20.でも、今日は眠れないんだ
「もう大丈夫だよ」
自販機の明かりだけが足元を照らす真っ暗な廊下で、ひとり、目を閉じていたひなたに穏やかな声がかかった。
「先生」
ひなたが瞬きをひとつ。目を開くと、先生はマスクを外して柔和な笑みを浮かべた。
常に剣呑とした緊張感を孕んでいる国防局の人間とは思えない。ゆったりとした雰囲気を纏う医者は、白衣をこれまたやわらかにひるがえして、ひなたの前に膝をついた。ひなたの目線よりも低い位置から、色素の薄いオッドアイが覗く。
「あの理一がひなたちゃんを置いて簡単に死ぬわけないよ。安心して」
さすがのひなたも、先生に毒をはくことはできない。かと言って心の内を素直にはき出せるほど子供でもなく、ひなたはすべて飲み込んだ。かわりに、数時間ぶりに動かす足の感覚を確かめて立ち上がる。ひなたは目の前にあった自販機にスマートフォンを押し付けた。
「ごちそうしてくれるのかい?」
ひなたがうなずくと、先生は先ほどまでひなたが座っていた場所に腰を下ろして
「それじゃあ」
と壁にもたれかかる。素直に他人からの好意を受け取れる大人の余裕が、先生を先生たらしめているとひなたは思う。
「コーヒーにしようかな」
「眠れなくなるよ」
「はは、心配ありがとう。でも、今日は眠れないんだ。患者さんが多いからね」
先生は苦笑交じりにひなたの手からコーヒーを受け取った。
プルタブを開く音でさえよく響く。国防局の喧騒が嘘のように静かな病棟。
ひなたは周囲を見回した。ここは人の気配をほとんど感じさせない。静寂のせいか、国防局とは違う場所なのだと勘違いしそうになる。患者が多いと言った先生の言葉さえなければ。
随分と派手に戦闘をした。今日は軽傷者、重傷者問わず、警視庁の人間も含めれば、多くの人が手当てを必要としているはずだ。
「それに」
先生はアルミ缶を手で弄ぶ。先ほどと同じく、ひなたを見上げる先生の目が少しだけ切なく揺れていた。
「これから急患がくる予定になってるんだ」
ひなたの直感が告げる。とばりだ。
「……今更、診断なんているの」
「さあねえ。先生は患者を診てから判断するって決めてるからね」
今の時点ではなんとも言えない。それが先生の答えだ。それ以上は聞いても無駄だと経験則でわかっている。物腰こそやわらかいが、意志は固い。先生もまた、国防局の人間なのだ。
ひなたは先生の隣に腰かけた。質問を変える。
「りぃくんの部屋に、いてもいい?」
先生は真綿のような笑みを浮かべてうなずく。コーヒーを飲み干すと、先生はその場で缶を軽く放り投げた。計算され尽くした軌道。缶はガラガラとこの場には似つかわしくない音を立ててゴミ箱に吸い込まれていく。
「病室の場所、教えてなかったね。四階の一番奥の部屋なんだけど」
先生が立ち上がる。送っていくとも連れていくとも言わずに自然な足取りで前に立った先生は、しかし、数秒もせずに足を止めた。
「ごめん、ちょっと待ってね」
先生の耳にはめられたイヤフォン。ひなたのものとは別の回線を持つそれは、国防局管轄の病院や国防局内の医療班と繋がっている専用通信だ。先生はそこから流れてくる情報を精査しているようだった。
先生の綺麗なオッドアイが見開かれる。黒と青の透き通るような目に驚きだけが満ち溢れていた。
ひなたの胸に嫌な予感がよぎる。瞬間、ひなたのイヤフォンにも通信が入った。
「至急、国防局の各ゲートを閉鎖します」
「捜索班はターゲットの追跡を開始してください」
「情報部より、これより外部との通信を切り離します」
「国防局関係者以外の避難を開始します」
「ひなたちゃん」
いつもは落ち着いた先生の切迫した声にひなたは顔を上げる。
「急患が脱走したらしい」
先生の短いながらも的確な情報は、今の状況を把握するに最も適切だった。
ひなたは
「行きます」
と先生を置いて駆け出す。理一は頼れない。局長は警視庁との合同記者会見の真っただ中だ。動ける人間は限られている。国防局としても、これ以上の失態は許されない。マスコミ対策を同時に行うはずだ。更に人手は絞られる。
守るべきものが多すぎるとは言わない。だが、守るために必要な人員不足は否めなかった。
とばり。
その名を胸中で繰り返す。
向かう先は決まっている。セントラルタワー屋上。彼は必ずそこにいる。
第六感とでも言うべき痛烈な本能が激しく警報を打ち鳴らしている。このままではいけない。捕まえても、連れ戻しても、殺しても。今までの方法では、とばりを止められない。
必要な覚悟など揃っているはずもないが、ひなたとてこれ以上とばりの好きにさせてやるつもりはなかった。今のままでは、自らの存在価値すら見いだせない。
「医療班、ただちに救援願います!」
とばりのもとへと走るひなたのもとに悲痛な叫びが聞こえる。イヤフォンを通じていても分かる、聞きなれない声と指示。国防局の専用通信にも関わらず、声の主はおそらく国防局の人間ではない。
「警視総監が……!」
足の回転ギアを一段階上げる。ひなたはひと息を大きく吸い込んだ。
すべてが繋がった。いつだって直感だけが教えてくれる。世界の真実、その理を。
とばりが脱走し、国防局内でかくまわれていた警視総監を殺害。偶然にも警視総監の秘書か誰かが第一発見者になった。
国防局内で合同記者会見が開かれている最中は、マスコミ対応に追われて、どうしても人員の配置に偏りが出てしまう。わずかでも綻びが出れば、とばりはそこにつけ込んでくる。
予想の範疇にすぎないが、それ以上はないと言い切れる自信が湧き上がる。
「全部、とばりの手のひらの上ってわけ」
ひなたは舌打ちしたくなる気持ちをこらえて、懸命に足を動かす。
合同記者会見を開くことになったのは、警視庁での今日の騒ぎが外に漏れたからだ。とばりなら、小型カメラのひとつやふたつ、どこにでも仕込んでおける。ひなたと理一の写真を撮影すれば、後はそれをばらまくだけ。鯉が餌を奪い合い、水面へと顔を出すように、人間も金に群がるのだから。
わざと引き起こされた。すべて。
とばりはこれらを見越していたに違いない。今までもきっとそうだ。何があっても良いように準備するのは当たり前。いつ国防局へ連れ戻されようと、脱走できるようにタネを仕込んでいただけに過ぎない。そのときが来たら、仕掛けを放つだけで良い。
不死身なら、すべてのリスクも帳消しにできる。とばりの脱走劇、その舞台はいつでも整っている。
「笑える」
言葉とは裏腹に、ひなたの表情は険しかった。セントラルタワーの入り口を駆け抜け、ひなたは真正面のエレベーターに乗り込む。手をかざし、最上階までの直通コマンドをエレベーターへと送る。最高速で天へと昇っていくような感覚に、ひなたは目を閉じる。
覚悟を決めねばならない。
深呼吸を何度か繰り返し、最上階で止まったエレベーターから一歩、ゆっくりと足を踏み出した。