それでは皆さま、ごきげんよう
齢四のミレーゼ・エドワルドはぱちくりと目を瞬かせた。
「お前のような不美人を嫁にもらってやるだけ、ありがたく思うんだな!」
その日、初めて顔を合わせた婚約者に、挨拶をするのも待たず、暴言を吐かれたためだ。五つ年上の婚約者――名をダドリー・マルクスと言う。伯爵家の息子である。
「……なんだ、その阿呆面は。いくら幼いとはいえ、謝罪の言葉ぐらい言えるだろう。『自分のような不美人を娶っていただくなど、恐れ多いことです』と……それとも、まともな教育を受けられていないのか?」
辛辣な言葉に、ミレーゼはきょとんとしながらも、ひとまず「みれーぜ・えどわるどともうします。よろしくおねがいいたします」と覚えたての礼を披露した。
庭園の奥では、乳母らしき女性が初々しいその光景に薄っすら涙を浮かべ、音を立てないように小さく拍手している。
しかし、ダドリーはさらに苛立った様子で、舌を鳴らした。
「お前は言われたこともできないのか? 俺は『謝罪しろ』と命じたんだ。――今すぐ頭を下げろ」
「……なぜですか?」
「これだから物分かりが悪い子どもは嫌いなんだ……いいか、婚約者に言われたことには従うべきだ。なぜ、と聞くのは愚かなことでしかない」
大抵の子どもなら泣き喚くであろう非常に威圧的な声音だったが、ミレーゼはそのあたりの感覚が人より鈍いのか――やはり不思議そうな表情で、意味がわからないといったように目の前の婚約者を眺めるだけだ。
けれど、一度も言われた通りにはしなかった。
齢六のとき。
父が愛人と娘を本邸に連れてきた。これにはミレーゼも実母と共にきょとんとし、顔を見合わせてしまったものだ。
ミレーゼの腹違いの姉妹だというアリアナは愛らしい見た目で、本邸の人間をたちまち陥落させた。ミレーゼ自身、金髪碧眼のその少女を『まるでおひめさまみたい』と遠くから見つめていた。
しかし、こちらはと言えば――。
「なんだ、この刺繡は? 豚か?」
厳密には猫なのだが――まあ、所詮、六歳の少女が初めてした刺繍だ。完璧とは言いがたい。ミレーゼは誤魔化すように、へらりと笑った。
「このような駄作を俺に渡すなどと……馬鹿にしているとしか思えない」
ダドリーは不愉快そうに眉根を寄せると、刺繍の入ったハンカチをくしゃりと握り締め、目の前で自身の従者に「捨てておけ」と投げ付ける。
流石にそれは気が引けたのか、従者の男性は気まずそうに目礼したのち、ダドリーの視界に入らない位置まで下がると、丁寧にハンカチを折り畳み、ポケットにしまった。どうなるかはわからないが、おそらく無下にされることはないだろう。
ミレーゼはそれを見て、にこりと微笑む。従者の彼はなにか微笑ましいものでも見つめるように表情を和らげたが、ダドリーの癪に障ったらしい。
「お前のような者が婚約者だと思うと、恥ずかしくて友人たちにも紹介できないじゃないか。お前の母は『まだ幼い子どもだから』と言うが、幾つであろうと関係ない。刺繍は女の嗜みだと母上も言っていた。貴族の家に生まれたからには、惜しまず努力すべきだろう」
『貴族の常識』を幼子に向かって説き伏せる。
ミレーゼはまたきょとんとした。
それがダドリーには気に食わなかった。
「いつも呆けた顔をしているお前のことだ。どうせ俺が何を言っているのかもわかっていないんだろうな。普通の六歳児なら、平民でももっと物分かりが良いぞ。俺が当主になるまでには、少しはまともな頭になってもらわなければ困る」
「とうしゅ……あの、でも――」
「ここで『でも』と否定の言葉が出てくることが、まずありえない。今の場合、『サポートできるように頑張る』の一択であるはずだ」
「そ、そうではなく――」
ぱしん、と乾いた音が響く。
