23.さよなら
「とばりを選ぶことはない」
それだけは、はっきりした。とばりを追いかけてきたことが確たる証拠だ。連れ戻すためか、殺すためか。それはまだ、決められないけれど。
とばりは
「そう」
と相槌をうっただけだった。こうなることを知っていたみたいな返事だが、とばりの胸にも、ひなたと同じ予感があったのだろう。
ひなたととばりは、この世界の表と裏だ。交わることは決してない。
「じゃ、僕らは敵同士だね」
「うん」
「もう、戻れないんだね」
「うん」
海の匂いには寂寞が混ざっていると思う。胸が痛むのはそのせいだ。
「今の世界が間違っていたとしても、それを正すためなら犠牲を払ってもいいなんて、わたしにはそう思えない」
「他の方法が見つかると思う?」
「必ず見つける」
「はは、ひなたちゃんらしいよ。羨ましい」
ひなたはスンと鼻をすする。とばりが立ち上がった気配がした。
直後、とばりの静かな香りに体が包まれる。夜の匂いだ。優しくて、穏やかで、誰にだって平等に訪れるやわらかな深い香り。
彼の黒いコートがひなたの体をあたためる。寒さから鼻をすすったわけじゃなかったけれど、ひなたは黙っていることにした。まだもう少し、とばりと話していたかった。
これが最後の、わがままだから。
「世界が、教えてくれるの。正しさを」
「うん、わかるよ」
「今のとばりのやり方は、間違ってるよ」
「はは、それは手厳しいな。でも、僕にはこれしかないんだよ。残念ながらね」
「うん、わかってる」
「僕、ひなたちゃんの力が欲しかったなあ。そしたら、ちゃんと正しいヒーローになれた」
「ヒーローになんか、なりたくなかった」
「テロリストよりはマシでしょ」
「それは、そうかもしれないけど……」
ひなたが苦い顔をすると、とばりは軽い笑い声をあげる。昔に戻ったみたいだった。
「わたしは、世界の理を正す力を、持って生まれたんだね」
とばりが世界の理を壊す力を持っているなら、ひなたが持っているものは世界の理を正す力だ。そういう風にできている。
「りぃくんも、わたしたちと同じなんでしょう?」
世界の歪んだ真実でさえ、雑談にしかならなかった。
「はは、さすがはひなたちゃん。理一くんは、僕らのプロトタイプだよ。でき損ないだけどね」
とばりの口調からは、バカにするような意味合いも、憐れむような温度も感じられない。でき損ない。その言葉から通常感じるはずの嫌悪感や悪意はなく、事実だけがあった。
理一もまた、ひなたたち同様に人の屍を材料にして作られた男。理、ひとつ。その名がすべてを教えてくれる。
「とばりは、どうして戻ってきたの」
「それを僕に言わせるの?」
とばりが顔をしかめた。本当に言いたくないのか、眉間にしわまで寄っている。
「三年も待ったの」
「ごめんね」
とばりは人を殺したときよりももっと申し訳なさそうに呟いた。ゆっくりとひなたの機嫌を窺うように視線を上げる。夜幕の下りた瞳には、星の姿どころか月すら見えなかった。
「僕が僕を理解するのに、時間が必要だったんだよ。寂しかった?」
「……知らない」
ひなたはわざと答えない。それこそが答えだ。とばりはかすかに口角を持ち上げた。
「ひなたちゃんはツンデレだね」
「うるさい」
「それでも、僕を選んではくれないんだね」
「うん、ごめん」
ひなたには、守るべきものがある。それが、どれほど歪んでいようとも。醜く、残酷な真実を秘めていようとも。
自らに従う。とばりのやり方は、間違っている。
犠牲を黙殺して成り立つ、そんな正しさなどいらない。
「もしかしたら、三年の別れじゃすまなくなるかもしれないよ」
「捕まえれば、戻ってきてくるんでしょう」
「局長が僕を許すと思う?」
「許してもらうよ。とばりは即戦力になる」
「あっはは、即戦力って。転職じゃないんだから」
「テロリストからの転職でしょ」
「そういう意味じゃなかったんだけどなあ」
とばりが困ったように笑う。ひなたはとばりの真意を無視する。
永遠の別れが来るかもしれない。
とばりはそう言っているのだ。どちらかが、どちらかを殺す。その可能性は充分にある。戦闘とはそういうものだ。命を奪い合うための手段だ。
「明日が、その日になるかもしれないよ」
「性格、悪くなったね」
「あっはは! やだなあ、元々だよ」
とばりはひなたの皮肉を笑い飛ばして見せた。ひなたにはその姿が、わざと悪役を演じているようにしか見えない。
「元々かどうかなんて、覚えてない」
嘘。嘘だ。とばりの優しさを覚えている。とばりの正しさを覚えている。とばりの生き方を、ひなたは覚えている。
けれど、とばりが
「それは良いことだね」
と静かにうなずいたせいで、話題は切れてしまった。とばりを良い人にできないままに。
「ねえ」
とばりがひなたの横にしゃがんで、そっとひなたの白髪を耳にかけた。ひなたがつられてとばりを見つめる。
初めてではない。何度も交わした視線。くすぐったくて、懐かしくて、嬉しくて、寂しくて、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ悲しい。
とばりの後ろが、うっすらと明るくなっていく。病院を飛び出した深夜。とばりのもとへ走り、とばりと会話をして、いつの間にか随分と時間だけが過ぎていたらしい。
――最後の朝がやって来る。
そんな予感がして、ひなたはとばりの顔を目に焼き付けた。
とばりもまた、ひなたをじっと凝視している。その夜が、沈むまで。
どちらともなく、目を閉じる。
ひなたの額に、やわらかな熱が触れる。軽い口づけ。その優しさに、すがりたくなる。
けれど。
「さよなら」
とばりはひなたの耳元でささやいた。
もう、幼馴染に戻ることはない。親友に戻ることもない。
ひとつになることは、ない。
強い力で体が引き寄せられる。背中に回された手が震えている。ひなたはとばりの首筋に顔をうずめ、耳元で彼の鼓動を聞いた。ひなたもとばりの背に手を回して、ぎゅっと強く抱きしめる。
朝日が差し込んで、灼けるような痛みが胸をつく。
ひなたはそれを飲み込んで、そっと手をほどいた。戻れなくなる前に。
とばりもまた、ひなたを閉じ込めていた手を解いて、ゆっくりと距離を取る。
ふたりの間に生まれた熱は海風が遠くへさらっていく。もう埋まることのない距離。二度と、交わることのないふたり。
ひなたも、とばりも、それを感じ取っていた。
風は捕まえられるが、夜は終わらせるしかない。
ひなたには、わかる。
理を告げる世界が語りかけていた。
「さよなら」
永遠へと続く四文字を。