27.この世界が好きなの
「わお」
とばりの声が耳元で聞こえた。ひなたの銃弾を避けたとばりは、ひなたの懐に飛び込んで銃を持っていた手をがっちりと固定した。ひなたがそれを認識したのは、とばりからみぞおちに一発、蹴りを喰らった直後だった。
「ぐ……はっ! は、はあっ……」
息をはき出すので精いっぱい。それ以上は体が悲鳴を上げる。反射的に銃が手から離れ、とばりの足元に転がっていった。
「まさか、ひなたちゃんが僕を撃つなんて思わなかったよ」
撃たれた本人は飄々とした様子で立っている。ひなたが膝から崩れ落ちると同時、耳を突くような銃撃音が再び脳天に響く。仲間たちの援護だろう。爆音が体を軋ませる。とばりがひなたから離れていった気配がした。
当たっても死なないとはいえ、痛みはあるのか。とばりは銃弾を避け続けている。ひなたは、そんなとばりを目で追いながらゆっくりと息を吸う。仲間たちが銃撃によってとばりの足を止めてくれているその数秒のおかげで、冷静になれる。
とばりを止める方法。それを探す。探し続ける。
とばりは世界の理を壊す。時間に逆らうこともできると言っていた。ひなたが撃った弾は確かにとばりを捕らえていたはずだが、おそらく、時間を歪められたのだろう。だから、ひなたはとばりを視認できないままに蹴りを喰らった。
「なるほど」
厄介。そのひと言に尽きる。ひなたはせりあがってきた胃液をはき出して、口元を拭う。
「今のは効いた」
「僕としては、ひなたちゃんを傷つけるのは本位じゃないんだけど」
銃弾を避けながら、ひなたに返事をする余裕があるとは。不死身のテロリスト。その名前は伊達じゃない。
ひなたは苦し紛れに呟く。
「嘘つき」
最も聞いてほしかったのに、先ほどより更に遠のいたとばりには届かなかった。
傷つけたくないのなら、初めから戦わなければいいのに。
アスファルトに這いつくばったまま、ひなたは鈍器よりも重い粘性のある視線を送る。とばりはひなたの殺気立った視線を感じたのか、困ったように微笑んだ。その目は慈悲の色に染まっていて、ひなたを無性に苛立たせる。
ひなたはゆっくりと体を持ち上げた。まだ腹が痛む。内臓がおかしくなりそうだ。すべてが終わったら、精密検査をしなければならないのだろうか。先生に怒られるのは、局長に怒られるのと同じくらい苦手だ。ひなたは制服についた砂利を払って、息をはき出した。鼻から吸って、口ではく。じわじわと痛みが広がって、体中に分散されていく。
まだ、やれる。
ひなたが立ち上がったことで銃撃が再び止んだ。とばりは並みの人よりも速くひなたの前まで戻って来る。途中でひなたの落とした銃を回収することも忘れない。彼の手には二丁の拳銃。ひなたの手には、何もない。
「諦めてよ」
どう考えてもアドバンテージはとばりにあるのに、彼にしては乱暴な口ぶりだった。ひなたが道をあけないから、戦わざるをえない。結果、不本意にもひなたを傷つけてしまう。そんな裏側が透けて見える。それで苛立つ程度には、ひなたを傷つけることは本当に望んでいないのだろうということも。
「無理」
「どうして」
「どうしても」
「諦めて、僕と一緒に生きてよ。僕を、選んでよ」
「メンヘラ通りこして、ヤンデレになってますケド」
「溺愛系だってば。僕、これでもひなたちゃんのこと、本当に大切に思ってるんだ。理一くんより、ずっとね。ずっと、大切にできる自信もあるよ。ひなたちゃんをひとりにはさせないし、勝手に死んでいったりもしない。ひなたちゃんが死ぬときは隣で看取ってあげる」
ひなたも、とばりのことは大切に思っている。世界と天秤にかける程度には。だから、自分も同じようなものだろうと自覚はしているつもりだ。だが、こうして面と向かって言われると、返す言葉すら見当たらない。ひなた自身のことを棚に上げて言うのなら、重いし、キモイ。それで終わるのだけれど。棚には上げられないから、返答に困る。
「ねえ、ひなたちゃん。僕を選んでよ。世界は、また一から作りなおせるよ。僕らみたいな人をもう二度と生まないように、歪んだ世界を正していけるんだ。争いだって起こらないようにするし、もちろん、人殺しもさせない。ひなたちゃんが悪い人を捕まえる必要もないんだよ」
信じられないような夢物語。けれど、とばりは恐らくその世界の作り方とやらを知っているのだろう。そのために、ひなたの力を必要としている。
そんな世界ができたら、どんなに素晴らしいことだろうと思う。それが、本当に正しいことなのかもしれない。
でも。
「わたしは、今の世界が好き」
歪んでいても、間違った命を生んでしまったのだとしても、争いが絶えず、醜く、日々どこかで誰かが無意味に死んでいても。
だからこそ、人々はこの世界で一生懸命に正しさを探して生きていくのだ。
迷い続けて、悩み続けて、ときに間違う。それでも。選ぶ。自らの力で。選んで、生きていくのだ。
「自分なりに正しさを模索して、もがいて、あがいてる人たちが必死に生きているこの世界が好きなの」
ひなたはスカートをたくし上げ、太もものホルダーに挿していたナイフを抜き取った。
ナイフはとばりの専売特許だ。とばりの言葉を借りるなら、まだまだとばりには及ばない。
だから、ひなたも、まさか自分がこのナイフを握るときが来るとは思わなかった。体に染みついた記憶が指をすべらせる。柄に刻まれた凹凸は、見ていなくても彫られている文字を教えてくれる。
数字の二。それが何を意味しているのか、とばりがいなくなった三年間、ひなたは考え続けた。ふたり。その意味を噛みしめ続けた。
指先の感触に嫌でも思い出す。十五歳の夏。とばりが脱走する一週間前のこと。
いつもみたいに小高い丘でふたり、星空を眺めていた。
――これ、持ってて。
そう言って差し出されたナイフの重さは、今よりずっと軽かったように思う。
――いつか、ひなたちゃんが僕を殺したいと思ったら、そのナイフで僕の命を奪って。
あのときは、なんの冗談かと思った。とばりはギャグのセンスがなくて、それはもう壊滅的なほどで、だから、そのときもこんなことになるなんて思ってもみなかった。確かあのときは、センスが悪い、悪趣味だととばりに言って突き返そうとしたんじゃなかったか。とばりの命を奪う機会なんて来ないし、来ても殺さない。だからこんなものはいらないと。けれど、とばりは頑なに受け取らなかった。
それから一週間。とばりは、ひなたの前から消えた。
「約束、思い出してくれた?」
とばりはひなたが手に握ったナイフにうっとりと目を細めた。彼も思い出していたのだろう。美しい、三年前の記憶。まだ何も知らず、何者でもなかったふたりのことを。
ひなたはナイフをぎゅっと握りしめる。
小さく首を横に振る。
「もう、忘れた」
あの頃には戻れないから。
殺さないと言った過去の自分を、ナイフで切り裂いて、消してしまいたい。
ひなたがナイフを構えると、とばりも銃を構えた。