様子を見守っていた乳母が、小さく悲鳴を上げ、ものすごいスピードで駆け寄ってきた。
「ぼ、坊ちゃんっ! いくらなんでも、このような幼子に手を上げるなど……っ」
後ろに控えていた侍従が顔を青褪めさせ、不自然に浮いたままの手を握る。それを振り払いながら、ダドリーは呆然と自分を見上げてくるミレーゼと、彼女を腕の中に匿う乳母を睨み付けた。
「叩かれるようなことをするほうが悪い。幼いからといって許されることではないだろう。この件については、マルクス伯爵家から正式に抗議させてもらう」
相手も子どもとはいえ、初めて異性に手を上げられたミレーゼは朱の走った頬を右手で押さえ、しかしやはりきょとんとするだけで、泣き喚くこともなかった。
それからも、二人の関係は変わらなかった。
ミレーゼが話し掛けるだけでダドリーは近寄るなとばかりに顔を顰め、かといって、あえて遠ざけていると『無礼だ』として文句を付けてくる。
言い返そうとしたときには手を上げることもしばしばだったので、そのうち、ミレーゼは自然と口を噤むようになった。基本的に痛みに鈍感な自分でも、やはり思いきり頬を打たれるのは怖い。
十歳のとき、母が亡くなった。
風邪をこじらせた結果だった。
葬儀が開かれ、たくさんの人が涙ながらに訪れたが、ミレーゼに一番寄り添うべき婚約者は、ミレーゼに少し顔を見せただけで、出会ったばかりのアリアナと庭で遊ぶことにしたようだ。
初対面だというのに、ダドリーはアリアナの可愛らしさにすっかり夢中になった。
ミレーゼは泣き腫らした顔で二人の様子を眺めながら、母の不在に絶望した。味方になってくれる使用人はいた。けれども、親身になってくれる家族はたったひとりだったのに、と。
「ねえ、ミレーゼ。ミレーゼって将来、ダドリーと結婚するんでしょ?」
ある日、アリアナにそう尋ねられたミレーゼは「たぶんね」と簡単に答えた。葬儀のとき、彼らが子どもなりに親密になっていたのを見ていたので、婚約者の名前に敬称を付けないことにも目を瞑る。
「ダドリーにとって大事なのは、エドワルドと結婚することだって聞いたわ。なら、あたしだっていいんでしょう? 変わってくれない?」
「……アリアナが?」
「……なによ。あたしじゃ駄目だって言うの?」
「そういうわけじゃなくて……」
「ダドリー! お姉さまが酷いこと言うのよ!」
え、と後ろを振り向くと、いつの間にかダドリーがいた。婚約者と言えど、他家を訪問する際は先触れを出すのが常識なのだが、『面倒臭い』と思ったのか――いや、『貴族の常識』をもっともらしく説く彼のことだから、『婚約者に余計な気遣いは不要』だと感じたのか、この数カ月はそれすらなくなっていた。
母がいればマルクス家に抗議してもらうよう手配するが、エドワルド名の肉親はもう父しかいない。母の存命中に、堂々と愛人とその娘を連れ込んだ男だ。どうあがいても、ミレーゼと親しくなる余地などあるわけがなかった。
実際、「先触れがないと困る」と訴えはしてみたものの、困ったような笑みを浮かべたまま「それはほら、いつダドリーくんが来てもいいように、支度しておいてあげればいいんじゃないかな」と言っただけだった。
「酷いこととは?」
「やあ、アリアナ」と表情を和らげてすぐ、ダドリーは目を眇めた。ミレーゼが「あの」と口を開きかけたのを遮って、アリアナが喚く。
「あたしのママが愛人だったからって、エドワルドの一員ではないみたいなことを!」
飛躍した言い分に、ミレーゼは思わず反論しかけたが、脳裏に手を上げる婚約者の様子が過り、そこにほんの少しだけ躊躇いが生まれた。それがいけなかったのだろう。その隙を縫って、ダドリーが「なんだと?」と話をつなげる。
