19.死ぬなんて、絶対に許さない
「情報部より、警視庁での事件がマスコミにリークされています」
国防局管轄の病院に向かって走る救急車。浅い理一の呼吸の隙間に、国防局専用の通信が入った。
ひなたはただそれを聞き流す。いつものことだ。時折、妙に嗅覚鋭く事件の匂いを嗅ぎつける人間がいて、大抵の場合は声がでかい。情報戦を謳うメディア業界ではそういう人間が重宝されるからだろうか。誰も知らないお宝は人々の心に火をつける。一瞬にして燃え上がる。デマでもいい。視線を誘導し、耳を奪い、思考を扇動できれば、後はいくらでも金になる。
興味なんてない。いつもなら気にもとめない。だが、ひなたはスマートフォンを取り出した。一般回線に切り替える。理一のことも、とばりのことも、考えたくはなかった。
ネットニュースを開く。一面にデカデカと国防局の文字が見えた。
『国防局職員が警視庁内で暴動か』
『国防局と警視庁の対立⁉ 警視庁で発砲事件』
『警視庁内部でテロ発生 犯人は国防局職員』
様々な見出しはどれも一般人ならついタップしたくなるものばかりだ。国防局と警視庁の対立を煽る文言は完全なるデマだが、それが訂正されるのは皆が興味を失ったころだろう。たとえ一瞬の出来事であろうと、一度芽生えた疑念をなかったことにするには、相当な時間を要する。地中に張った根を刈り取るには、芽を摘むよりも労力がかかると決まっている。
「……バカみたい」
ひなたは何気なく記事をタップする。この短時間でネットにあげられるほどの文章を打ち出せる能力だけは褒めてやらなくもないが、その能力はもっと別のことに活かすべきだ。
ありきたりな定型文を読み飛ばし、画面をスワイプする手が止まった。
「っ!」
ひなたは、理一を抱く自らの写真を見つめる。
どこから撮ったのか、驚くほど綺麗な画質で撮られた写真は、プライバシーへの配慮という建前のもとでかけられたモザイクなど意味を成していなかった。ひなたか理一を知る人間が見れば簡単に特定できる。
「どうやって……」
ひなたは画像をタップして拡大表示する。
国防局か警視庁内部に裏切った人間がいるのか――
いや。ひなたは首を振る。こうして互いを疑い始めてしまったら、それこそこの記事の見出し通りだ。国防局と警視庁は協力関係にある。管轄も縄張りも完全に別れている。局長の腕か、揉めごともスキャンダルもない。対立を煽るようなことをしても得をする人間はいない。少なくとも、裏切る理由だってない。
「まさか……とばりに仲間がいる?」
単独行動だと思いこんでいたが、協力者がいた可能性は考えられる。とばりの理念に共感した信者の可能性も。
「だけど」
普通の人間では立ち入れないはずだ。とばりみたいな能力を持った人間なら別だが、そんな人間がふたりもいてたまるかと言いたくなる。それこそ、国防局の人間でなければ無理だ。国防局の人間にとばりが接触した? まさか。ならば、ひなたを真正面から勧誘する必要などない。いくらでも油断させておびき出せる。
ひなたの思考はとめどなく、ありとあらゆるパターンをはじき出す。だが、どれも今ひとつしっくりとこない。どれもすべて想像だ。何かひとつでも裏が取れない限りはその範疇を超えることはない。時折、これ以上はないと言い切れるだけの想像が浮かび、腑に落ちることさえあるというのに、今のひなたには、その直感すら降りてこなかった。
国防局専用通信は途切れることなくひなたの鼓膜を震わせた。いよいよ本格的なマスコミ対策が必要になってきたらしい。それもそのはず。国防局職員の中でもトップにあたるひなたと理一の写真がネット上に流出しているともなれば、その火は消さざるをえない。国防局職員たちの闊達な情報伝達がイヤフォンから流れ続けている。
「ただいまより、警視庁との合同記者会見の時刻を決定いたします」
「セキュリティ対策班、情報流出元の特定を急いでください」
「渉外班ならびに総務班はただちに記者会見場所の会場を設営」
「セキュリティ対策班より、情報の拡散および流出を抑制。該当記事の削除を開始します」
インターネットのページをリロードする。ひなたたちの画像が、観光庁から警視庁の屋上へとロープを使って移動する男を射撃している様子に変わる。テロリストへも配慮が必要なのか、とひなたは思わずため息をついた。わざと画質を下げているのだろう。荒いドットはとばりをほとんど特定できない。
スマートフォンへ夢中になっていたひなたの耳を甲高いエラー音が貫いた。何ごとかと顔をあげると、理一のバイタルセンサの値が赤く点滅している。
「りぃくん!」
ひなたは咄嗟に立ち上がる。救急車とはいえ、国防局までの道のりをそれなりにとばしているのだ。車内は多少なりとも揺れる。ぐらついた自らの足元、必死に踏ん張りをきかせ、ひなたはストレッチャーの上で浅い呼吸を繰り返す理一へ近づいた。
救急隊員が冷静に対処していく。酸素濃度を調整し、輸血パックを調整し、心拍を安定させようと手を尽くす。
先日救急隊員を襲い、遺体を奪った相手にも関わらず。さすがは国防局職員だ。
理一の顔色は先ほどより悪くなっていた。これからさらに悪化していくのだろう。人はいつだって急に死ぬ。最近、ひなたが知ったことだ。
誰も、待ってはくれない。
「……りぃくん」
ひなたはスマートフォンをしまい、イヤフォンを耳から引き抜いた。
国防局内に入れば嫌でも慌ただしさを肌で感じることになる。国防局が置かれた状況もそこで理解できる。今ひなたがすべきことは、情報収集なんかじゃない。
ひなたはそっと空いた両手で理一の手を握った。冷たい。いつもは熱すぎるくらいに思える理一の手が、こんなにも冷たくなるなんて知らなかった。
「りぃくん」
わたし、警視総監を選んだよ。
とばりだって、捕まえた。
ひなたは唇を噛みしめる。褒めてほしいとは思わない。警視総監を警視庁から逃がしたのは恐らく局長だ。とばりを捕まえたのも。
それでも、自分で選んだ結果だと言い聞かせなければ、ひなたは自らを保ってなどいられなくなりそうだった。
理一を繋ぎ止めておけるだけの自分でいなければならなかった。
どちらも救える方法を探す。それだけが、ひなたの選べた道だから。
「だから、ねえ」
もう一度、目を覚まして。
今度はとばりと三人で、一緒に国を守ろう。
ひなたは強く理一の手を握りしめる。
理一は今まで一度も間違えなかった。正しさを貫いた。その彼が警視総監を選べと言ったのだ。それが間違いでなかったと証明するためにも、理一には生きていてもらわねばならない。
「死ぬなんて、絶対に許さない」
怨念じみたひなたの口調にも、理一が笑うことはない。
救急車はレインボーブリッジを抜ける。見慣れた人工島。迫る景色のそのなんと遅いことか。
素知らぬ顔でなびく海。眼下に広がる青がひどくうらめしかった。