1.僕たち、親友だったじゃん
「ひな、そっちに行った!」
「了解」
国際的な麻薬密売人を追い込んだ相棒からの連絡。源ひなたは引き金へ指をかけた。
吹き荒ぶビル風。覗きこんだスコープは真下に走る道路を映す。来る。交差点を左折し、路地を走りこんできた黒のバン。明らかに法定速度を逸脱している。
「頼むから外すなよ」
「外したことなんて」
引き金を引く。銃身が震える。
「一度もない」
バンが鋭い悲鳴を上げた。続けざまひなたは弾を装填し、二発目を撃つ。助手席側のタイヤを前後ともに撃ち抜かれた車体は完全に左へと傾いた。乱雑に運転席の扉が開く。横転した車をよじ登って男が逃げる。この程度の経験はあるらしい。素人の動きだが落ち着いている。対して、相棒の姿はまだ見えない。
「逃がさない」
ひなたは担いでいた銃を捨てる。耳栓代わりのイヤフォンも。体勢を整え、軽いステップで塀を踏み切った。
ビルの五階から地上へ向かう最速の方法は、飛び降りること。
「っ、ふ!」
一瞬の浮遊感。内臓がせりあがる前に地面への引力が全身を襲う。両足でコンクリートを踏みしめ、同時、体を回す。衝撃が分散されると言っても痛くないわけじゃない。
「は」
ひなたは軽く息を吐いて力を抜き、転がった勢いで体を起こす。チャリ、と金属音がした。
――最悪。
ジッパーだ。地面に転がった金属片を睨みつける。買ったばかりなのに。閉めていたジャンパーの前が開く。留め具を失ったそれはバタバタと風に吹かれて音を立てた。
「全部、アンタのせいだ」
逃げる密売人、その背に向かってジャンパーを丸め、第六感の告げるまま投げる。軌道の計算なんてしない。緩やかな弧を描く布。自力では形を保てぬそれは空中で広がり、重力に引かれ落下する。真下に密売人。瞬きの間もなく、ジャンパーは大げさに乾いた音を立てた。数秒前までひなたのお気に入りだったジャンパーはもぞもぞと間抜けに動き、
「クソがッ」
と声を漏らしている。
「アンタが、ね!」
ひなたがつけた助走、その勢いで放ったかかと蹴り。相手の頭をしかと捕らえる。遅れて揺れるスニーカーの紐。骨にぶつかった感触と、筋肉の収縮を感じる空気と。クリーンヒット。男がガクンと地面に崩れる。ひなたはジャンパーを取り上げ、男の体を拘束した。
「確保」
呟くと同時、後ろから緩慢な拍手が聞こえる。
「さすが、世界最強の捕縛者さま」
「いたなら手伝ってよ。てか、そのダサい名前で呼ばないで」
「え、かっこいいじゃん。悪人は絶対に捕まえる! しかも、絶対に殺さない! あくまでも捕縛者ってところが正義のヒーローって感じで俺は好きだけど」
「りぃくんのそういうとこ、まじウザい」
「相棒にその言い方はひどくね?」
自分が相棒であると自覚しているところもウザい。
ひなたの冷たい視線をさらりと流した理一はブツブツと文句を言いながらも、拘束された男をずるずると引きずり起こした。成人男性くらい、本来ならば理一は軽く持ち運ぶ。そうしないのはわざとだろう。この男は悪人に容赦などしない。
「ってか、ひな、銃は?」
「置いてきた」
「置いてきたって、あのねえ、そういうひなの忘れ物、毎回俺が回収させられてるんですケド⁉」
「ありがとう」
「うん、お礼が言えて素晴らしい。じゃなくて!」
「ウザ」
「とにかく、今回からは甘やかさないって決めたから。身柄引き渡してる間に取って来いって」
しっしと追い払うように理一から指図され、ひなたは「はあい」と不満げに声を漏らす。別に今までも甘えていた訳じゃない。それを証明するために仕方なくひなたはビルへ向かう。
「こら、返事は伸ばさない!」
母親がいれば、こういうことを言うのだろうか。ひなたは後ろから聞こえる理一のお小言をこれ以上耳に入れぬよう、指で軽く耳を塞いだ。イヤフォン、捨てなきゃ良かった。
ロシアの軍事侵攻から始まった第三次世界大戦を受け、防衛省に国家特命防衛局――通称、国防局が設立されてから百年。国際社会規模の事件によって国家が危険に脅かされたとき、警察や自衛隊と協力してその危険を排除する。それがひなたの所属する国防局に課せられた役目だ。
生まれて間もないひなたは、国防局の研究所前に捨てられていたらしい。国防局の研究員や警察、自衛隊の人間が育ててくれたおかげで、ひなたは並外れた身体能力と対人戦闘技術を会得した。結果、人間離れした。
いまや『世界最強の捕縛者』なんて呼ばれている。育ててくれた研究所に恩返しをするために働いているだけなのに、すっかり大ごとだ。誰がつけたか知らないが、こんなダサい通り名をつける人間がいるなんて信じられない。ひなたはため息をつく。
ビルに備え付けられた非常階段を登っているうち、下から耳馴染みのあるサイレンが聞こえてきた。どうやら警察が到着したらしい。確保の連絡から数分と経っていない。さては近くで張っていたな。ひなたは舌打ちをひとつ。
どいつもこいつも。近くにいたなら少しは手伝ってくれてもいいのに。女子高生を矢面に立たせて何が楽しいんだか。
ひなたは内心で愚痴をはきつつ屋上へ上がり――
「久しぶり」
そこに立っていた青年の姿に、理一や警察への鬱屈とした感情を失った。
三年前、研究所から脱走し、行方をくらましたひなたの唯一の幼馴染にして唯一の親友。
なにより、『不死身のテロリスト』と名高い男子高生、了輪とばりは、三年前、つまり最後に見たときから垢ぬけて大人っぽくなっていた。
ひなたは自然と目を見開く。表情が驚きを伝えるに充分なほど。
珍しく表情筋が活躍しているひなたに、とばりは目を細めた。人懐っこい笑みは昔と同じだ。
「……何、してんの」
「まだ何もしてないよ」
表面上は穏やかだが、裏に毒を隠したとばりの返事。ひなたは思わず臨戦態勢を取る。体に染みついた癖だ。しかも、先ほど捨てたスナイパーライフルはとばりの足元にある。少しも油断はできない。銃も捨てなきゃ良かった。
「三年ぶりの再会なのにつれないなあ。僕たち、親友だったじゃん」
とばりは肩をすくめて苦笑する。
「なんならこれはそっちに返すよ」
ご丁寧に銃を拾い上げたかと思えば、とばりはひなたへそれを差し出す。その気になればいくらでも殺せるはずなのに、彼はそうしなかった。対して、銃を受け取ったひなたは素早く持ち替えて銃口をとばりに向ける。
「今更現れて、どういうつもり」
とばりはさして怖くないという風に笑う。ひなたがどんな悪人でも絶対に殺さず捕まえると知っているからか。それとも、不死身だからか。
とばりは悠々と空になった手を再びひなたへと差し出した。久しぶりの再会を喜び、握手を求める友人のように。
――あるいは、求婚のように。
「連れ出しにきたんだよ、お姫さま」
僕と一緒に世界を変えよう。
ビル風がひなたの白髪を、とばりの黒髪を巻き上げる。とばりの穏やかな声は風にのって空へ響いた。