「貴族たるもの、愛人のひとりやふたり、いて当然だろう。お前の母親と父親は政略結婚だったと聞いている。なら、恋愛はほかでするものだ。いい加減、『貴族の常識』というものを学んでくれないか」
「いやだわ、お姉さまったら……あたしでも知っているようなこと、知らなかったの? でも、そうね。お姉さまとダドリーが結婚するなら、やっぱりあたし、愛人のほうがいいのかも」
まるで『思い直した』とでも言いたげな顔でそう零すアリアナに、ダドリーは期待半分、困惑半分の表情を作った。
「アリアナ、君はまだ幼い。愛人になると決めるのも早いし、それに……」
「ダドリー! でも、あたし、ダドリーとずっと一緒にいたいんだもん! お母さまも好きにすればいいって言ってたし」
――婚約者でしかない段階から、愛人を選定される。こんな屈辱なことってないわよね。
心の内でほくそ笑みながら、アリアナはちらと自身の姉妹を見やった。
「……なに、その顔」
しかし、肝心の本人は悔しがるどころか、きょとんとしているだけである。
「ああ、こいつのこの阿呆面はいつものことだよ」
わかったふうに、ダドリーが鼻で嗤った。
「何を話しても呆けるだけ。きっと理解が追い付いていないのだろう。将来の当主夫人として、圧倒的に学がなさすぎる。俺も、少しでもいいから努力するように根気強く説得しているんだが……」
「なに、それー」
ダドリーは『なににしても、頭の回転が遅すぎる。こいつの前で何を話したところで、わからないだろう』と高を括っていた。
それから時が経ち、ミレーゼが十三歳になると、王立学園に入園した。
王立学園への入園および卒業は、貴族家の中に生まれた者に課される義務である。生家では孤立しがちだったミレーゼも、ここでは自由に友人を作ることができた。
エドワルド家の事情は有名で、意外とミレーゼに同情する声が多い。加えて、最終学年に在籍していた十八歳のダドリーが、たった十三歳の少女に対し、幾度も『貴族の常識』と称した暴言を吐いていたから、なおさらだ。
十三歳の少女と、十八歳の青年。
体の大きさから言って、あのように詰られたら怖いだろうに、冷静に対処する少女を応援していたのは、ひとりやふたりではない。
休日には、まるで恋人のように婚約者ではない少女を腕に引っ付けて歩いている姿も目撃され、『あれは誰だ?』と学園は一時騒然となった。それだけダドリーとミレーゼの存在はタイムリーであり、人々の興味と同情を掻き立てたのだ。
しかし、その疑問はすぐに解消されることとなった。
なぜなら、ダドリーには『恋人のような少女』の存在を隠すつもりがなかった。少女の名前はアリアナ。ミレーゼの腹違いの姉妹だ。
将来の愛人候補だと誇らしげに宣言するダドリーから、常識ある子女は距離を置いた。いくら恋愛感情が生まれなかったとはいえ、政略的な婚約にも、ある程度の誠実さはあって然るべきである。
たとえ愛人を作るのだとしても、その存在を公にはしないのがルールとも言えた。それをことごとく破っているのだから、ダドリーは学園を出る前に、社交界から爪弾きにされてしまった。
もっとも、類は友を呼ぶとはよく言ったもので――同類だけは近寄ってくるので、本人にその(爪弾きの)自覚はまったくなかったのだが。
「先月行われた試験、アリアナは学年首位だったそうだ。お前が常々『愛人の子が』と見下しているアリアナが、だぞ。入園してこのかた、ずっと首位をキープしている」
アリアナを伴ってミレーゼを訪れたダドリーは、応接室のソファーに着席するなり口元を歪めた。ミレーゼはいつものようにきょとんとする。
「え? あの、入園って……王立学園、ですか?」
「まさかアリアナが入園していると、知らなかったのか? 腹違いとはいえ、妹のことなのに? というか、お前とは生まれが半年違うだけだから、当然入園しているに決まっているだろう」
