22.もう、許してよ
「りぃくん……」
ひなたは理一の病室で、ひとりうずくまった。
いつもならひなたをからかって笑う理一も、今は浅い呼吸を繰り返すだけ。バイタルセンサが刻む理一の心拍も相槌の代わりにはならない。
ひなたはそっと理一の胸元に顔をうずめる。直接心音を聞けば、少しだけ冷静になれる。
「りぃくんは、知ってたの」
ひなたが気づけなかった世界の真実。とばりが国防局を脱走した理由。理一は気づいていたのだろうか。
理一の心臓がトクンと小さく跳ねている。イエスともノーともとれる一拍。いや、本当はイエスだ。ひなたの推測が間違っていなければ。推測というよりも勘や本能に近い、確信めいたものが、とばりの言葉を借りるなら世界の理と呼べるものが、ひなたに言う。
この男はすべてを知っている。だから、とばりに狙われているのだ。
「わたし、どうすればいいの……」
とばりを選べば、国防局は壊滅する。世界も崩壊するだろう。けれど、真実を知った今、とばりのしていることが悪いとは手放しに言えなくなった。ひなたこそ、他人の命を継ぎはぎされた存在だ。そのことを正しいとは思えない。
「何も、わからないよ」
ひなたは理一の眠るベッドへ顔を埋める。
いっそ、とばりを選んだほうが楽になれる。そんな気さえする。
とばりは不死身だ。失うことはない。ひなたの前から突然いなくなったりもしないし、誰かに殺されて帰ってこなくなることもない。期待も希望も抱かなくていい。絶望することもない。いくつかの必要な犠牲を噛みしめて、乗り越えさえすれば、後は楽になれる。それ以上の苦しみはやってはこない。
ひなたは唇を噛みしめる。疲れた。もう、疲れ果ててしまった。
誰かが殺されて、死んでいく世界も。傷つけあうことにも、それを、悪として裁くことも。
「……もう、終わりにしたいの」
言葉がシーツの上を滑り落ちていく。
誰かの悪が、誰かの正義になる。そんな世界で生きていくことは、ひどく難しいことに思えた。
「もう、許してよ」
もう、もう、もう。
ひなたは自らの指を理一の指に絡めて、強く、強く握る。
刹那、理一の指先がほんのわずかに動いた。あたたかな体温にひなたの心臓が跳ねる。
期待など、したくないのに。
「ゆる、さ、ねぇぞ」
途切れ途切れの声に、ひなたは顔を上げてしまった。希望にすがりつくように。
その瞬間に理解する。
――わたしはどこまでも、生きることを切望してしまう。
理一がうすらと目を開ける。くしゃくしゃの表情が、泣いているようにも、怒っているようにも、笑っているようにも見えた。
ああ。どんなに弱くて、もろくて、儚い夢みたいな未来でも、その光を掴みたい。
「生きて、る、の」
「あ、たりまえ、だろ」
ひなたは理一の手を握りなおす。理一は今度こそ笑った。
「選べ」
「……できないよ。わたし、とばりのことも、りぃくんのことも、国のことも。みんなを守りたい。そのために、わたしは生まれて来たのに」
「だったら、なおさら」
選ばなくてはいけない。正しさを。ひなたが信じたい世界の在り方を。
理一の言いたいことは、言葉がなくてもわかる。
「俺は、ひなを、信じる」
理一はゆっくりとひなたの手を握り返すと、再び目を閉じた。荒い呼吸が少しずつ落ち着いていく。一時的に意識は戻ったのだろうが、どう考えても万全ではない。今、理一にできる精一杯を成したのだろう。彼は、文字通り、命を懸けて生きている。
「りぃくん」
均衡を失って揺れ続けている天秤を止めるすべは、選ぶことだけ。
目には見えない正しさを推し量ることができるのは、自分自身だけ。
ひなたはゆっくりと息をはく。
どんな命であれ、奪うことを肯定してしまったら、ひなたはもう二度と自らの生きる意味など見いだせないだろう。どれほど良い世界を作ったとしても、それは、ひなた自身が望んだ世界ではない。ひなた自身が望んだ、生き方ではない。
