21.世界の理って知ってる
「やっぱり」
局長室の前を通り過ぎ、普段は誰も出入りすることのない階段に足をかける。隅にたまったほこり。その微量な変化から、とばりがここを通ったと確信する。屋上扉に手をかければ、ドアノブはすんなりと回った。鍵がかかっていたはずなのに。
外からの気圧に負けぬよう、重い扉を押し開けると、ぶわりと海風がひなたの白髪を巻き上げる。体ごと飛ばされてしまいそうな、どこかへ飛び立っていけそうな、そんな錯覚に陥るほどの春嵐めいた風。
ひなたの制服、膝丈より少し短いスカートがはためく。暴れるような風がこの後に起こることを予感させるようで、ひなたは口を強く引き結んだ。
夜景に照らされ、浮かびあがる他との境界線。屋上に並んだソーラーパネル、換気扇、タンク。その数々を避けて進む。
もう、驚かない。
「ひなたちゃんは、僕がどこにいても見つけてくれるんだね」
夜に溶け込んだとばりは、血だらけのカッターシャツを揺らして笑った。
「どうやって」
一度ならず二度までも国防局の監視下から逃れ、国防局でかくまわれていた警視総監を殺すなんて。それだけじゃない、ひなたの部屋への侵入も、死んでは生き返る体も。すべて。
「……本当に、知りたいの?」
人々の日常に縁どられて輝くとばりは、ひなたの想像を裏切って、少しだけ苦痛めいた表情を見せた。
「それが、わたしの責務だから」
「この世界には、知らなくていいこともあるよ」
「国防局にはそんなもの存在しない」
「ひなたちゃんには、あるんだよ」
とばりが目を逸らす。珍しいこともあるものだとひなたはとばりの一挙手一投足をじっと観察した。彼の手からナイフが現れやしないか。銃は携帯していないか。次の一歩は、どちらの足からか。
けれど、とばりは静かに東京の夜を見つめただけだった。
東京タワーと東京スカイツリー。淡く、静かに明滅する赤と青。いつも通りを演出しているそれは、テロリストにも釣り合うように設計されているらしい。
「……ファム・ファタルプロジェクト」
「え?」
「ひなたちゃんは、世界の理って知ってる?」
ひなたがそうであるように、とばりもまた、ひなたという人間をよく理解している。だから、とばりは本当に言いたくなかったのだろう。誰よりも傷ついたような顔で、いつもよりうんと暗いトーンでひなたに切り出した。
「僕らは、世界の理を司る力を持ってるんだよ」
突拍子もない話。だが、ひなたの脳が、心が、自然に受け入れている。
まるで、生まれる前から知っていたみたいに。
「国防局はファム・ファタルプロジェクトを立ち上げた。神さまを創る実験をしてたんだ」
「なんの、話」
「僕らは、そのプロジェクトから生み出された人間兵器だってこと。プロジェクトは秘密裏に人体実験をしてたんだ。知ってる? 日本って年間で約八万人の人が行方不明になってるんだよ。みんな、どこかに消えてるんだ」
「……それが、人体実験の結果だって?」
「さあね。でも、僕らが人体実験の果てに生まれたことは間違いない。多くの人々の血や脳、遺伝子を集められて、その結果……こんな風になった」
とばりはゆっくりと手を握って、開く。彼の体が夜の中に溶けていく。光学迷彩よりも、もっと純度の高い空気みたいな何かによって、自らの存在を容易く消してしまう。
「僕は世界の理を壊す力を手に入れた。人間の五感を阻害する。それだけじゃないよ。やってみたんだ。重力に逆らうことも、時間に逆らうことも。人が生み出した理すべてを逆行する。命の在り方でさえ」
とばりの姿が見えなくなる。
「とばり⁉」
彼がどこかへ消えてしまったことに、ひどく不安を覚えた。
世界の理。多分、それが、ひなたととばりに与えられた役割。幼いころから共に育った運命共同体みたいなふたり。切っても切れない関係性。
