15.じゃあ、お前が撃て
「久しぶりだなあ、とばり」
ひなたをかばうように前へと歩み出た理一に、とばりはやわらかな笑みを浮かべた。
とても後ろから発砲されているとは思えないほど優雅な足取りで、とばりはそのすべての銃弾を避ける。いや、いくつかはとばりの体をかすめていた。痛覚を失っているのか、それともその程度の痛みで足を止められるような思いではないのか、とばりは着実に足を前へと進める。
理一のうなじをひと筋の汗が伝っていく。ひなたはその様子にひとり、背中に隠した銃へと手を伸ばす。
「久しぶりだね、理一くん」
とばりは笑みを崩さない。ひなたと出会ったときと同様に、その再会を心の底から喜んでいるようだった。
「まさか、理一くんにも会えるとは思わなかったな」
「元気そうじゃねえか」
「理一くんに色々と教えてもらったおかげだよ」
幼いとばりに戦い方を教えたのは理一だ。なんでもありの総合格闘技で、高校生にしてチャンピオンを取った理一。どこで覚えたのかロシアの軍隊格闘術やらイスラエル国防軍直伝の近接格闘術やらを会得した彼のもとで育てば、誰だって日常のトラブルくらいは簡単に潜り抜けられる。テロはそこに含まれていないはずだけれど。
「人を殺すために教えてやったわけじゃねえんだけどな」
「あはっ、それは仕方なくだよ。僕だって、そんなことがしたくてしてるわけじゃない」
「その割には、世界を掌握するんだって?」
互いに距離をはかりながら、ジャブを繰り出し、ときに相手の体を掴みにかかる。身軽なとばりと無骨な理一はそれぞれの得意な間合いで腕や足を使う。
「そうだ、よっ」
とばりの回し蹴り、理一は避けるでもなくそこへ向かって突っ込んでいく。足元へ入り込むと体をひねってとばりの背中へと肘を落とす、がそれもとばりは読んでいる。頭から前転すると理一と距離をとった。
「ひなたちゃんと一緒にね。悪のない世界を再構築するんだ。理一くんもどう?」
「ご立派なこって」
理一はとばりに向かって駆け出した。予備動作もなく先ほどまでと同じ軽い一歩のステップを跳躍に変え、理一はとばりへと差を詰める。流れるように繰り出される蹴り。体を逸らして避けるとばりの右足から血が滴り落ちていく。先の銃撃で負った傷だろう。とばりの動きは、今までに見た中で最も緩慢だった。それでも理一の蹴りをかわせるのだから、並みの人間以上だが。
「はっ、その程度かよ」
理一もとばりの動きが鈍っていると感じ取ったか、軽く笑って、さらにとばりとの距離を詰める。繰り出された左ストレート。とばりはかわさず腕で受ける。仕返しとばかりにとばりの左拳がうなる。見切る理一。避けて距離を取る。ひなたはその隙に、理一の影へ隠れて銃を取り出した。
こちらは二対一だ。
理一が動く。合わせて、死角からひなたが引き金を引く。
「チッ」
とばりが咄嗟に身をひねった。弾丸がとばりの脇腹をかすめて空を切る。
「ははっ」
追い詰められてもなお、笑う余裕がとばりにはある。だが、銃弾は止まない。今度はひなたのものではない。警官と国防局職員のものだ。十七階には足を踏み入れるなと言っている。だから、彼らが陣取っているのは十七階へと続く階段の上と下。わずかな場所だが、照準の中にとばりが入ればいつだって引き金を引く準備はできている。
「まったく」
嫌になるよ、ととばりが呟いたのが聞こえた。理一も、ひなたと周囲の射撃位置を計算しながらとばりへ攻撃を続ける。さすがに気づいているのか、とばりも銃撃される範囲へは寄り付かない。理一を盾にし、身をかがめ、時には廊下のわずかな凹凸を掴んで空を移動する。
