2.頭、おかしいんじゃないの
「意味不明なんだけど」
ひなたの返事に、とばりは子供のように吹き出した。
「嘘でしょ? これで伝わらないとは思わなかったよ。はあ……。でも……そうだね、ひなたちゃんって、昔からそういうところがあったよね」
ケラケラと無邪気にとばりは笑う。ひなた自身は、彼の言う「そういうところ」の意味がわからない。首をかしげれば、
「そういうところだよ」
ととばりに再び指摘された。なんかムカツク。幼馴染でなければ、大切な家族のような存在でなければ、今すぐにでも引き金を引けるのに。
とばりはひとしきり笑って、大きく息をはき出す。
「じゃあ、ひなたちゃんにもわかりやすく言うね」
改めて向き直った彼の、夜を閉じ込めたような瞳にひなたが映る。構えたままの銃口も。
「僕とひなたちゃんは特別な存在なんだ。ふたりでなら、この世界をもっと良くできる。国防局なんかやめて、僕と手を組んで。世界を掌握しよう」
ひなたととばりの間を窮屈そうにビル風がうねった。理解が出来ない。ひなたは片手でスナイパーライフルを支え、空けたもう一方の手で自らの頬をつねる。以前、理一が教えてくれた。
『夢だと思ったら頬をつねってみると良い、痛いならそれは現実だ』
痛い。
「何してるの」
「夢かと思って」
「はっ……あっはははははははっ! ほんと、ひなたちゃんって!」
とばりは腹を抱え、目元を拭う。
「夢だと思った? そんな訳ないじゃん。だって、僕、テロリストだよ」
ヒィヒィと笑いながら、とばりはあっけらかんと言い放つ。屈託のない表情は子供が将来の夢を語るときと同じで、ひなたは混乱してしまう。言葉と表情が不一致だと脳がエラーをはいていた。
「……わたしを」
ひなたは一拍呼吸を置いて、その言葉を咀嚼する。夢ではないと言い聞かせるために。
「テロリストに勧誘するなんて、バカげてる」
「そうかな? 世界最強の捕縛者と不死身のテロリスト。僕たちなら、どんな悪者でも排除できそうでしょ?」
漆黒の瞳が純真無垢に輝く。本当にそんな未来が叶うと信じて疑っていないらしい。
「その名前で呼ぶのやめて」
「ええ、せっかく僕が考えてあげたのに」
お前のせいか。
「センスゴミすぎ」
「そうかな? 気に入らなかったならごめんね」
悪びれもせずとばりは両手を合わせる。悪びれてもいないから
「話しが逸れたね」
と彼は当たり前のように仕切りなおした。
「とにかく! 僕と一緒に世界を掌握しよう。より良い世界ってやつを作るためにさ」
「……頭、おかしいんじゃないの」
「そう? でも、ひなたちゃんだって思うでしょ。今だって、ほら。密売人はノウノウと生きてるよ。あいつのせいで何人が死んだか知ってる? でも、警察は逮捕するだけ。あいつを殺したりはしない。それって変だと思わない?」
「あいつを殺しても、亡くなった人は戻らないから」
「でも、亡くなる人は減らせるよ。この世には、ああいうやつらが五万といるんだ。それを全部僕たちで捕まえる。そういう悪い人を生み出す社会を作ってるやつらもね。そうしたら、僕たちが世界を再構築できる。悪のない、本当の世界にさ」
話が通じない。ひなたは銃を構えなおした。出会った瞬間は、昔のとばりが戻ってきたんだと思った。だが、とばりはすっかり別人だ。こんなとばりをひなたは知らない。
三年前、脱走したあの日から。とばりはとっくに変わってしまっていたのだ。
「悪のない世界なんて、誰にも作れない」
ひなたの答えが気に食わなかったようだ。とばりの目がスッと細くなる。笑うためではなく、嫌悪を示すために。
「わたしの仕事はこの国を守ること。それ以上でもそれ以下でもない」
「相変わらず、頑固だね。それをやめようって言ってるんだよ。僕はさ、ひなたちゃんの能力がそんなことに使われてるのが惜しいんだ。もったいないよ。僕らなら、世界を変えられるんだから」
「世界を変えたいなんて思ってない」
ひなたの即答。とばりは少し意外そうに
「へえ」
と声を漏らす。とばりの想定にはない答えだったのだろう。ひなたがじっととばりを観察していると、彼は
「じゃあ」
と不思議そうにひなたへ視線を投げかけた。
「どうして悪い人を捕まえるなんて、そんな危ないことをしてるの?」
ひなたにも、自分の命を賭けている感覚はある。だが、その命は国防局に救われたものだ。賭けるべき相手を間違えているとは思わない。
「わたしは、わたしを育ててくれた人たちに恩を返すために働いてるだけ」
とばりはいよいよ正直にはき捨てた。
「面白くないね」
口元だけで笑う。
交渉決裂。その匂いを感じ取る。とばりの纏う雰囲気が変わる。友好的だった態度に小さな殺意の芽が生えていた。
「……それじゃあ、ひなたちゃんの中で、僕らはとっくに敵同士ってわけだ」
「そうかもね」
できれば、幼馴染に――唯一の親友だったころに戻りたいけれど。
とばりが動く。ひなたが引き金を引く。スナイパーライフルを使うには近すぎる距離。ひなたはすぐさま銃身を胸元へ構え、とばりが振りかざすナイフとぶつける。銃弾は彼の顔にひとつの傷もつけてはいなかった。ひなたは銃弾を外さない。つまり、とばりが避けたのだ。さすがは世界各国を騒がせているテロリスト。銃弾のひとつやふたつは見切れるらしい。一発の弾は理一への合図にしかならなかった。
「ひなたちゃんは、絶対に人を殺さないらしいね」
「だったら何」
肉薄するナイフ。とばりの狙いは的確だ。首筋、眼球、胸元。人体の急所だ。殺すつもりで刺しに来ている。対するひなたも長い銃身を駆使して身を守る。ときには体をよじって刃を受け流す。軌道は読める。考えも。同じ場所で育ったからだろうか。直感が叫ぶ。
――次は右、太もも。
ひなたは銃を回転させた。運動エネルギーを使う。遠心力のかかったライフルに、ナイフが勢いよく弾かれた。ガツンと音がする。切っ先が空を舞い、金属は西日にきらめく。瞬間、ひなたは右手を返し、銃をとばりの腹へ押し込んだ。
突き。
「ぅぐッ」
とばりから短く押し殺したような声が漏れる。みぞおち一発。ひるませるには充分だ。
捕えた。
ひなたは前に出した銃へ体を寄せる。とばりとの距離がグンと縮まる。銃のストラップが届く距離。
これでっ……!
ひなたが左手に銃を持ち替えた瞬間――
「甘いね」
とばりが後ろへとバックステップを踏んだ。突かれた衝撃を利用して距離をとる彼は、そのままひらりと手を振る。
「返事は急がないから。次に会うときまでに考えておいて」
とばりの姿は消えていた。
「なっ⁉」
とばりが屋上から飛び降りたのだと気づいたのは、瞬きをしたコンマ数秒後のこと。ひなたも先ほど同じことをした。きっととばりは見ていたのだろう。
五階から飛び降りた人間の生存確率は二分の一。
ひなたは道路を覗き込む。とばりはその二分の一の賭けに勝っていた。警察のパトカーを影にしてこちらへと手を振るとばりはすぐさま路地を曲がり、薄暮の中に姿をくらませる。
「……何なの」
本来ならば、ひなたは悪人を捕えるまで追いかける。だが、あまりの出来事に、ひなたはその背を呆然と見つめるしかできなかった。