25.いきなさい
「捜索班より、了輪とばりの姿を捕らえました」
「処理班、現場へ急行」
「救急隊、出動準備完了。各管轄病院の病室を確保します」
「医療班は至急、各病棟患者の退避を開始してください」
イヤフォンに無数の指示が流れこむ。ひなたは大きく息を吸った。病室を出て、病棟を歩く。患者や看護師たちの流れに逆らう。その一歩一歩が重い。それでも足を上げて、前を向く。
とばりとの決着をつけるときが来たのだと本能が訴えかけている。
「ひなた」
不意に、ひなたの耳を突いた声。局長だ。彼女の専用回線は何よりも優先される。だからこそ、局長は不用意に回線を繋がない。必要な情報を取りこぼしてしまう危険もはらんでいるから。
それでも繋いできたということは、やはり局長もひなたと同じように考えているのだ。
決着をつけるときだ。
その結末の描き方は、ひなたと相容れないかもしれないけれど。
しかし、局長からの指示はひなたの予想に反して、たったひと言だった。
「いきなさい」
もう向かってる、と言いかけて違う意味だとわかった。咄嗟に口の形を変える。
たとえ倫理に反して生まれた命だとしても、その罪を背負い、罰を受け、償うまで生きる。
「わかってる」
それが、ひなたの選んだ答えだ。
この命だからこそ、とばりや理一に出会えた。
この世界は許しているのだ。理一の命を、とばりの存在を、ひなた自身を。
「生んでくれてありがとう、お母さん」
返事を聞かずに回線を切る。局長の驚く顔が見れなくて残念だ。今度から、局長の専用回線だけは映像もつけてもらおうか。ひなたはそんなことを考えて、ひとり笑みをこぼす。
うん、大丈夫。余裕もあるし、今なら考えられる。
夜にはまとまらなかった思考も、陽の光が導いてくれるように、朝には整理され、そこに道があると示してくれている。人間は先の見えない暗闇に本能的な恐怖を覚えると言う。昨夜はきっと、それだけのことだった。
病棟を抜ける。広々としたエントランスに人の姿はない。皆、避難を終えたのか。背後では病棟へ続くシャッターが下ろされていく。ここは通さない。国防局の意地がひなたの想いと共鳴する。
ここで理一が殺されてしまえば、次は先生だ。おそらく、局長が母なら、先生が父。ひなたたちを生み出した両親。
とばりはそれらをわかっていて決断を下したのだ。敵ながら、その魂胆には舌を巻く。
「人を殺すときまで、世界の基本通りね」
行動を起こすとき、人は段階を踏む。簡単なことから難しいことへ。シンプルなことから複雑なことへ。そうして人も、人が紡ぐ時代も遷移していく。
兄のような理一。父のような先生。そして、母のような局長。
人殺しの手順まで、世界の法則にのっとっている。とばりらしい。
かくいうひなたは、もうひとりの自分。だから、とばりはひなたを殺さない。
わかれば簡単なことだった。人は無意識にわかるものごとを、理と名付けたのだろうか。理解。よくできた言葉だ。
ひなたが病院を抜けるころには、病棟のあらゆる場所に処理班が配置されていた。病院を出た先には戦車まで止まっている。大げさだが、とばりにはこれでも足りない。自衛隊の車、救急車、消防車、パトカーも、人工島をせわしなく走っている。上空には無数のドローン。ヘリコプターの姿も見えた。
「お祭りじゃないんだから」
まったく嫌になる。ひなたは肩をすくめる。
とばりが来る方向は、それらすべてが教えてくれる。できる限り、理一から遠いところで戦いたい。時間を少しでも稼ぐためにはその方法しかない。
すでに封鎖されている人工島内部での決戦は、互いに背水の陣だ。とばりにとっては逃げ道のない状況だが、そのとばりが人工島内部にいる人間を襲撃するとなれば、こちらの不利にもなる。密室の中で犯人と一対一。今はその状況に近い。
歩調を少し早めたひなたは、病院との距離を計算しながら、とばりのもとへと向かう。
「接敵します」
処理班の声だ。認識した瞬間、前方およそ二キロ先から大きな爆発音が聞こえた。
始まった。
精鋭を集めた国防局とテロリストひとり。国の未来を賭けた戦争だ。
「チームワン、目標への着弾を確認」
「生体反応有り、次、来ます」
「チームツー、遠距離射撃準備完了、発射します」
ひなたはあちらこちらで上がる黒煙の中、一点に狙いを定めて飛び出す。防衛のために待機する処理班の人間たちを避け、舞う灰塵を切り裂き、降る瓦礫をかわし、弾丸のように空を貫いて走る。
「生体反応確認、応援を要請」
路肩に停まっていた車が指示と同時にエンジンをかける。その音に足の回転を速める。後ろから大型車両が接近してくる。タイミングを計って助走をつける。ひなたを追い抜く――今。ひなたは大きく跳躍した。
目の前を通り過ぎようとするサイドミラーを視認する。
「ふっ!」
決して丈夫とは言えないそれを気合で掴む。体重がかかり、ずるりと角度を変えたミラー。ひなたはその変形さえも利用して大きく体を振る。このまま掴まっていても良いし、あわよくば……。ひなたがチラリと助手席へ視線を投げると、中の人間はひなたに気づいてギョッとした視線を送り返した。割ってしまわぬよう軽くかかとでガラスを蹴ると、助手席の窓ガラスが開かれる。
「スピード、落として」
ひなたは開いた窓ガラスの隙間に指をかけ、サイドミラーと窓ガラスにかけた手の力で体を上へと引き上げる。サイドミラーがギィと音を立てて傾いた。
「ごめんなさい」
できるだけ大きな声で謝罪を述べて、車の天井に足をかける。そのまま体を持ち上げれば、自ら移動するよりも速い足が手に入る。速度を落とした車両になら振り落とされる心配もない。
ドンドンと二度、天井を叩かれ、ひなたも天井をたたき返した。それが合図だ。車は再びスピードを上げる。
後少し。
車体によって生まれた煙の隙間、とばりの特徴的な艶のある黒髪がなびいているのが見えた。いくらとばりといえど、多対一、しかも、通常であれば人間ひとり平気で殺せるような装備でこられては簡単に足を進めることはできないようだった。
ドクンとひとつ心臓が高鳴る。
覚悟を決めてきたはずなのに。とばりは不死身なのに。それでもやはり、とばりが苦しんでいる姿には動揺してしまう。何度でも。
ひなたはぐっと気持ちを飲み込んで、車体の縁を掴む。車の速度が下がっていく。とばりにそのまま突っ込むんじゃないか。そう思うほど車体が近づいた瞬間、ひなたは車から飛び降りた。
尻や膝で痛みを分散させ、アスファルトを転がり、とばりの前でスピードを殺す。
突然現れた白にとばりは目を奪われたらしい。珍しく動きを止めた彼の心臓を撃ち抜く銃弾がひなたを避けて降り注ぐ。それでもとばりは死なない。何度も死んで、生き返る。
銃弾の補充によって沈黙が生まれる。瞬間、血まみれで立っているとばりと視線が交わる。
呼吸ひとつ分も許さずに、ひなたはとばりの胸元めがけて地面を強く蹴り上げた。