12.俺が殺してやりたいよ
「了輪とばりを捕まえなさい」
「……でも」
「二度は言わない。それとも、殺せと命じるほうがいいかしら」
局長は今度こそ言い直さなかった。それどころか、ひなたへの慈悲を捨てる覚悟をしたようだ。二度のチャンスはないと思っていたが、ひなたの覚悟が足りなかった。いつだって、足りていない。ひなたは悔しさを噛みしめる。
どうして人間の手はふたつしかないのだろう。国防局には守るべきものがいくつもあるのに、そのすべてを抱え込むことすらできないなんて。
失敗したものの肩を持つ腕も、裏切ったものに情けを差し伸べる腕もないのだ。ひなたも良くわかっている。
「国防局はあなたのための組織よ。でも、同時に、あなたが国を守るからこそ存続している組織でもある。あなたがその責務に報いることがない以上、国防局自体の存在が揺らぐ。存在できなければ、元も子もない」
局長は慌ただしい人工島の雰囲気を窓越しに感じながら、ひなたの様子を窺っている。ひなたの覚悟をはかる彼女の視線に、ひなたは目を逸らした。
「何のために、自らが存在しているのか考えることね。あなたに尽力すると誓った我々を裏切るような真似をしないで」
保身ともとれる局長の言葉だが、ひなたにとってはその通りだと認めざるを得ない。
親の顔も知らぬひなたを救い、ここまで育ててくれた恩義がある。国防局が無ければ、自らの命はすでに尽きている。仕事さえなければ、同世代の、いや世間一般の人たちとは比べものにならないほどのきらびやかな生活があり、すべてが保証されている。
「了輪とばりを捕まえなさい」
「捕まえられなかったら?」
理一が口をはさむ。まるでひなたをかばうようなタイミングだった。
理一の小さな優しさにひなたはいつも救われている。そのことが、どうしようもなく悔しい。
「死んでも生き返るのなら、何度でも殺せばいい。死ぬまでね」
局長は、ひなたを一切見ることなく答えた。理一に向かって告げたのだとはっきりわかるほどに。そこにまだ慈悲があると考えても良いのだろうか。ほんのわずかな希望でさえ、ひなたの胸に淡く灯るからわずらわしい。いっそのこと、無慈悲に突き放してくれればどれほど楽かと思うのに。
ひなたがうつむいたままでいると、理一は局長の命令を鼻で笑った。
「じゃ、俺がやる」
「誰でもいいわ。総理大臣殺害および明日の警視総監襲撃予告をしたテロリストの足を止められるなら」
局長は釘を刺すように二人を凝視した。
「捕まえて」
睨むでも、脅すでもなく、ただじっと見据えているだけなのに。
「……わかり、ました」
そう答える以外、何もできない。とばりを連れ戻す。そう覚悟を決めたつもりだったのに。
いつの間にこれほど臆病になったのだろう。今までは、テロリストを捕まえるなど当たり前だった。悪い人間に罰を与える。それが人間の作ったルールだ。疑う余地もなく、皆がそのことを信じている。
相手がとばりだから? 幼馴染で、親友だから。
そんな脆弱な、単なる関係性を理由に国を守る役目を放棄している。
ひなたはそのことに気づいて、ゆっくりと首を横に振る。
「まだ何かあるかしら」
「いえ。……必ず、とばりを捕まえます」
ひなたが頭を下げると、局長は扉のロックを解除した。理一はようやく解放されると言わんばかりに伸びをする。ひなたはとてもそんな気分にはなれなかった。
とばりが死ぬところを見た。二度も。とばりによって総理大臣が殺された。明日は、警視総監が。ひなたひとりの個人的な感情のせいで、国が大きく傾いている。とばりを捕まえた方が、よほどマシな結果になるとわかっている。
とばりの言った「トロッコ問題」が、ひなたの頭を駆け巡っていた。
世界はいつも、二択を迫る。人々はいつも、どちらかしか選べない。なんて残酷なのだろう。
「ひな」
ドン、と理一の背中にひなたはぶつかって、慌てて顔を上げる。理一も驚いたようにひなたを見下ろしていた。
「何、甘えたくなっちゃったの?」
意地悪に口角を上げて、理一はわざと甘い声を出す。この男の、こういうところが嫌いだ。どんなときでも余裕があって、心の奥をうまくしまいこんで世を渡っている。ひなたには絶対に真似のできない芸当だ。
「キモイ」
「考えごと?」
「別に、りぃくんには関係ない」
「とばりのことだろ。関係なくない」
「りぃくんは、とばりを殺すつもりなんでしょ」
今のひなたにとって理一は敵だ。相容れない考えを持ち、それを貫く理一が痛いほど羨ましくて、大嫌い。
「俺は、国防局の人間だよ」
「知ってる」
「国防局は、ひなのために尽力する組織だ」
それではまるで、ひなたのためにとばりを代わりに殺すと言っているようなものではないか。だが、理一の飄々とした表情からは、その言葉の真意を推測する以外にできなかった。
「飯、食いに行こうぜ」
「そんな気分じゃない」
「そう言わずにさ。腹が減っては戦ができぬ、だろ?」
「でも」
「でも、じゃねえって。俺に付き合ってって言ってんの。明日の作戦会議すんぞ。人生は俺のが先輩よ? 先輩の言うことは聞いとくもんデショ」
「そういうの、今時ありえないから」
「じゃ、ひなのおごりな」
「ムリ」
理一はポケットから車の鍵を取り出すと、くるりと人差し指でそれを器用に回す。チャリ、と軽やかな音を立てたそれが、油断するとすぐにできてしまう気まずさを埋めた。
エレベーターが到着する。乗り込めばふたりきりの密室になる。理一はリラックスした様子で肩を下げた。
「こんなことを言うのも変だけどさあ」
「じゃあ言わないで」
「とばりが生きてるって知って、俺、ちょっとホッとしたんだよな」
ひなたが拒んでもお構いなしに踏み込んでくるのが理一だ。ひなたは、その無神経さに今だけは救われたと思う。ひなたが飲み込んだ言葉を、代わりにあっけらかんと言ってしまえる理一の人間らしさが、ひなたの琴線を容易く揺らす。
「俺だってさ、あいつのことは弟みたいに思ってたんだから」
「嘘」
それならどうして、とばりを殺すなんて言えるのか。
ひなたも頭では理解しているはずなのに、問わずにはいられない。疑問を素直に理一へと訴える。言葉ではなく、表情で。理一はそれを読み解いて笑った。
「だからこそ、知らない他人に殺されるくらいなら、俺が殺してやりたいよ。あいつが誰かを殺して他人に迷惑をかけるなら、俺がその落とし前をつけてやんなきゃいけねえ」
理一の言い分は正しい。いつだって、間違った人間を正すためには導く人間が必要だ。
子供が悪いことをしたら、親がしかるべきだ。友達が犯罪に手を染めたら、友達がその子の手を引いてやるのが一番だ。生徒なら教師が。妻なら旦那が。
だから、とばりのことは、ひなたが。
「……わかってるよ」
わかっているのに。
ひなたは口をつぐむ。理一のように大人になりきれない自分がみじめだった。