14.俺は決めた
「各自、配置についたらターゲットが現れるまでは待機してください」
早朝五時。夜明けとともに警視庁は動き出した。
すでに、とばりからの警視総監殺害予告は国防局からの正式な伝達として警視庁内部にもいきわたっている。国防局の人間も昨日ひなたが予測した侵入ルートに配置され、通常の二倍以上にもなる警戒態勢が敷かれていた。
警視総監は昨日から寝ずの番で見張り付きの中、今朝も通常通り執務にあたっているというから驚きだ。今日は一日、ひなたと理一の二人で警視総監室の前を見張る。今朝がた、ひなたと理一に
「よろしくお願いします」
と頭を下げた鈴木警視総監は、警察官らしい豪胆な顔つきをしていた。簡単に死ぬような人間には見えない。だが、ひなたにはその頼もしささえ、胸をざわつかせる一因になる。だいたい、ホラー映画ではこういう男から死ぬものだと相場が決まっている。
ひなたは静かにとばりを待った。気配を探り続ける。
警視総監室前の廊下には、ひなたと理一だけ。人が多すぎても邪魔になるから、と理一が警察や国防局の人間を追い払った成果だ。とばりは気配を消すのがうまい。ひなたでさえ意識していなければ全く気づけないほどに。
緊張の糸がどれほど持続するかはわからないが、とばりはその糸が緩んだところから必ず現れる。わずかな隙間から風が入り込んでくるように。
「ひな」
「何」
「こっち見て」
「嫌」
「いいから」
とても警備についているとは思えないほど能天気な理一の声。これ以上話しかけられ続ける方が迷惑だ。ひなたは思い切って理一の方へと顔を向ける。
「なっ……」
変顔の理一に、ひなたは絶句する。
緊張をほぐそうとしてくれているのだろうか。ありがたい限りだ。
「バカじゃないの」
建て前と本音が逆転してひなたの口をついた。理一は瞬間、スンと真顔に戻して
「ひどい」
と泣き真似をする。ひどいのはどちらだ。応戦したくなる気持ちをぐっとこらえて、ひなたは無視を決め込んだ。
「ひな」
「もう二度と見ない」
「えぇ……。そんなカリカリしなくてもさあ」
確かに、とばりが現れそうな場所には何人もの警官や国防局職員が待機している。ひなたたちのところへとばりが現れるのは最後の最後だ。とばりが現れてから、準備をするまでの時間は充分に確保されている。だが。
今までとばりと対峙してきたひなたにとって、それは万全ではなかった。
「もう、後何時間待つかわかんねえんだぞ。飯だって途中で食うかもしれねえし」
「食べない」
「トイレだって行くかも」
「行かない」
「それは無理だって」
「だとしたら、そのときはわたしたちの負けだよ」
「とばりが来なきゃ、何も問題ない」
理一はあっけらかんと言い放つ。とばりが来てからではすべてが遅い。だから、その前にできる限りのことをする。それだけなのに。
「リラックスするのも、本来の実力を発揮するための準備だってこと」
理一はゆっくりと深呼吸を繰り返す。待っている間の緊張でさえ、彼は楽しんでいるようだった。
「とりあえず、眠いからしりとりして」
「嫌」
「野球」
「うるさい」
「いかり」
「……りぃくん」
「あ、ひなの負け」
「もう!」
このまま、何も起こらないんじゃないかって錯覚する。とばりはやっぱりあの時死んでいて、昨日の出来事は長い悪夢で、こうして理一とバカ話をして、時々悪い人を捕まえる。ひなたにとっては当たり前だったそんな日常が、また戻ってくるんじゃないかと。
「やめて」
ひなたが理一を睨むと、理一は肩をすくめた。
「じゃ、雑談にしよう」
「りぃくんと話すことなんかない」
「昨日の質問だけどさ」
理一の切り出した話題に、ひなたは思わず口をつぐむ。ひなたがした質問だ。
警視総監か、それともひなたか。
どちらを選ぶかと聞かれた理一はそれに答えなかった。かわりに、ひなたへ告げたのだ。その覚悟ができていないのはひなたの方だと。
「ひなは警視総監を選べよ」
「……何それ」
「今日も、ひなの覚悟ができてないみたいだから。優しい人生の先輩からの忠告ってやつ?」
「言われなくても」
「わかってないデショ。だから、言ってやってんの。ひなに余裕がないのも、とばりと戦うことになったとき、ひなが勝てる自信がねえからだ」
ひなたの心臓がキュッと掴まれたみたいに痛んだ。余計なお世話だ。そう言ってやりたかったのに、ひなたの口からは短い息だけが漏れる。
「俺は決めた」
どちらをとるか、理一は教えてはくれなかった。
「了輪とばりと思わしき人物を発見」
本部からの伝令が二人の会話を切り上げたから、その答えを聞くこともできなかった。
「観光庁屋上です!」
続く発砲音がけたたましく鳴り響く。警視庁内部にいても聞こえるくらいだから、屋上に配置されていた人間のほとんどが発砲したに違いない。とばりへの発砲許可は下りている。警官でも発砲できる。
「観光庁にも人員配置したんじゃなかったっけ?」
理一は銃弾をライフルへセットしながら苦笑した。ひなたの読み通りだ。だが、読み通りに現れたということは、そこに配置していた人員を撒いてやってきたということになる。とばりの実力は、やはり想定を軽々と上回る。
「ターゲット、警視庁屋上へ侵入!」
刻一刻と近づくとばりの影。警視総監室の前から動くなと言われている以上、応援へ向かうこともできないのがもどかしい。ただ待っているだけなんて。
ひなたは理一とともに、可能な限りの準備を始める。そうでもしていないと体が今にも動き出してしまいそうだった。
「ターゲット、階下へ向かいます!」
速い。
銃弾が雨のように打ちつける中、とばりは屋上を抜けたというのだろうか。建物内部へ入られたら厄介だ。特に狭い階段はとばりが得意とするフィールドだろう。大勢でとばりを止めようとすれば、互いが邪魔になって身動きが取れなくなる。一対一ではとばりに軍配が上がる。
「止められません!」
「ターゲット、負傷!」
「ターゲット、更に降下します!」
「一発当てた、足を狙え」
「だめです、止まりません!」
「配置パターンを変更、階下の警備隊を増員します」
発砲音が近づいてくる。ひなたは呼吸を整えた。
とばりは、確実に来る。
ひなたは廊下にかけられていた時計を見つめ、その秒針に合わせてゆっくりと呼吸を繰り返す。体中を血が巡っていく。まぶたを閉じる。とばりの姿をイメージして、ひなたは心音を六十数え、再び目を開けた。
時刻はちょうど六時になろうとしている。長針がカチン、と音を立てた。
「ターゲット、接近します!」
廊下から、登り始めた太陽光が窓に差し込む。
その眩しさを背負って警視総監室のある十七階へと滑り込んできたとばりの姿に、ひなたは目がくらんでしまいそうだった。