29.わたしはまだ、選んでない
「りぃくん……」
振り向かずともわかった。背後に誰がいるのか。誰が、とばりを殺したか。頼むから、違う人であってほしかった。お願いだから、逃げていてくれと。そんな簡単に引き下がる人ではないと知っていながらも、ひなたは叶わぬ希望を抱きたかった。
膝をついて崩れるとばりに向かって放たれる一斉射撃。とばりの体が再生するよりも先にとばりが死んでいく。一度、二度、三度……何度死んだかわからないほどに、とばりは殺され、生き返った。
けれど。
「生体、反応、確認、できません」
イヤフォンから無機質な音声が届く。瞬間、射撃が止んだ。ピクリとも動かないとばりに、ひなたの体も制御を失う。膝がつく。地面は固く、冷たくて、擦りむいた膝が今までに負ったどの傷よりも痛かった。
理解ができない。不死身の彼でも、死ぬのだろうか。
国防局のシステムは告げている。とばりの死を。ひなたの目も、とばりの死を、確かに捉えている。今までとは違う。
「……とばり」
呟いたひなたの肩に手がのせられる。その手を払いのける力すら湧いてこない。
「なんで、来たの」
かわりに、恨み言が口をついて出た。止められなかった。
「どうしてここにいるの! なんだと思ってるの⁉ わたしだけで止められた! とばりを捕まえられたのに!」
「言っただろ、守られるだけの騎士はいらねえって」
「わたしはお姫さまなんかじゃないっ! 騎士なんていらない! どうして! どうしてりぃくんがっ‼」
喉が擦り切れるんじゃないかと思った。酸素が薄い。頭がぼうっとする。理一の顔は見れなかった。後少しだった。後少しで、とばりを捕まえられたのに。
アスファルトに伏せて、もはや体の形もわからなくなってしまった真っ赤なとばりだったはずの塊が、ひなたの目を離さなかった。今までのどんな死よりも、正しく死の形をしている。
「生きろって、言ったくせに……。わたしが正しいと思った道で、生きろって言ったのに! なんで! なんでなんで、なんで! わたしはまだ、選んでない!」
止まらない。津波のように押し寄せる思いが堰を切る。波よりももっとドロドロしていて質量のある何かがひなた自身を飲み込んでしまう。それでいいとさえ思った。世界ごと飲み込まれてしまえばいいと思った。
だが、そんなひなたの声を派手なサイレンが遮った。緊急事態発令。異例の事態だ。
目の前でぐちゃぐちゃになったとばりが、ゆるゆると形を取り戻していく。本物の、逆再生映像。
「……な、に」
誰も答えは持ち合わせていない。いや、本能的には理解している。とばりがまた生き返っているのだと。だが、その光景があまりにも異様で、脳が痙攣をおこしたみたいに言うことを聞かない。ありえない。目の前で起こっている理の破壊を認められないでいる。
「……り……く」
「え」
か細い声が聞こえた気がした。気のせいではないのなら。
「りい、ち、く……」
理一の名を呼んでいる。
「伏せて!」
ひなたは思わず理一を突き飛ばした。怪我人は優しく扱うもの。それが基本だ。だが、そんな悠長なことは言っていられなかった。
直後、理一が先ほどまで立っていたであろう場所に、理一の頭があったであろう空間に、鉛弾が通り過ぎていく。とばりはすっかり形を取り戻していた。手にはひなたの銃。先ほどの一斉射撃が夢だったのではないかと錯覚を起こさせる。
「……まじかよ」
ひきつった理一の口角がひなたの視界の端に映る。当たり前だ。こんな光景を見せつけられては、誰だってそうなる。
嘘だと思いたかった。夢だと信じたかった。幻であってほしかった。
とばりが美しく微笑む。
「何度殺しても無駄だよ、理一くん」
その声にはひとつの欠点すらない。もはや人間ではない。本能が足を恐怖でからめとる。サイレンが鳴り続けている。とばりの生体反応を確認するブザー音が。
「わざわざ殺されにきたの?」
とばりの声に背筋が凍った。
先ほどまで、ひなたに懇願していた幼馴染が、テロリストに戻ってしまった。
そうだ。とばりにとって、理一こそ今回のターゲット。加えて理一は今、万全ではない。いや、万全であったとしてもとばりと戦えばおそらく負ける。理一がとばりの能力を知っていたとしても、それを対策するすべはほとんどない。
「逃げて」
ひなたが声をかけると、理一はゆっくりと立ち上がった。重く引きずるような体の使い方こそ、理一の現状を物語っている。
