17.いけ
「撃てぇぇえええ!」
「全員出撃!」
人質となっていた理一が倒れたことで、皆が一斉に動き出した。
ひなたと理一の横を何発もの銃弾と人間がすり抜けていく。ひなたと理一が突破されれば、警視総監室は目の前だ。警視総監殺害を阻止するため、大勢の人間がとばりへと向かっていった。
ひとりの男がとばりの腕を掴む。同士討ちを避けるために止んだ銃弾。それこそがとばりの狙っていたこと。とばりは瞬時に腕を返して、男の腕を掴み返した。関節の外れる音。男が床にたたきつけられる。次々ととばりへ向かっていく男たちが、とばりに投げ飛ばされていく。足を払われ、顎を外され、骨を折られて、無残に倒れ込む。アクション映画のワンシーンでも見ているのではないかと思うほど予定調和な動きで。
とばりが先ほどまで血だらけになって倒れていたなんて、もはや誰も信じない。
不死身のテロリスト。
了輪とばりを最初にそう呼んだ人間は、どんな気持ちで彼と対峙したのだろう。
呆然と理一を腕の中に抱くひなたに、とばりが笑いかける。
「ひなたちゃん、今日も僕の勝ちだよ」
テレビゲームに勝ったときと同じ温度だった。ワールドカップやWBCの方がよほど盛り上がっていた。こんなに容易く笑えるほどの勝利ではないはずだ。文字通り、命を賭けて手にした勝利だというのに、とばりはあっけないほどあっさりとしていた。
「……どうして」
こんなことをするの。
わかりきった質問だけが、ひなたの口からついて出る。現実逃避に他ならない。今ひなたがやるべきことはもっと別にあるはずなのに、ひなたの体はひとつとして言うことを聞かなかった。
とばりは倒した警官のひとりから拳銃を奪い取ると、警視総監室の扉に手をかける。
「この世界を、本当に良いものにするためだよ」
何度も聞いた彼の夢。とばりが望むプレゼント。誰かに与えられるものではなく、自分自身でそれを掴みにいこうとしているとばりを、一体誰が止められるというのだろう。
この世界は、与えられたものだ。そう思っていたひなたには、とばりを止める資格などないような気がした。
もう、何も考えられない。
とばりに一刻も早く目の前から去ってほしかった。
夜はすでに明けているはずなのに、ひなたの目の前は真っ暗だ。
とばりはひなたの姿を心底痛ましそうに見つめて、ゆっくりと警視総監室の扉を引いた。
「……ひ、な」
薄汚れたひなたの制服をクン、と小さく引く力。ひなたがハッと視線を映せば、理一がうすらと目を開く。
「いけ」
それは、消え入りそうで、けれど、芯まで熱を帯びた命令だった。
守らねばならない人がいる。その扉が開かれようとしている。今、ひなたの手はがら空きだ。
「いけ!」
理一は血をはきながら叫んだ。警視総監を選べとひなたに命じたときと同じ声色で。
ひなたは弾かれるように立ち上がる。国を守る。それがひなたの責務だ。今は。
今は、それだけでいい。
警視総監室へと足を踏み入れるとばりの背中にタックルをかます。
「うぁぁあああああ!」
銃も、ナイフも、持っていない。丸腰のひなたは自分よりもウェイトのある相手を勢いに任せて押し倒す。後のことなんて考えていなかった。警視総監を守る。とばりは、連れ戻す。それだけだ。絶望の淵にいるはずなのに、どうしてか、もうどうなったっていいとは思えなかった。とばりを連れ戻す。とばりを連れ戻す。とばりを。その思いだけが体を突き動かしている。
「……あっははははは!」
とばりの笑い声がひなたの耳元で弾けた。
「いいね、そうこなくっちゃ」
とばりはひなたの寝技を利用して、自らの足をひなたの体へと巻き付かせる。
「ッく!」
ひなたの細い腰がぎゅうぎゅうと足で締め付けられ、背骨が嫌な音を立てた。体の内部に響き渡る異常音に、ひなたの力が緩む。なんとかそこから逃れようと体を丸め、ひなたはとばりと一緒に床を転がった。
「警視総監! 逃げてください!」
見えないままに、いるはずの人物へ指示を出す。警視総監室に立ち入られた今、ひなたが時間を稼いでいる間に逃がすしかない。警視総監さえこの場から逃げることができれば、後は外にいる警官たちが警視総監を守るはずだ。ここから脱出させて、しばらくの間雲隠れでもさせておけばいい。必要なら、国防局だって守ってくれるはず。
「早く!」
ひなたがとばりを抑止できる時間には限りがある。とばりとの体格差を考えれば、持って数秒。それ以上は今の状況ではひなたが負ける。
ひなたは無理やりとばりの綺麗な顔を両手で押さえこむと、とばりの寝技から抜け出して体を転がし、勢いを利用してすぐさま体勢を整えた。時間は稼いだ。重心を下げ、低く構えたひなたから、いつでもとばりの足元へ飛びつく覚悟が滲む。
とばりもひなた同様体を起こす。獲物を狩るライオンのようにゆっくりとその足を動かす。とばりの右手には銃が握られている。
間合いの読み合い。ひりつくような緊張感。ひなたもとばりも足を止めることはない。互いにその距離をはかりながら、スピードを変え、動きを変え、足取りを変えて睨みあう。
昔、訓練のときに何度か戦った。だが、そのときのとばりとは違う。東京タワーでの戦いを思い出せ。ひなたでさえ、とばりを認識できない時間があった。距離を詰められてから、彼の攻撃を避けるのは至難の業だ。
ひなたはゆっくりと息を吐く。
とばりの指がピクリと動いた。
ひなたが地面を蹴った瞬間、弾丸がひなたの白髪を巻き上げた。一発、二発、ひなたはとばりの動きを予測して避ける。三発目。
とばりがにやりと笑う。
ひなたの遥か右を通過していった弾丸。下手な射撃だと思いたかった。その軌道にひなたは即座に体を反転させる。だが、どれほど優れた人間でも弾丸には追い付けない。戦闘の最中、互いの立ち位置は常に変化し続ける。今、ひなたの右後ろにいるのは。
「警視総監!」
振り返ったときには、警視総監が普段座っている椅子の背もたれに弾丸が貫通していた。
ギィッと軋んだ音を立てて、椅子がゆっくりと回る。銃弾から受けたエネルギーが回転運動に変わる。椅子はやがて回り切ったところで静止した。
ひなたは目を見開く。
「こんなバカに育てた覚えはないわね」
そこに座っていた人物に、とばりもまた動きを止め――大声で笑った。
「あっはははははは! まさか、警視総監があなただったとは思いませんでしたよ!」
警視総監の制服に身を包む女性。それは囮。今朝がた、ひなたと理一が挨拶をしたときは紛れもなく警視総監本人だった。いつの間に入れ替わったのだろう。
警視庁内部に、それも、警視総監室前にいたひなたでさえ気づかなかった。外から侵入したとばりが気づくはずもない。
「お久しぶりです、局長」
「三年ぶりね、とばり」
ショートボブを揺らした局長が、とばりへと銃口を向けていた。