乱させる。アドレナリンが痛覚を更に鈍らせている。体も動く。動くと念じる。ひなたにはまだやるべきことがある。
今なら、とばりを捕まえられる。
今なら、とばりを、この手で。
背中の損傷で足の神経がやられたのか、左足は思ったように動かせなかった。立ち上がろうとしてガクンと膝をつく。朦朧とする意識でなんとか左足を引きずる。立ち上がれなくてもいい。とばりとさえ、対峙できれば。
時が止まっているような感覚に襲われた。それは長い一瞬だった。
とばりや理一や、国防局の仲間たち皆、固唾を飲み、息を止め、時間という概念を忘れて、ただひなたの動きを見つめていた。
「とばり」
ひなたは半身を麻痺させながらも、確実にその名を呼ぶ。本当は、かすれて音になりきってはいなかったけれど。とばりの耳には聞こえたようだった。
目の前に夜が見える。彼はすぐそばにいた。
「……ひなたちゃん」
とばりもまた、かすかな声でひなたの名を呼んだ。彼は五体満足で、ひなたと違っていくらでも生きていけるのに。今にも死にそうな顔をしていた。
「なんで、そんな顔をするの」
ひなたがゆっくりと手を伸ばす。とばりのサラリとした絹のような黒髪をすくい、頬を指先でなぞる。熱い。ひと筋、やわらかな雫がひなたの指を伝った。
とばりが泣いている。
「死なないで」
ひなたはゆっくりと首を振る。死ぬつもりはない、と。
「ごめんね、ごめんね……僕が、僕が、正しくないから……僕は、いつも、間違える。生まれたときから、間違ってたんだ……僕は……っ!」
ひなたはもう一度首を振る。顔を左右へ動かすたび、頭がずんと重くなる。ぐらぐらと脳を直接揺さぶられているようで、背中の痛みを忘れそうになるほど、すべての感覚が曖昧になっていく。
「とばりは、間違ってなんか、ない」
ひなたはできる限りの力を込めて、とばりを感じる。
「世界が、間違えたんだよ」
その感触を自らの体に刻み込む。とばりの涙をすくいとることは叶わなかった。それどころか、ゆっくりと手を下ろしたかったのに、体が言うことを聞かなかった。腕が滑り落ちていく。肩ごと地面へ吸い込まれていきそうになる。ひなたは必死に歯を食いしばってそれを引き止める。筋肉が悲鳴をあげていた。それでも。腕ひとつを捨ててとばりを救えるのなら、それでも。
「わたしが……っ、今から、それ……を、正す」
とばりの胸元。心臓のあたりで、ひなたはそっと手を開いた。
ドクン、ドクン、ドクン……。
魂のゆりかごが規則正しく揺れている。
ひなたは大きく息を吸って、とばりの命に息を吹き込む。
自らの鼓動はもはやいつ止まってもおかしくないほど静かだ。とばりに分け与えられるほどの命ではないかもしれない。
ひなたの手に、体中の熱が集まる。血が沸騰している。
能力の使い方なんてわからない。
それでも。
予感がした。
世界が教えてくれる。
理を正すときがきた。
ひなたは導かれるままに口を開く。
「理を壊すものよ、その理を、正せ」
能力の発動に呪文はいらない。印も結ばないし、心臓に手を当てる必要なんてもっとない。
けれど、ひなたはそうして、とばりに呪いをかけたかった。
とばりの命は正しい。
そんな呪いをかけたかった。
ドサリ、と地面に倒れた。
ひなたの体が。
――とばりの体が。
「どう、して」
ひなたの唇が震える。背中の痛みに耐えきれず、麻痺した体を支える力も残っていないひなたは、アスファルトに顔を預けて、隣で同じように寝転がっているとばりを見つめる。
彼の夜を閉じ込めたような瞳には瞼がおりていた。
「と、ばり?」
とばりは返事をしない。
「もういい、ひな、喋んな」
かわりに、理一の声が聞こえる。
ザリ、と地面をこする音が鼓膜を揺らした。ひなたの隣で、理一が立ち上がったようだった。
「疲れたろ、お姫さまは寝てな」
お姫さまじゃない。ひなたの口は動かなかった。
もしかしたら、理一の言う通り、本当に疲れているのかもしれなかった。
連日とばりとの戦いで肉体的にも精神的にも参っていたし、昨日は理一が倒れ、どん底にまで叩き落された気分だったし、今日だって、とばりが理一を殺すと意気込んでいて、いつも以上に体を酷使した。今だって、理一をかばって背中を刺されたし、血を抑え込んでいたナイフを引き抜いたせいで失血している。それに、能力だって使った。世界の理を正す力。とばりのようにわかりやすく何かが変わったようには思えなかったけれど、ひなたもその力を使うのは初めてだ。もしかすると、能力の発動というのは想像以上に体力が必要なのかもしれない。世界は待ってはくれないし、教えてもくれない。考えに考え抜いて、苦しみに苦しみぬいて、もがいて、あがいて、ひなたが選んだ。選んだのだ。正しさを。
ひなたの脳裏を様々な思考が駆け巡る。
人間の脳は、人間の持つエネルギー全体のうち、四十パーセントも使うらしい。
だから、多分、疲れてる。
ひなたは夜に包まれた。帳が降りる。
真っ暗な、けれど、あたたかくて美しい星空がそこにあった。