対する理一は、警視総監室からとばりを引き離す。やがて、まっすぐに続いていた廊下が終わる。とばりの背に壁が近づく。そのまま曲がればとばりは逃げ切れる。だが、警視総監室へは近づけなくなる。
「チェックメイトだ」
理一がとばりを追い詰めた瞬間、とばりは曲がり角を駆使して壁を蹴った。以前、東京タワーで見た爆発的な跳躍を使った三角飛び。重力を無視した軽やかな体。バネのような動きには、理一もひなたも後退を余儀なくされる。予想できない動きはそれだけで思考を奪う。特に戦いの場では。とばりのジャンプは、一般人にとって充分な威嚇になる。
「さすがに今のはやばかったね」
とばりと理一の場所が入れ替わる。理一はすぐさま体勢を立て直した。
「まだまだ」
理一が再びとばりへと肉薄する。瞬間、ひなたは叫ぶ。
「右!」
前にも一度見た。手品のようにどこからともなくとばりの右手に現れたナイフが理一の頬をかすめる。
「ハッ」
「理一くん、少し弱くなったんじゃない?」
「どうだか」
理一は切られた頬をかまわず、とばりの振り戻された右手をガードする。そのまま理一はとばりの右手を掴むと、思い切りひねり上げた。
「ひな!」
ひなたは引き金に指をかける。
心臓に一発。打ち込めばすべてが終わる――
人差し指に力を込めたそのとき、とばりの暗い目がひなたを貫いた。
本当に?
「……っ!」
ひなたの心が揺らいだ一瞬。とばりが動いた。拘束されていない左手、そこに現れたナイフが自らの右手ごと理一の手に貫通して突き刺さる。
「い、ってえな、クソが」
「りぃくん!」
まさか自分の体ごと刺しにくるとは思わなかったのだろう。理一の右手が緩む。とばりはボタボタと血をこぼしながらも、右手を引き抜いた。いまだ思考のまとまっていない理一にとばりの蹴りが入る。
「グ……ッ――ガハッ」
理一の巨体が宙を舞い、大きな音を立てて廊下へ転がった。理一の手ににじむ赤が警視庁の白い廊下を汚す。詰め寄るとばり。振りかざされるナイフ。
「やめて!」
ひなたが引き金を引く。ひなたは銃を外さない。とばりは銃弾を目視もせずにナイフで弾き、ゆっくりとひなたの方へ振り返った。
「ねえ、ひなたちゃん」
「な、に……」
ひなたの銃を持つ手が自然と震える。とばりを殺せるか? その問いに答えられる自信がなかった。
とばりの後ろで理一がゆらりと起き上がる。とばりは理一の後方からのパンチを片手で受け流してみせた。だが理一の拳は止まらない。とばりはそのすべてをいなす。理一から教わった体術だ。とばりは理一の癖を知っている。体に記憶している。理一が次に何を繰り出すかなんて簡単に読めてしまう。ひなたも同じだ。だからこそわかる。
「りぃくん、やめて!」
かなわない。理一では、とばりを止められない。
「ひな! じゃあ、お前が撃て!」
理一は苛立ち紛れにひなたの名前を呼んだ。彼自身も気づいているのだろう。今、とばりを殺せるのはひなただけだ。
「僕、良いこと、思いついちゃった」
とばりが笑う。真っ暗な夜、くっきりとひなたを映す眼差しがきらめく。
とばりの後ろから飛び上がった理一。とばりの脳天を貫くように振り上げられた腕。
「りぃくん!」
ひなたの叫びは間に合わなかった。
とばりがその腕をがっしりと掴み、理一の体を投げ飛ばす。背負い投げ。ダァンッ! と発砲音にも似た激しい音が警視総監室の前に響き渡る。
ついで、とばりが理一の首にナイフを押しあてた。
「ふたり目、警視総監じゃなくて、理一くんにしようか」
とばりの目には爛々と星のような輝きが灯されていた。