「いえ、そういうことではなく――」
「それとも、愛人の娘であるあたしには、勉強する価値すらないって言うの?」
――そうではない。
不思議に思いながら、どういうことかと頭を整理しているうちに、ダドリーは「不愉快だ。帰らせてもらう」と立ち上がった。到着して数分だと言うのに、もう飽きたらしい。
「貴族の義務を理解しようとしないどころか、大事に扱ってくれる家族にすらこの仕打ち。人間としてどうなんだ、と思うよ」
「これでは、結婚後の社交は、アリアナの仕事になるかもしれないな」と言いながら、アリアナの肩を抱いて出ていくダドリーを見送ったあと、ミレーゼは歯をギリギリ言わせながら控えていた乳母を見て、苦笑した。
齢十九になり、ミレーゼはダドリーと結婚した。
アリアナとはすでに体の関係にあったので、思慮の浅い二人によって婚約破棄になるかと思ったが、意外とそうはならなかったことに、ミレーゼ自身、驚いていた。
結婚式では、ミレーゼの母方の祖父である辺境伯が号泣した。母親の葬儀以降なにかと頼ることが多かったので、感動したのだろう。「可愛い孫が」とおいおい泣く祖父に、ミレーゼは「今後もお世話になります」と大人びた微笑を浮かべる。
記念すべきこの日にも、ダドリーはこのうえなく苛立っていた。
愛する少女とその母を呼べなかったからだ。ミレーゼが相手ならどうとでもなったが、辺境伯である母方の祖父に「許さない」と言われてしまえば諦めざるを得ない。
娘の夫のかつての愛人とその娘だからといって、身内の結婚式にすら参加できないなどと、なんと可哀想なことだろうと哀れんだ。
特に、出来の良いアリアナを粗末にするなど、愚者がすること。王立学園で優秀な成績を修めるということは、将来的に、国に大きく貢献する可能性があるということなのだから。
「貴族の義務として抱きはするが、お前の役割は子を産むことだけだ。俺に愛されているわけではないから、勘違いはするなよ」
――初夜。
通常であれば大騒動になりかねない暴言を吐き、ダドリーはきょとんとするミレーゼをベッドの中に引きずり込んだ。
嗜虐趣味があるわけではないので、意識して手酷く扱いはしなかったが、相手が初めてだということを考慮して優しくもしなかった。ミレーゼは痛みに耐えるように眉根を寄せていたが、最初から最後まで呻き声ひとつ上げず、目をきつく瞑っていた。
ダドリーにはそれが、『きょとん顔』より幾らかマシに見えた。
幸運なことに、子宝には恵まれた。
結婚したその年には双子の男女を、翌年には次男を出産。ダドリーに思うところはあれど、我が子は可愛い。
乳母と共に、三人の成長を見守った。
そんなある日。
「アリアナに子が出来た」
大事な話があると言うので、祖父と共に本邸を訪れると、ダドリーとアリアナ、父親、愛人の姿があった。
まさか母方の祖父が来るとは思わなかったのだろう。家族水入らず、穏やかな表情でアリアナたちと話していた父親は、ミレーゼのあとに続く辺境伯を見て、サッと顔を青褪めさせた。
そこで落とされたのが、この発言である。
「どうした、喜んでくれないのか」
「……喜ぶ?」
「家族が増えるんだぞ? おめでたいことだろう」
などと、本気で思っているのだ――このダドリーという男は。
世界が自分だけで完結してしまっている。
ミレーゼは険しい表情を浮かべる祖父を見上げ、そしてきょとんとしたまま、ダドリーに向き直った。――祖父がいるなら、ダドリーの暴力も怖くない。
「承知いたしました。おめでとうございます。それで、ええと、どこに住むかはもう決まったんですか?」
気に食わない『きょとん顔』に一度は舌打ちをしたダドリーだったが、ミレーゼの言葉に「は?」と表情を硬くする。
