3.普通だし、特別だろ
「とばりを逃がした⁉」
「うるさい」
ひなたは理一の大声に耳を塞ぐ。理一は落としたタバコの灰に
「あちっ」
と声を上げた。
「っていうか、とばり⁉ 了輪とばりか⁉」
「そうだってば」
「いやいやいや、なんでそんな冷静なワケ⁉ 三年前に脱走したかと思えば、不死身のテロリストとか言われちゃってる、あの思春期中二病まっしぐらボーイよ⁉」
「だから何」
「ひなは幼馴染じゃん! 落ち着きすぎだって!」
「落ち着いてない。だから逃げられてるんだってば」
ひなたが苛立ちを地面にぶつけると、
「ああ、そっか」
理一は間抜けな声を出した。
長い一拍分の呼吸。理一は冷静になるためか、タバコをくわえ、ゆっくりと煙を宙へ浮かべる。やがて灰皿にタバコを押し付けると、彼はガシガシと頭をかいた。
「……いや、全然理解できねえな」
おそらく、とばりも理一に理解されたいとは思っていないだろう。とばりの目には、ひなた以外のものは映っていなかった。それ以外のすべてはどうなってもいい。そんな顔をしていたように思える。自惚れであってほしい。
灰皿にくすぶるタバコの残り火を見つめ、ひなたは呟く。
「同感」
実際のところ、ひなたにも理解はできていない。
「それで? 何て言ってた?」
「世界を平和にしたいんだって」
「はあ?」
自らも国を平和にするために働いているのに、理一はますます理解できないと表情で語る。右眉は上げて、左眉は下げる。器用な男だ。
「三本目じゃん」
ひなたが理一からタバコを奪い取ると、理一の手がひなたの腕を追う。
「休憩時間はタバコ二本分まででしょ」
「休憩じゃないです~。ひながとばりを逃がしたとか言うから、事情聴取してるんです~」
「ウザ」
返してやろうと思っていた新品のタバコをひなたは灰皿へ捨てる。
「ああ!」
理一から情けない声が聞こえたが、気にしない。ひなたは局長から理一がサボらないように目付け役を命じられている。理一の相手をするよりも局長を敵に回すほうが面倒くさい。何より、今からその局長へ会いに行くのだ。局長への約束はすでに取り付けている。理一のタバコ休憩にこれ以上付き合っている暇はない。
「りぃくん、早くして」
喫煙所前に止められた白の軽自動車。ひなたは理一を置き去りにして助手席の扉を開ける。遅れて理一が泣きそうな顔をしながら運転席へと座り込んだ。
「ひながひどい」
「ひどくない」
理一は不満を示すようにダラダラとシートベルトを締め、ゆっくりとエンジンを踏む。
普段ならば警察に捕まらない程度に車を飛ばすのに、今日の理一はまるで運転免許取り立ての素人のような速度だ。よっぽどとばりのことが気に食わなかったのだろう。
「りぃくん」
ひなたは不満げな理一に語りかけた。さすがに密室の車内で、理一の不機嫌なオーラを浴び続けるのはひなたとて本望ではない。フロントミラー越しに彼を見やれば、理一もまた、自分のことを棚に上げているひなたに、ひなたと同じ視線を投げかける。理一が悪人へと向ける目で訴える。有無を言わせない目。
全部話せ。
ひなたもさすがにごまかせないと踏んだ。
「とばりは、悪のない世界を作りたいって言ってた。世界を掌握して、再構築するって」
「掌握だの再構築だの、ほんと最高に中二病かよ」
「あれは多分、先生でも治せないね」
「まじか。終わったな」
理一はふっと笑いを吐息に混ぜ込んだ。ひなたが心を開けば、理一も心を開く。ふたりはそういう風に出来ている。不機嫌さをしまいこんだ理一は
「でも、それも、ひなと、だろ?」
言葉をわざと短く切りながら、ひなたの反応を窺う。話題を戻し、明確にする。彼はそうして人の心を誘導するのがうまい。
隠す必要はない。ひなたは声に出さず、ただ首を縦に振る。理一は
「それで」
と答えを促した。勧誘された答えを。
「断った。でも、とばりは諦めてない。考えておいてって。また会うときまで」
「もう来なくていいって言えよ」
「言えないよ」
唯一の親友が戻ってきてくれたかもしれないのに。
中二病まっただなかだとしても、頭のネジが完全に吹っ飛んでしまっていても、テロリストでも。
「甘いな」
理一はまるで聞いていたかのように、とばりと同じことを言う。一日に二度も言われるなんて思わなかった。だが、それは、やはりひなたが「甘い」のだろう。わかってるよ、とひなたは心の中で呟く。
「わたしは人を殺せない」
「誰だって普通はそうさ」
「わたしは普通じゃないよ」
「普通なやつなんていねえよ」
「とばりは、特別な存在だって」
「そうかもな。でも、みんなそうだ。特別だし、普通。普通だし、特別だろ」
矛盾している。理一はその矛盾を笑い飛ばして、運転席からひなたの方へ手を伸ばした。
「セクハラ」
伸ばされた手を掴んで、ひなたはパチンとその手を叩く。
「パワハラ」
理一に言い返され、ひなたは窓の外へと顔を背けた。
「ウザ」
トンネルの中、灯る橙のランプは光線となって通り過ぎる。明るく美しい過去。思いを馳せるには充分すぎるノスタルジーな色合いに思い出が重なった。
「……とばりは、もう、昔のとばりじゃないみたいだった」
ひなたの呟きに理一は答えない。だが、それでいい。肯定も否定も必要ない。慰めてほしいわけでもない。理一の知っているとばりを教えてもらいたいわけでもない。
ただ、ひなたは自らに言い聞かせている。次こそはとばりを失わないために。
「とばりは、人も殺すし、わたしのことも多分殺せる。三年前は違った。わたしたちは、世界を知らなかったから」
とばりは脱走した。世界を知った。そこで何を見たのか想像に容易い。ひなたととばりは特別だ。卓越した戦闘技術を持つ人間なんて限られている。ましてや爆弾を処理し、無線機を作り、何百種類もの暗号を覚え、どんな武器でも扱える、兵器みたいな人間は。
とばりは気づいたのだろう。
――自らが国防局製の特別な存在だと。
ひなたは助手席の窓ガラスを指でなぞる。トンネルを抜け、高いガードレールが横を通り過ぎると、一気に景色が開ける。海だ。ついで、海の上に立つ全面ガラス張りの超高層ビルや真っ白なドーム状の建物が見えてくる。百年前、レインボーブリッジから続く海上に建設された人工島。国防局の建物だけが並ぶ小さな街。
「憂鬱だな」
理一が呟く。彼の頭の中にはきっと、局長に怒られる未来がありありと浮かんでいるのだろう。かくいうひなたも、見慣れた我が地元に大きくため息をついた。