ひなたが望む世界には、国防局があって、先生がいて、局長がいて、理一がいてくれなくては意味がないのだ。
とばりが、人を殺さなくてもすむような世界であれば、もっと良いけれど。
「わたし、行くね」
ひなたは大きく息を吸って、握っていた理一の手をほどいた。理一をまた起こしてしまわないようにそっと立ち上がる。
ここにいると、甘えてしまいそうになる。
ひなたはゆっくりと病室の扉を閉めた。理一はとばりではない。奪われてしまったら、もう二度とかえってはこない。失ってから気づいても遅い。
――それよりも先に、選ばなければ。
ひなたは病室を離れ、病棟を出て、一歩を踏み出す。夜風がひなたの白髪をさらう。
心地がいいだなんて、どうかしている。
深夜にも関わらず、いまだ国防局は明るかった。セントラルタワーは煌々と輝いていて、そこら中の信号機がせわしなく赤や緑に色を変える。とばりを探しているのだろう、ドローンはいくつも空を駆けている。そんな中をマスコミがヘリコプターを飛ばしていた。
皆が、了輪とばりというテロリストに翻弄され、動き続けている。
それこそ戦争だ。朝も、夜も、関係なく。生きるために、必死に足を動かしている。
ひなたは深呼吸を三度繰り返し、最後は短く息をはいて、軽やかにアスファルトを蹴った。
自分だけ立ち止まってなどいられない。
とばりを止められるのは、ひなただけ。世界が教えてくれている。その結末までは、残念ながら世界の理でさえ知らないようだが、ひなたにはもはや関係なかった。
理一の命が消えかけている。その事実に、ひなたは足を止められないのだ。
とばりが間違ったことをしている。その事実にも。
とばりとひなたが間違った命だとしても。それでも。
ひなたは迷うことなく地面を蹴っていく。とばりのもとへ向かう。誰もまだ見つけていない彼のもとへ。ひなたなら、見つけられる。導かれるように、ひかれあうように、ひなたは走る。走る、走る、走る。
いくつかの交差点を超え、階段を登り、坂道を登って、閉じられている門を乗り越える。
霊園は静かだ。死者の眠る場所だから、国防局の人間はこの場所を特別視している。行方不明者は年間約八万人。ここには、それ以上の墓がある。絶対的不可侵領域。国防局の人間はおよそ近づかない場所。ドローンどころか、監視カメラさえも設置されていない。その理由は聞いたこともないけれど。
「はっ……」
ひなたは切れた息を補うように、意識的に深く息を吸って最後の坂を駆けあがる。木々を抜け、暗い森を抜ける。何度も来た道だ。目をつぶっていてもたどり着ける。今日は特に月が明るい。月光も道を照らしてくれている。
海の見える小高い丘。
とばりのお気に入りの場所で、とばりと共に星を見た場所で、とばりを初めて弔った場所。
ひなたが草を踏み分けてそこへたどり着くと、やはりとばりの姿があった。
「思ってたよりも早かったね」
とばりは振り返りもせず、ひなたに話しかける。声色だけでわかる。本当に意外だと思っているようだった。
彼の姿を見れば、やはり動揺してしまう。共に歩んできた過去を、家族のような思い出を、体が覚えてしまっているから。
それでも、ひなたは震える足を必死に前へと差し出した。
ここで立ち止まっていてはいけない。答えなどまだ出ていない。それでも、止まれない。とばりがそうしたように、ひなたもまた、選ばなければならないのだから。
「もう、決めた?」
決めなくてもわかる。その予感だけが、胸に咲き誇る。
丘の頂上、座って海を眺めているとばりの隣でひなたは足を止めた。視線は合わせない。
この国か、それとも、幼馴染か。
ひなたは小さく息をはく。
覚悟などできていない。それでも、ひなたは理解している。
覚悟は、決めるものだ。