「どこに住むか、だと?」
「はい。ほら、アリアナとあなたの子がお生まれになるのなら、家族三人……いえ、五人で暮らす家が必要だもの。住所が決まったら、念のため、教えておいてくださいね。わたしたちの関係性を考えると、出産祝いを贈るのは流石に難しいかもしれないけど……」
「……お前は何を言っている?」
「え?」
「その顔……!」
ミレーゼは目をぱちくりとさせ、小首を傾いだ。
いつものように怒鳴りつけようとしたダドリーだが、辺境伯を前にすると躊躇われるのか、いかにも『大人な対応をするんだ』と自分に言い聞かせているふうに、咳払いをして話し始めた。
「お前の妹に、子が生まれる。単純な話だが、学のないお前には難しいことだっただろうか?」
祖父がぴくりと眉を動かす。
「まただわ……」
しかし、祖父が何かを言う前に、アリアナがわなわなと体を震わせた。
「愛人だからって馬鹿にして! 愛されているのはあたしなのよ! それなのに、まるであたしたちが出て行かなきゃいけないみたいなことを……っ」
興奮に顔を赤くするアリアナに、ダドリーが気遣わしげな視線を送る。
妻は妊娠中にも夫から労わられることはなかったが――なるほど、愛している人が相手だと、こうも違うのか。
「ミレーゼ。いくらお前でも、経験があるのだからわかるだろう? 今、アリアナは大事な時期なんだ。無駄に刺激しないでくれないか」
「ああ、それはすみません。では、離縁とダドリーさま方のお引っ越しについては、アリアナ抜きのときにでも……」
「ちょっと待ちなさい。なんなの、その引っ越しって」
愛人が忌々しげに口を挟んだ。対するダドリーは「離縁?」と眉根を寄せる。
「え、ええと、だから、アリアナが出産するんですよね。なら、ダドリーさまとわたしは離縁になります。まあ、愛人さまとアリアナまでなら本邸に置いておいても……と思っていましたが、さすがに孫となると。どこかではっきり境界線は作らなきゃいけませんし」
「待て、何を勝手に決めている? 離縁? はっ、俺とアリアナの間に子が出来たのが、そんなに憎いか。愛人を作るのは貴族の嗜みだと教えただろう。本当に、幾つになっても学ばない女だな。第一、離縁になどなったりしたら、出て行くのはお前のほうだろう」
「――どういうことだ?」
低い声が、静かに響き渡った。
「どういうことでしょう?」
それに応えるのは、困惑した表情のミレーゼ。困ったわ、というように眉を垂らす。
鼻息荒く前傾姿勢になっているダドリーたちだが、父親の顔色が悪いのを見ると、彼は長年かかり、ようやく自分の立場を思い出し始めているのかもしれなかった。
「まず、ミレーゼと離縁になった場合、出て行くのは当然君のほうだが?」
「……なんだと……ですって? お、私は当主ですよ? エドワルド家の」
「いや、そもそもそれがわからない。当主はミレーゼだろうに」
「……は?」
まるで『今初めて知った』とでもいうような反応である。ミレーゼはやはりきょとんとし、祖父は頭が痛いとばかりにこめかみを親指で押さえる。
「君は今、ダドリー・エドワルドを名乗っている。エドワルド侯爵家に婿入りしたからだ。つまり、最初から君に継承権などはない。君にあるのは『当主であるミレーゼの夫』という立場だけじゃないか」
「そ、そんなはずは……!」
「そんなはずは、もなにもないだろうに。エドワルドの血を継いでいないのだから、当然の流れであろう。この国の現在の貴族法で考えると、君にはエドワルドを継ぐ資格などひとつもありはしないのだからな。君のご両親だって、そのつもりでミレーゼとの婚約を結んだはずだが?」
「父上と母上が……でも、そんなこと、一言も言っていな――」
――本当に?
