24.いい薬ほど苦いもんだろ
「死なないでね」
ひなたは、ベッドの上でいまだ眠っている理一に呪いをかける。
「絶対に、守るから」
とばりに理一は殺させない。
とばりはきっと覚悟を決めている。けれど、覚悟を決めたからと言って、心が痛まないとは限らない。とばりに関しては、特に。
ひなたは、とばりの傷つく姿など見たくなかった。理一が死ぬところなんてもっと。
だから、とばりが理一を殺さぬよう、ひなたが理一を守り抜く。それだけが正しいことだ。その先に、何が待ち受けていようとも。
朝日が昇りきる。病室に光が差し込む。とばりはまだ来ない。多分、今日はしばらく来ない。ひなたの直感が、とばりを知り尽くした経験が、世界の理が、とばりの現れるタイミングすらも教えてくれる。
「りぃくんにお別れを告げる時間をくれるなんて、とばりらしい」
情けをかけられているというよりも、とばり自身、ひなた同様、決別に時間が必要なのだと思う。彼は準備があるからなんて馬鹿げた言い訳をして消えたけれど。
ひなたがふっと笑うと、理一の指がピクリと動いた。やがて、理一は長い眠りから目覚めるかのように、ゆっくりとまぶたを開ける。
「勝手に、殺すなよ」
掠れた声は、昨晩、ひなたを鼓舞したときと同じ。ずっしりと重くて、熱かった。
「りぃくんは寝てなよ」
「はっ、守られる騎士が、どこにいんだ」
理一は肘で体を支えて、上半身を持ち上げる。すさまじい回復能力だ。もう動けるなんて。これも、世界の理、そのでき損ないの成果だろうか。
それでも、まだ癒えていない腹部の深い切創が悲鳴をあげたらしい。ひりつく腹にほんのわずかに顔を歪ませた理一は、肺にためこんだ空気をはきだした。
「ムカつくぜ」
とばりにやられたことだろうか。それとも、自分の体が思うように動かせないことだろうか。そのどちらもか。
理一は素直な思いを虚空にぶつけ、大きな枕と壁に体重を預けた。いつもより低い位置にある双眸がひなたを見つめる。ギシリと軋んだ音がした。理一はひなたへと伸ばしかけた手を途中で降ろす。かわりに、その手はベッドサイドに置かれていたグラスを持ち上げる。理一は震える手で水を口に含んだ。
「……俺が」
理一は何かを言いかけて、
「いや」
と言葉を切った。たっぷりと息を吸う。彼の喉仏がコクリと上下した。
「俺が、寝てる間に、王子さまに会ってたろ」
ようやく聞き覚えのある理一の声になる。呼吸も安定している。口調も元通りだ。
そのせいで、先ほど何を言いかけたのか、ひなたにはわかってしまう。弱くてごめんなんて、死んでも聞きたくない。だから、ひなたもいつも通りを装う。
「テロリストに会ってたんだよ」
王子さまなんかじゃない。ひなたを迎えに来たことに間違いはないけれど。白馬にも乗っていなかったし、申し込まれたのは結婚ではなく世界掌握だ。そんな王子さまは、この世界のどこにもいない。
ひなたの返事に、理一は軽く笑った。
「全部、聞いたのか」
「りぃくんこそ、全部聞いてたみたいに言うね」
ひなたがじっと理一を見据える。諦めたみたいに、彼は視線を切った。空になったグラスを手で弄ぶ理一は、言葉にできないものを行動で外へ押しやっている。
「ひなの顔見りゃ、それくらいわかるさ」
ひなたと理一は長い付き合いだ。一緒にいた時間で言えば、三年前に脱走したとばりよりも長い。それだけじゃない。理一の方がとばりよりも少しだけ大人で、視野が広い。ひなたと似ている部分も多い。ひなたの理解度は確実にとばりより理一が上。その事実がくすぐったい。
「俺のことも、だいたいお察しって感じ?」
「名前が豪勢すぎなんだよ」
「それは俺の趣味じゃねえよ。名付けたやつに言ってくれ」
「でも、りぃくんはりぃくんだよ」
普通で、特別で、でもやっぱり普通の、大切な相棒。
以前、理一がひなたに言った。その言葉の意味が今更わかる。あのとき、理一は自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。似た者同士だ。とばりとは違う。
理一はグラスをベッドサイドのテーブルに戻すと、再び体を壁に預けた。やはりまだ全快ではないらしい。強がって、奥歯を噛んで、耐えている。それだけだ。
「今日、とばりがりぃくんを殺しに来るの」
「そんなとこだろうと思ったよ。厄日だな」
「……選べって、言わないの?」
「はは、俺と、とばりを? 天秤にかけろって?」
理一は口だけで笑って、氷柱のような眼光をひなたに向ける。気圧されてしまいそうになる。けれど、ひなたから始めた問答だ。逃げない。数秒にわたる長い沈黙。瞳孔のかすかな動きや、瞬きの数や、口元や喉元の微妙な変化から多量の情報をやり取りする。
やがて、理一が折れた。
「言わねえよ」
短く切って、明確にする。言葉以上に、理一からの強い意志が伝わる。絶対に曲げない。懇願されようとも曲げてやらない。そんな意地が悪いと思えるほどの意志が。
「ひなの選んだ答えが、世界の答えになる。それだけだ」
「嫌な言い方」
「いい薬ほど苦いもんだろ?」
「最近のいい薬はカプセルに包まれてるんだよ、りぃくん」
「おじさん扱いすんな、小娘」
理一の手がゆるりと伸びる。先ほどためらって、行き場を失った手は、今度こそひなたのもとへ伸びた。いつもなら払うその手をひなたは受け入れる。白髪を撫でる指先。とばりと違って冷たいそれが、丁寧に白髪を絡めとる。直接肌には触れない。そこに理一の配慮を感じる。いや、理一自身が引いたラインかもしれない。とばりと違う。理一は、土足でひなたの心を踏みにじったりはしない。
「……生きろよ」
おしつけがましくなく、けれど、理一の心からの願いがひなたの耳に届いた。
その意味がわからないほど、ひなたも子供ではない。
「うん」
「生きて、生きて、生きて、ひなが正しいと思った道で生きろ」
「ここにきて呪いじゃん、ウザ」
「俺にもかけたろ」
「呪いだよ」
「一緒だよ。呪いはかけたら倍返しされるもんだ。覚えとけ」
理一の手が離れていく。
窓の外で小鳥のさえずりが聞こえた。
「わかるか?」
「うん」
そろそろだ。とばりが来る。そんな予感が胸に走っている。鼓動が少しずつ早くなっていく。冷静でいたいと思うひなたの意識に逆らって、体温は上がり、血液は全身を駆け巡っていく。
「世界の半分だもん」
わからないはずがない。
理一は肩をすくめる。
「そこは、追いかけてるテロリストだからって言えよ」
「そうだった」
ひなたは体を反転させる。軽やかに、踊るように。病室の外へ出れば、そこはステージだ。とばりだけじゃない。世界は、ひなたのためにも舞台を整えている。
「りぃくん」
とばりとは違う。理一は別れを告げない。ひなたの背に見送る言葉もかからない。
だから、ひなたは約束を取り付ける。
「全部終わったら、パフェ、食べに行こう」
「俺、甘いもの無理」
「知ってる」
さよならも、バイバイも、またねも。何もない。別れなんか、告げてやらない。
ひなたは一歩踏み出す。病室の扉に手をかけ、振り返ることもしない。
「行ってきます」
病室の扉を開ける。
ふわりと春の風が吹き込んだ。