10.夢だと思いたかったよ
「処理班、国会議事堂へ急行せよ。繰り返す。処理班は国会議事堂へ急行せよ」
「情報部、ただちにセントラルタワー五階へ参集ください」
「捜索班は指示があるまで待機。救急隊は国会議事堂周囲の病院の状況を確認」
「特別対策本部を立ち上げます。現場急行指示のない各所属長はセントラルタワー三十八階へ集まってください」
突如、国防局に無数の指示が飛ぶ。ひなたのスマートフォンも出動を告げた。
「行くぞ」
「わかってる」
理一だ。ひなたはブルゾンを羽織り、自室を飛び出して、マンション下に停まっていたスポーツカーへと乗り込んだ。理一が荒くペダルを踏む。容赦なく加速する車。エンジンはうなりを上げ、あっという間に人工島を置き去りにする。
事態も飲み込めないままにレインボーブリッジを抜け、国会議事堂方面へと景色が流れていく。芝浦ジャンクションから首都高速へ。理一の運転なら目的地までは十分とかからない。
窓の外にヘリコプターの姿が見えた。後方からひなたたちを追うように飛んでいる。おそらくお台場、テレビ局の方向からだろう。
「緊急速報です。ただいま、国会議事堂にて田中総理が殺害された模様です」
ラジオから聞こえた声に、ひなたは顔を上げた。
総理大臣が殺された。車のラジオが繰り返す。ひなたはすぐさまスマートフォンを取り出す。見れば、SNSがすでに燃えている。ネットは情報が速い。普段はダンス動画を上げている女子高生も、猫のことしか呟かないサラリーマンも、推しを語る主婦も、皆が口々に告げている。
総理大臣が死んだらしい。
数が多い。正式な報道が出た証拠だ。ひなたは頭上を通り越していったヘリコプターを見送って、すぐさまスマートフォンの通信回線を国防局専用に切り替えた。
心当たりならある。ひとつだけ。それもとても信じられないものだが。
「一体、何なんだよ」
突然のテロ。明らかに不機嫌な理一の声に、ひなたは唇を噛みしめる。
とばりは死んだと思っていた。昨晩の賭けなどなかったのだ。一夜明けてそう思っていたのに。
「とばりだ」
ひなたの答えに、理一のハンドルを握っていた手が反射的に強められた。ひなたがそれを見逃すはずがない。予想外の答えに違いない。あの理一が動揺していると思うと、やはりとばりが死んだ昨日は現実の出来事だったのだと思う。
「フ」
ギリギリ声になるかならないか、曖昧な音を漏らした理一は苦笑する。
「ひな、その冗談はさすがの俺でも笑えないんですケド」
「本気だけど」
「とばりは死んだ。そうだろ?」
「そうだね」
「昨日、この目で見た。俺たちは死体も埋めた。それが全部夢だっての?」
「でも、昨日の夜、とばりは確かにわたしの部屋にいたの」
法定速度を無視して車を走らせ続ける理一は、ひなたの突拍子もない話を信じたのか、それとも、考えるのが面倒になったのか、
「それで?」
と続きを促した。了輪とばりにはうんざりだ。そんな胸中が聞こえてくる。
「賭けを提案された」
「賭け?」
「十人を殺すって。全員殺せたらとばりの勝ち。その間にとばりを捕まえればわたしの勝ち」
「バカじゃねえの」
「夢だと思いたかったよ」
「それで、そのひとり目が総理大臣だって? 嘘だろ、いよいよ付き合ってらんねえな」
「嘘じゃない、現実だよ」
事実、総理大臣は死んだ。殺されたと報道されているのだから、間違いなく自殺ではない。今ひなたが持っている情報から考えられる最も高い可能性。それは生き返った世界的テロリスト、了輪とばりの手によって総理大臣が殺害されたということだ。
すでに情報は流された。首都高速道路は渋滞が始まりつつある。理一は舌打ちをひとつ。渋滞に巻き込まれぬよう更に速度を上げ、谷町ジャンクションを降下するルートへと進路を変える。同時、霞が関料金所を閉鎖したと国防局からの指示が入る。
理一のこうした勘の良さはひなたに安心感を与える。テロリストになってしまったいつかの相棒とは大違いだ。わざわざ理一を褒めてやる義理はないけれど。
内閣府下の交差点から裏道を通って国会議事堂へ。マスコミの車よりも早く到着出来たらしい。警察と国防局の車両が群がる場所に理一はスポーツカーを乗り捨てる。ひなたも素早くシートベルトを外して座席を立った。
異様なざわめきが支配している。救急車のサイレンが聞こえないということは、総理大臣はすでに病院へと搬送されたということだろう。周囲を見回すと、国防局の職員がひなたたちに気づいた。男が理一のもとへ情報共有のために駆け寄ってくる。
「犯人は現在、国会議事堂敷地内を逃亡ちゅ……」
パアァンッ!
