18.二度のチャンスはない
「いつか、こうなる気がしていたわ」
局長はガツンと大きく椅子を蹴った。局長を狙うとばりの銃弾はすべて射線を切られ、黒革の光沢に吸い込まれていく。椅子の影、死角から飛び出した局長の細くしなやかな腕がとばりの銃口を掴んでひねり上げ、そのままとばりの体を沈めた。流れるように彼女は肩の関節を外しにかかる。女性といえど全体重を乗せられては、男性でも太刀打ちできないようだった。
「……あ」
ひなたの喉元からは掠れた声が漏れ出ただけ。とばりをいとも容易く捕まえた局長は動きを止める余裕すらあるのに。
「そこで黙って見ているだけ? 良いご身分ね」
必死に局長の腕から逃れようと身動きをとるとばりを押さえ込むたび、局長のショートボブがかすかに揺れる。局長のすました顔からは、とばりがどれほどの力で抵抗しているのか全く想像できなかった。
「な、んで……」
「理由を説明しなければならないほど、あなたの頭は空っぽだったかしら」
ガクンととばりの肩が外れる。ひなたは思わず目を伏せた。肩関節を外された当の本人は力なく笑う。
「これはやられたね。まさか、ひなたちゃんにも情報を流してないとは思わなかったな」
「流すわけないでしょう」
とばりはすべてを理解しているようで、乾いた笑いに諦めを混ぜ込んだ。対して局長は苛立ちこそ表には出さないままに、とばりの首元へ膝を当てている。次は首の骨を折るつもりらしい。それともこれ以上抵抗させないための脅しか。容赦するつもりは毛頭ないらしい。
「ひなたの部屋に侵入したそうね」
「なっ⁉」
ひなたでさえ局長には話していない。対して、侵入したとばりは
「うまくいくと思ったのになあ」
と呑気に呟いただけだ。
「知らないとでも思ったのかしら」
ひなたの行動はすべて把握しているのだろう。知っていて、ひなたを泳がせていた。とばりを捕まえるために。
「すごいなあ。ひなたちゃんは気づいてなかったのに。どうやったんですか?」
「小型の盗聴器を作るなら、使う周波数には気をつけなさい。ノイズがのるわよ」
「これでも選んだつもりだったんですけどね」
「まだまだね」
局長はまるで子供に算数でも教えるかのような口ぶりでとばりの首元にのせた膝の力を強める。とばりの首に膝がめりこんでいく。とばりの表情がゆっくりと苦悶に満ちていく。銃で撃たれても痛がらなかったとばりが。
局長はひなたへ冷たい瞳の矛先を変えた。
「ひなた、わたしは言ったはずよ。了輪とばりを捕まえろ、さもなくば殺せと。あなたは何を選んだの」
何も、選べなかった。その結果がこれだ。
「二度のチャンスはない」
局長は今度こそひなたを見つめた。
局長の足元で、とばりもまたひなたへと懇願するような視線を投げる。とばりが苦しんでいる姿を見るのは初めてだった。ひなたの記憶の中のとばりは、いつだって笑っている。穏やかで、溌剌としていて、ときに残酷なまでに美しく。
だから、ひなたの心はまたしても揺らいでしまう。後先見ずに突っ込んだ、最初の勢いはすでに失われてしまっている。
「……や」
「やめないわ」
局長が先を制する。
「死なないらしいわね」
とばりの脳天へと銃を突きつけた局長に、ひなたは思わず叫んでいた。
「やめて!」
もうこれ以上、とばりが死ぬところを黙って見ていられなかった。
とばりがテロリストだといくら頭でわかっているつもりでも、心が追い付いていない。
十五年、とばりと過ごした思い出がひなたの心を埋め尽くしている。とばりがいなくなってからの三年も。悪い人間を追っていれば、いつかとばりともう一度会えるような、そんな気がしていたから続けてきたのだ。国防局への恩返しには違いない。違いないけれど。
親友を殺すことは、その中に含まれてなどいなかった。
「……いいわ」
局長は片手で銃をひなたへ放り投げる。ひなたの足元に滑り込んだ銃は、とてつもない質量を持っているように見えた。漆黒に輝く鋼鉄の塊。いとも容易く人の命を奪う道具にひなたの手が震える。
「ひなた、あなたがやりなさい」
局長はとばりを完全に押さえ込み、射撃訓練場の的と同じように静止させた。とばりは磔刑の青年よろしく小さくうなだれてもはや抵抗する様子もない。
殺さずとも、ここでとばりを捕まえることができれば、賭けが終わる。とばりを連れ戻し、またもう一度やり直すことができる。
だが、目の前にいる局長がそれを許さなかった。銃を取れとひなたに視線で訴えかける。訴えというより、命令か。
国防局を裏切ったら、ひなたこそ無事ではいられない。自分の命でさえ、天秤へかけられる。他人によって。でも……。
「早くしなさい」
冷酷な局長のカウントダウン。ひなたは震える手でゆっくりと銃に触れる。今までも何度も手にしてきたそれが、どれほど恐ろしいものだったのか、ひなたは初めて知った。
「局長」
またも、選ばねばならないのか。
ひなたは銃を構える。
とばりにではなく、局長に向けて。
「とばりを捕まえるんじゃ、ダメなんですか」
「二度はないと言ったはずよ。それとも、わたしを殺してとばりと仲間になるのかしら」
局長の笑みは恐ろしく鋭利だった。ひなたが戸惑いを見せた瞬間、局長の右手が背中に回る。銃を取り出すときの構えだ。反射的にひなたは引き金へと手をかけた。
「残念ね」
局長の手に小さな針が見えた。鈍く反射した銀の閃光。ひなたが発砲するよりも先に、局長自身の膝がとばりの首筋にめり込む。血筋を浮き立たせたそこに針が突き刺さった。
「――、はっ」
とばりの口から淡い息が漏れた。
制御を失ったロボットのように、局長の腕からガクンととばりの体が崩れる。
「とばり!」
「静かになさい」
ピシャリと一喝した局長の声に、ひなたの体が条件反射で固まった。幼いころから体に叩き込まれてきた局長命令。それがひなたの思考を奪い、一瞬の判断を遅らせる。
局長は艶やかな唇に人差し指を当てて、眠っている我が子をあやすかのようにとばりの体を持ち上げた。
「眠らせただけ。殺せないなら、こうする以外にない」
「……へ」
「連れ戻すんでしょう。了輪とばりは国防局で監視する」
ぐったりと腕の中で体重を預けるとばりを易々と運ぶ局長は、混乱するひなたの横を通り過ぎる。
「わたしが知りたかったのは、とばりの実力とあなたの覚悟。今回の件でよくわかったわ。ひなた、よく考えなさい。何がもっとも大切なことか。あなたが守りたいものは何か」
局長は小さく吐き捨てる。
「今のあなたは、国防局に必要ない」
警視総監室の扉が閉まり、ひなたはただひとりきり部屋に取り残された。
局長がとばりを捕まえた。とばりは国防局に戻ってくる。それが望んでいたことのはずなのに。とばりと共に暮らし、穏やかな日常が戻って――いや、多少はやはり悪い人を捕まえたり、悪い人と戦ったりはするのだろうけれど――理一と三人で、いつかのように過ごすことができるはずなのに。それなのに。
ひなたは何ひとつとして喜ぶことができなかった。