つまり、世界の半分。その片割れに囚われないでどう生きようか。
「とばりっ!」
「ここにいるよ」
とばりはひなたに触れる。目の前にいる。頬をすべる彼の指先、その熱がたまらなく恋しい。
「……プロジェクトは、ひなたちゃんだけを生み出したかったみたい。でも、実験の最中にちょっとした事故が起こって、ひなたちゃんの体はふたつになった」
それでは、まるで、とばりは生まれるべき命ではなかったみたいではないか。
ひなたの思考を遮ったのは、とばりの自嘲だった。
「でも、それも理なのかもね。事故なんかじゃなくてさ。だって、この世界は常に、ふたつの事柄で均衡を保ってるんだから」
国防局によって生み出された、人の英知を超えた人。
とばりはひなたよりも先に、そのことを知ってしまった。だから、国防局では生きられなくなった。この世界に絶望した。屍をほふり、倫理を欠落させ、それでもなお正義を振りかざす人間たちを、とばりはひとりでその身に負った。
もう二度と、そんなことをさせないために。
「神にでも、なった、つもりなの」
もはや誰に対する怒りかも分からなかった。ひなたが漏らしたうなりは、とばりの手によってあやされる。とばりがひなたの髪をやさしくすくいとる。気休めにもならない愛撫が、今はひなたのすべてだった。
「だから、知らなくていいこともあるって言ったのに」
とばりは静かに目を伏せる。
「賭けを続けるかい」
同情と憐憫を含んだ声色は、ミルクと砂糖をたっぷりといれたコーヒーみたい。甘くて、苦くて、子供には戻れないと知ったときのようなほんの少しの切なさがあった。
ひなたはまとまらない思考でとばりを見上げる。
何が正しくて、何が間違ったことなのか。それすらも今は理解できない。
捨てられていた命を、拾ってくれたのがこの場所だと思っていた。育ててくれた人たちが、自らの守るべき人たちだと信じていた。
でも。
逸らしていたとばりの視線が、ひなたの方へと向き直る。そこにはもう、先ほどの哀しみはなくて、代わりに意志の強い、いつもの夜があった。
「僕は、もう止まらないよ。僕は選んだ。三人目もね」
「三人目……」
「理一くんだよ」
「なっ⁉」
「四人目は先生、五人目は局長。この意味がわかる?」
国防局を破壊する。最も効率的で、人の心を折る方法で。
とばりは美しい笑みを浮かべた。つい数秒前のことをまるで帳消しにするかのように。彼の言う「世界の理を壊す力」。それを使って、時間を逆行したのかもしれなかった。
「殺さない、選択肢はないの」
「あったかもしれないね。他人を巻き込まず、自らの力を封印して、粛々と静かに平穏を生きる、そんな方法もあったのかもしれない。でも、僕には選べなかったんだ」
「わたし、は……」
それでも、とばりを間違っていると言えるだろうか。
間違った方法を選んだ国防局を、この国を、この世界を正そうとするとばりを。
ひなたが迷っているうちに、とばりは
「じゃあね」
と微笑んだ。
「え」
ひなたが止める間も与えずに、とばりは軽やかに屋上から夜へと向かってダイブする。
重力に逆らうというのは本当らしい。落下というよりは滑空のような軌道で、彼の体が小さく見えなくなっていく。この高さから落ちれば死ぬ。でも、とばりは違う。世界の理を破壊して、重力に逆らい、命に逆らう。きっと、地面には悠々と足をつけて生きていく。
――この世界を揺るがす悪人を殺すために。
「本当に、それが正しい?」
ひなたは見えなくなったとばりの背に尋ねる。
誰も答えは教えてくれない。ひなたが選ぶ以外には、答えなんてものはない。
そうと知っていながらも、ひなたは尋ねることしかできないでいる。そんな自分に吐き気がした。
深く、暗く、海の底よりももっと光の届かない場所。
ひなたは、今、そこにいる。