「はっ、俺に言ってんのか?」
「当たり前」
わからずや。意地っ張り。大バカ者め。
命を再生したとばりは、体の感覚を確かめるように時間をかけてひなたたちに近づく。ひなたは理一を隠すようにしながらとばりの出方を窺う。とばりはひなたを殺さない。ならば、自らが盾になるまでだ。
「ひなを置いて逃げるくらいなら、ここで死んだ方がマシだ」
「狙われてるのはりぃくんだよ」
「んなこた、百も承知だよ」
「じゃあ、なんで」
「俺が死ぬ瞬間だけは、あいつも油断すんだろ」
理一の言っている意味がわからないほど、ひなたも鈍感ではない。だが、理解したくなかった。正気か。ひなたは苛立ちを疑いに変え、理一に目を向ける。
「とばりを止められるのは、ひな、お前だけだ。なら、俺がやるべきことは、お前にその時間を作ってやることだけだろ」
成功率が高く、効率が良く、代償に見合う選択を、多くの人は最善の選択と呼ぶ。
おそらく理一は最善の選択をしたつもりなのだろう。
客観的に見ればそうかもしれない。理一ひとりの命で、日本を、世界を壊そうとしているテロリストを止められる。簡単なことだ。ひとりと大勢。天秤は常に質量の多い方へ傾く。それが世界の理だから。
でも。
「ムリ」
ひなたは一蹴した。選ぶ。ひなたにも、選ぶ権利はある。選んでこなかっただけだ。
今、ひなたは選んだ。
――とばりを止める方法。
とばりは、こんな力などいらなかったと言った。
ひなたは理を正す。ならば、理を壊すとばりの力を正すまでだ。命ではなく、とばりの持った力を。その壊れた理を、元に戻す。
「はあ⁉ ここにきてわがまま言うなよ」
「うるさい」
「だからお姫さまって言われるんだぞ」
「それは今、関係ない、でしょっ!」
パァンッ!
とばりが発砲した銃弾。それがひなたと理一の間を裂いた。ひなたは左へ、理一は右へ。気配を察知して飛びのいた理一の方へとばりの銃弾が続けざま牙をむく。ひなたは慌てて理一をかばうようにその銃声へ飛び込む。理一もまた、ままならない体を必死に動かしてそれらを避けていた。
「理一くんも中々しぶといね」
「簡単に死ぬような奴が、ひなを守れるかよっ!」
何度も死んでいるとばりに向けた挑発。理一は薄い患者衣のどこに隠し持っていたか、銃を取り出してとばりへ撃ち返した。とばりの舌打ちが聞こえる。撃ち返してこない。弾切れか、残り一発か。
理一もそれを察したのか、とばりへ数発撃ちこむ。元々銃の苦手なとばりのことだ。最後の一発ならば、確実に理一を仕留めたいと思うだろう。
そうと決まれば。ひなたは完全に理一へ気を取られているとばりの背後を取る。軽い助走から強く地面を踏み切って、ナイフを高く振りかざす。後頭部、その奥にある延髄を狙う。腕を振り下ろす。モーメントと重力が存分に乗っかったナイフの柄。
捉えた!
ナイフの柄に鈍く重たい衝撃が伝わる。とばりの後頭部を叩いた衝撃ではなく、とばりの撃った銃弾によってナイフが弾き飛ばされた衝撃だった。
ビリビリとしびれる手を大きく振る。これで銃は使えない。とばりは舌打ちをひとつ。そのままひなたの銃を捨てた。
彼の手からナイフが現れる。やはり、とばりにはナイフが似合う。
「邪魔をするなんてひどいなあ、ひなたちゃん」
とばりはゆらりとひなたの方を振り向く。ゾッとするほど深い闇をくるんだ瞳。ひなたが気圧され、無意識に体を止めた瞬間、今度はとばりの背後から理一の銃がとばりを狙っているのが見えた。ひなたはその軌道に視線を奪われる。
気づいたときにはとばりの姿が消えていた。
「しまっ!」
ひなたは失態を口にすると同時、本能的に理一の方へ跳躍した。
選ぶ。選ぶ、わたしは、わたしが、選ぶ。
手を伸ばせ――
ひなたの手が理一の胸をドンとついた。理一が体勢を崩して地面へ倒れ込む。勢いをつけたひなたもまた、理一に覆いかぶさるようにして地面へ転がった。
理一の口から漏れた息に、ひなたは思わず安堵する。理一を守れた。とばりに、理一を殺させなくて済んだ。
だが、目の前の理一はひなたとは対照的に、絶望の二文字を顔に貼り付けていた。
遅れて広がるじくじくとした熟れるような痛み。
ひなたの背中から腹へ向かって生あたたかい赤が伝う。
理一をかばい、とばりに刺されたのだとひなた自身が気づいたのは、
「ひなたちゃん!」
とばりが泣くような声で自らの名を呼んだときだった。