16.君はどっちを選ぶ
「殺す」
理一のうめくような声が聞こえる。だが、とばりは気にもとめず、理一の右肩を抑え込むようにして彼の体にまたがった。肩と胸を押さえ込まれてはさすがの理一も簡単には動けない。とばりから抜け出そうと必死にもがいているが、屈強な体をもってしても状況を覆すことは難しいようだった。
「ひなたちゃんに選ばせてあげるよ」
「ひな! やめろ! 聞くな!」
「理一くんと、警視総監。君はどっちを選ぶ?」
――わたしと警視総監、どっちを選ぶ?
昨日、理一に聞いた質問が、まさか自らの目前に突き付けられようとは。
「ひな!」
「うるさいなあ」
とばりのナイフが理一の左肩を突き刺した。
「あ゛ぁぁああ゛あっ!」
「りぃくん‼」
「ほら、ひなたちゃん。選んで?」
フーッ、フーッ、と痛みを押し殺すような理一の荒い息遣いだけが廊下に木霊していた。
周りの人間たちも、理一を人質に取られている以上下手な手出しはできない。このままでは、警視総監もろとも全員がこの男に殺される。そう簡単に理解できるほど、とばりの纏う空気が警視庁を覆っている。
「……わたし、は……」
扉の向こうに、警視総監がいる。ここを通せば、警視総監といえど、とばりにあっけなく殺されてしまうだろう。日本の安寧を守るトップの人間がテロリストに襲撃される。昨日総理大臣が殺されたばかりだというのに。日本の重役が同一犯の手で立て続けに葬り去られるなんて前代未聞。今はひとつの命でも、繰り返されれば足し算ではすまなくなる。この国は大きく揺らぐ。三人目は誰だと皆が疑心暗鬼になり、四人目、五人目と殺されるうちに、不信感を持った国民たちが暴動を起こす。
国が、あっけなく崩壊する。
国か、相棒か。
天秤がどちらに傾いているかなんて、考えなくてもわかる。レバーをどちらに引けば良いかなんて、目をつぶっていてもわかる。
でも――
「ひなたちゃんは優しいね。やっぱり、ひなたちゃんを誘って良かったよ。この先、良い世界を作るためには、ひなたちゃんは絶対に必要だ」
とばりは恍惚とした笑みを浮かべた。
彼の描く理想的な世界。そこではきっと、人殺しなど起きず、犯罪なんて言葉が消えて、皆が助け合い、手を差し伸べ合って生きているのだろう。
ひなたのように、人殺しを嫌い、たったひとりの相棒と一億人以上の国民を天秤にかけて迷うようなそんな甘くて優しい人間だけの世界になる。
「ひな!」
理一の声がひなたの耳に響く。したたり落ちる血。痛みを抑えてでも、理一はまだあがいていた。
「選べ! 警視総監だ!」
「選ぶのは、ひなたちゃんだよ」
とばりの表情から一気に温度が消える。冷ややかなまなざしで理一を見下すと、とばりは再びナイフを振り下ろした。理一の左脇腹、刺さるナイフが鈍く光る。先ほどとは比べ物にならないほどの血が噴き出て、理一の口からはいよいよ言葉にもならない慟哭が漏れ出た。
「りぃくんっ!」
ひなたが引き金を引き、とばりを殺すことさえできれば。
それで済む話なのに。
ひなたの手はもはや震えていて使いものにならなかった。今引き金を引いても、とばりには当たらない。仮に当てられたとしてどうだ。とばりは不死身だ。また生き返る。そのとき、とばりは今度こそ理一を殺す。警視総監も。
人間の手はふたつ。理一と警視総監、本来ならば、どちらも救えるはずなのに。
ひなたの手には今、ひとつの銃が握られている。そのせいで、ひなたは片手しか使えない。
「……もう、やめて」
とばりも、理一も、この国も。ひなたには選べない。
ひなたはゆっくりと腰をかがめた。床へ銃を置く。震える手。銃がカタリと音を立てる。
「もう、こんなの嫌……」
源ひなたは世界最強の捕縛者だ。だが、源ひなたは、まだ十八にも満たない女子高生でもある。
三年前に失った唯一の幼馴染であり親友を簡単に殺せるほど、大人ではなかった。
国のために、家族のように時間を共に過ごした相棒を見殺しにできるほど、大人ではなかった。
自らの未熟さが悔しくて、苦しくて、悲しくて、痛い。
それでも、ひなたは両手を上げて立ち上がる。そうするしかできなかった。
とばりの顔が美しく歪み、彼の体が理一から離れる。とばりはひなたの決断をまるでおいしい料理でも食べるときみたいに噛みしめて、ゆったりとした足取りで歩く。
「やっぱり、僕の世界にはひなたちゃんが必要だよ」
とばりが笑みを浮かべ――
ダァンッ!
ひときわ激しい銃声が廊下に響き渡る。ひなたでさえ、その弾道に切り裂かれた空気の勢いを肌に感じることで精いっぱいだった。
とばりが胸を押さえて地面に倒れていく。
崩れ落ちていくとばりの後ろに、荒い呼吸で、震える手で、銃を握っている理一の姿が見えた。
「は……はは……」
まじでクソだ。
理一の掠れた声がわずかに空気を震わせる。発砲音で鼓膜が正常に機能しきっていないひなたには、ほとんど聞き取れなかったが。
理一は血だらけの体をわずかに残った気力だけで持ち上げると、倒れたとばりへと近づいていく。対して、傷ひとつないひなたの体は動かなかった。
三度目の死。何度見たって、見慣れることのない死。
彼を殺したのは、幼馴染と同じくらい大切に思っている男。
倒れ込み、血だまりを作っているとばりの死体に理一が近づく。足がふらつこうとも関係なかった。最後を看取らねば気が済まないのだろう。
「お前に、銃の、扱いを……俺が、教えたことは、なかったな」
理一は途切れ途切れに息を吐き出す。理一の体も限界が近い。ふたりの血が混ざりあう。理一もほとんど倒れこむようにとばりの死体にかぶさって、やがて、とばりの体を持ち上げた。
理一は、自らが弾丸を打ち込んだその心臓に耳を当てる。
「もう、生き返んなよ」
理一はとばりの頭に銃口を突きつける。
だが――
その引き金が引かれることはなかった。
とばりが先ほどそうなったように、理一の体が地面へと吸い寄せられたのだ。
「生き返ってるわけじゃないよ。僕は、死なないんだ」
立場逆転。理一の体を抱えたとばりが手を血まみれにして目を伏せる。
「りぃくん! りぃくんっ‼」
ひなたの足は、もう止まらなかった。何度も大切な人を失うわけにはいかなかった。理一はとばりとは違う。失われてしまったら、もう二度とは戻らない。
理一の体をとばりから奪いとるように抱き寄せて、その顔をのぞきこむ。理一はかろうじて息をしていて、けれど、彼の体からは力が抜けていく。
死んだとばりを初めて抱えたときと同じ。海の底へと沈んでいく感覚だけがひなたを支配する。
とばりはそれを止めることもせずに、ただ静かに、悲しみに満ちた目でひなたたちを見降ろしていた。
彼の手には、真っ赤なナイフが握られていた。