13.一度来た道を戻ったりしない
「明日、とばりはどこから来ると思う?」
焼肉を口いっぱいに頬張りながら、理一はタブレットの画面を差し出した。はねる油が画面を汚すことも気にせず、理一はすいすいとタブレットをスワイプしていく。
警視庁内部のマップ。警視総監が普段執務しているであろう警視総監室を中心に様々なルートが表示される。ほとんどは有事の際の避難用経路。素早く避難できるということは、すなわち、素早く侵入できるということ。狙うならそこだということか。
牛タンにレモンを絞っていたひなたは、
「そこ」
理一の手を止めた。
屋上からの避難経路。ヘリポートと高いアンテナ塔が図面に描かれている。
「とばりは、高いところが好きなの」
思えば、昔からだった。国防局の小高い丘で星を見ようと誘ってきたのはとばりからだったし、とばりのお気に入りはセントラルタワーの屋上、そこからの眺めだった。
三日前、とばりと再会したのはビルの屋上。とばりが最初に死に場所として選んだのは東京タワーの外階段。今日は、国会議事堂の屋上でお別れときた。
「バカと煙は高いところが好きってか」
理一はからかうように天井の吸気口を指さした。焼肉の煙とタバコの煙が混ざりながら吸い込まれていく。
「ま、世界を掌握したいって思うくらいだから、高いところが好きだよな」
他人を見下せる。神にでもなったつもりか。とばりがそこまで考えているとは、ひなたには思えなかったけれど、深層心理という意味では間違っていないのだろう。ひなたは牛タンを飲み込んで相槌のかわりにする。
「じゃあ、次。屋上まではどうやって来ると思う?」
「ヘリでもジェットでも運転できるでしょ」
とばりなら。おそらくやってのける。少なくとも、ひなたにだってその自信はある。ボタンの配置と機能さえ覚えれば、体が理解する。そういう風に育てられてきたのだ。
「うわ、出たよ。ひなのびっくり発言」
「そうしたのはりぃくんたちでしょ」
「俺は関係ないです~、俺が教えたのは体の使い方だけです~」
「ウザ」
「ま、頭の片隅にはいれとくよ。で、他には? もうちょい現実的なやつな」
「警視庁の周りにビルは」
「隣に観光庁のビルがあったはずだけど」
「じゃ、そっちから飛ぶかもね」
「映画じゃないんですケド」
「そうしたのも、りぃくんたちでしょ」
観光庁のセキュリティがどの程度のものか、ひなたも知らない。だが、警視庁よりはマシだろう。観光庁のビルが警視庁より高ければ、警視庁の屋上へは落下するだけで良い。ロープでもなんでも使って移動ができる。
「逃げるときは」
「りぃくん、ちょっとは自分で考えなよ」
「考えてます~、答え合わせしてるだけです~」
「まじでウザい」
「で? 逃げるときは」
「……皇居を使う」
国会議事堂のときと同じだ。警視庁の北側にも皇居の敷地は広がっている。
重要な建物を隣接して建て過ぎだと昔の建築家に文句を言ってやりたくなる。権力を集中させることは効率を向上させる。だが、分散させねば、何かあったときにひとたまりもない。リスクヘッジが下手すぎる。それとも、日本人は昔から平和ボケしていたのだろうか。
ひなたは脳内ではいた愚痴と理一への苛立ちを目の前で焼かれている肉にぶつける。これでもかと箸で掴んで口へ放り込めば、
「もっとお上品に食べなさいよ」
と理一のお小言が飛んできた。ひなたは咀嚼を続ける。意図的な無視をごまかすためだ。理一相手にそんな配慮は不要だが、今日は随分と助けられた自覚がある。これはひなたなりの気遣いだ。
「逃げるときも屋上からだと思うか?」
ひなたはまだ口いっぱいに肉を入れたまま、首を横に振った。
「なんでそう思う?」
ここ数日、とばりとは毎日顔を合わせている。そのたびに言葉を重ねた。変わってしまった部分ばかりだが、変わらない部分もある。とばりの行動は一貫している。
ひなたは肉を飲み込んで、ゆっくりと息をはき出した。
「とばりは、一度来た道を戻ったりしない」
それも、昔から。頑固なところがあるのだ。とばりは徹底している。ひなたと出会い、別れること三回。現れるときと消えるとき、とばりは必ず違う道を選んでいる。追ってを撒くためもあるだろうが、強い思想はときに行動を変える。とばりの場合はそれに近い。
「屋上から侵入して、十七階、警視総監室を出たら、そのまま非常階段を使って下に降りる。五階まで行けば、窓から飛び降りる」
ちょうど北側に窓のついた廊下がある。皇居には最短のルートだ。ひなたが指し示した経路を理一は軽く確認してうなずいた。局長への連絡か、スマートフォンを何やら操作すると、理一は何事もなかったかのように皿から最後の肉を焼き始めた。
ひなたと理一は、明日、間違いなく警視総監室前を任される。理一は国防局の各隊員をどこに配置すべきかを迷っていたのだろう。もはや、ひなたととばりの問題だけではない。国防局とテロリストの勝負なのだと実感する。
「俺がやるって言ってたくせに」
「そのつもりだよ。でも、それは優先順位の一番じゃない。俺にとって最も大切なことは、国防局の人間として国を守ることだもん」
「落とし前をつけるんでしょ」
「そのために、使えるもんは全部使うのが俺なの。俺のところに来るまでにやられるようなやつならそれまでさ。俺があいつを止められるなら、願ったりかなったりってやつだけど。できれば満身創痍で現れてほしいね」
とばり相手に、普通の人間が太刀打ちできるとは思わないが、少しでも足を鈍らせることができればこちら側の有利になる。理一は当然のような顔をして最後の肉を頬張った。
理一はそういう男だ。自分が最善と思える状況を設定し、そこへもっていくまでの過程を計算してはじき出す。どこまでも論理的で、慈悲や情けや義理なんてものは彼に通用しない。
おそらく、とばりにとっては最も厄介な相手に違いない。
ひなたはとばりの行動を思い返して箸を置く。そういう男を相手にとばりがやりそうなこと。その中で、最もこちらに不利な状況を思い描く。
とばりと戦うとき、精神的な事前準備が最も必要になるとひなたは学んだ。相手は確実に痛いところをついてくる。そうしてこちらを揺さぶる。ひなたはそれに二度もやられっぱなしだ。
「……もしも」
「ん?」
「もしも、とばりがわたしを人質にとって、警視総監と選ばせたら、どうする?」
ひなたはできる限り声の抑揚をおさえた。個室をノックして店員が何も知らない顔で入って来る。理一の手前に伝票を、ひなたの前にバニラアイスを置いて、店員はにこりと微笑んだ。総理大臣が殺害されたことも、明日、警視総監が殺されることも、関係ないといった顔で。
理一は少しの沈黙のあと、スープとご飯を空にした。丁寧に手を合わせ、箸を片付ける。
「ごちそうさま」
軽薄な男が、誰よりも一番まともで悔しい。
「アイス、食べねえの?」
ひなたの手元に運ばれてきたバニラアイスは溶け始めていた。はぐらかすな。ひなたがじっと理一を無言で睨み返すと、理一はため息をひとつ。
「……その覚悟が必要なのは、ひなじゃねえの」
理一は伝票を持って立ち上がる。ひなたが返事をする前に、理一は個室を出ていった。
残されたひなたは、溶けたバニラアイスをすくいあげる。
「……あま」
口の中に広がったそれは、いつもよりもずっと冷たかった。