現状を知らせる発砲音。ひなたと理一はすぐさま足を動かした。
音の方向は正門側。建物を挟んでちょうど向かい側だ。建物の外を周っていては間に合わない。ひなたは国会議事堂内部へと続く裏口を開けて建物内を突っ切っていく。有事に慣れていない人の群れが統率なく行きかい、ひなたの進路をふさぐ。
「おい、君!」
ひなたのために作られた世界でたった一着の制服。ブルゾンを羽織って隠しているとはいえ、やはり目立つ。そのせいで、どこからどう見ても普通の女子高生にしか見えないひなたを止めようとする声があちらこちらから聞こえる。無数の困惑と焦り。国防局の人間以外、ひなたの存在を知る者はほとんどいない。警察でさえ、ひなたのことを知るのはひと握りだ。
「待ちなさい!」
「そこの君、止まりなさい!」
総理大臣を殺した人間よりも追われている気がする。ひなたはそんな不条理をもろともせずに狭い人の波を縫って駆ける。正門側の扉が見えた。発砲音はまだ続いている。正門から少し離れた場所、北側。ひなたは脳内に逃走経路をイメージし、足の回転を速めた。
国会議事堂の敷地より外へ逃がしてはいけない。国会議事堂の北、その先にあるものは皇居だ。通常立ち入ることが許されない、もしくは普通の人なら一瞬でも躊躇するその場所を利用して犯人は逃げようとしている。
ひなたの胸に確信が芽生えた。
「とばりらしい」
総理大臣を殺したのは、了輪とばりだ。間違いない。
とばりは、生きている。
ひなたは制服のポケットに入れていた無線イヤフォンを耳にはめ、スマートフォンを片手で操作する。画面は見ない。もう何度も繰り返した作業だ。体が覚えている。
「りぃくん、皇居側へ先回りして」
一拍の呼吸すら置かず、理一の承諾が聞こえた。ひなたの後ろから聞こえていた彼の足音に変化が生まれる。徐々に離れていく足音がひなたの感覚をクリアにしていく。
ここからはひとりだ。とばりとは三度目の対峙になる。
途切れることなく垂れ流される国防局の指示を精査しながら、ひなたはついに国会議事堂の正面扉を抜けた。
発砲音が先ほど以上に耳を貫く。
「いた」
憲政記念館へと続く道路を駆ける黒髪。とばりだ。
その姿に、悔恨でも、驚きでもなく、安堵を覚えた自分自身にひなたは嫌気がさす。
とばりへの諦めきれない執着にも似た気持ちを振り払うようにひなたは地面を強く蹴った。途端、とばりがこちらを振り返る。ひなたが来ることを知っていたようだった。
ゾクリと背筋を這いあがる嫌な感覚、ひなたの足をほんのわずかに遅らせたそれ。
――銃声。
ひなたの背後から小さな鉛の塊が空を切り裂いて迫る。その向かう先、銃弾を胸に受け止めたとばりは、驚愕を顔に貼り付けたひなたに対して、またしても笑みを浮かべた。