このとき初めて、ダドリーは薄っすら嫌な予感を覚えた。
当主になるとずっと思ってきた。だが、両親から直接「エドワルドの当主になるのだ」と聞いたわけではない。ただ、「領民を正しく導ける人間になれ」と言われただけだ。
いたって常識的な貴族である両親には、ミレーゼのように貴族の心構えがなんたるかなどいちいち説かなくてよかったので、当主になる旨を強調する必要もなかった。
「婿入りした人間に家を継ぐ権利はない。言うまでもなく、貴族としての常識だろう」
祖父にとってはちょっとした皮肉だったのだろうが、今まで何度も偏った『貴族の常識』を語られてきたミレーゼからすれば、なんとも強烈な当てこすりだった。ダドリー自身、後々になって、自分の放った言葉が返ってくるとは思わなかっただろう。
「で、ですがっ、どちらにしろ、子を産んでもらうのはミレーゼの妹のアリアナで――」
「だからなんだ?」
「……え?」
「その娘の子ならなおさら、エドワルドとは関係がないだろうが」
「え……?」
おお、とミレーゼは胸中で拍手を送る。
――あのダドリーが混乱している。
そして、もしかして、と日ごろから感じていたが、暴力を恐れるあまり、口に出したことがなかった事実を伝えてみることにした。
「あの……アリアナにエドワルドの血は、一滴も流れていませんよ」
反射的な反応だったのだろう。
思わずといった様子で拳を振り上げようとしたダドリーは、辺境伯の前であることを瞬時に思い出したのか、「なんだと?」と低く訊き返すだけになった。やはり知らなかったらしい。
「そこにいる父自身が、エドワルドの入り婿です。なので、アリアナはエドワルドにはまったく関係のない女性ですね。今の立ち位置で言うなら、当主の夫の愛人というだけなので、やっぱりエドワルドには無関係です」
「……たとえそうなのだとしても、少し薄情なのではないか? 彼女の母親は、お義父上の後妻だろう。なら、アリアナだって――」
「いえ、彼女は後妻ではありませんけど……?」
「……は?」
「ですから、後妻ではありません」
「な、どういうことよ!?」
「え? あの、え?」
――むしろ、こちらがどういうことだ。
そんな孫娘の表情に、辺境伯が重く溜め息を吐き出す。
「そもそも、この男はミレーゼの父親というだけで、当主だったことは一度もない。本来なら、儂の娘だった先代当主が亡くなり、ミレーゼが後を継いだ時点で切り捨てて良かったものを、『仕事さえしてくれるなら』というミレーゼの恩情一点で様子見していただけだ。……まあ、いてもいなくても変わらないぐらいの仕事量だったらしいがな」
さっさと追い出すべきだった、と視線で訴えかけてくる祖父の言葉をあえて無視し、今度はミレーゼが口を開いた。
「母はこちらの祖父の娘ですが、遠縁にあたるこちらの侯爵家の先々代当主夫妻に子が出来なかったことから、養子として引き取られ、当主の座につきました」
この国の貴族法では、結婚し、初夜を迎えたのち、三年間子が出来なければ、第二夫人を迎え入れてもいいことになっている。しかし、エドワルド侯爵家の先々代の当主夫妻は政略結婚であったにもかかわらず、相思相愛の仲だったらしい。
第二夫人を迎えることはせず、血のつながりがある者の中から養子を迎えることにしたのだ。それが、ミレーゼの母だった。
母の養父母は、ミレーゼが生まれる数年前に事故で他界している。ゆえに、ミレーゼと彼らが直接言葉を交わしたことはない。
生きていれば彼らがミレーゼを気にかけただろうが、それは叶わなかったため、母親の葬儀以降孫娘を可愛がっていた祖父が、幼くして当主になってしまった少女の後見人となったのだ。
「そして、母が亡くなったあとはわたしが当主に。なので、父は『先代当主の夫』であり、『現当主の父親』でしかありません。当主の裁可がないのに、勝手に結婚することなんてできませんよ。平民じゃないんですから」
貴族の結婚は、成人しているから自由にできる――という、単純なものではない。
無論、当主であれば可能だ。だが、貴族として結婚をするときは、必ず家から王家に申請し、問題ないとされたもののみに許可が下りるようになっている。
この家からというのがミソで、つまりそれは、当主のサインがなければ婚姻が認められないということなのだった。
当主至上主義に見えるこのシステムについては、あと数年のうちに変わりそうではあるが――今のところ、そういうことになっている。
「お前の母親が亡くなったあと、だと? ――なにを馬鹿な。お前はあのとき、まだ十歳ぐらいだっただろうが」
「はい、ちょうど十歳でした」
「子どもにそんな権限はないはずだ。当主になどなれるわけが――」
「まあ、なる人が少ないのは確かですね。だいたいは、正当な後継者に引き継ぐまで、然るべき人材を使って代理を立てますから。でも、うちにはその然るべき人材がいなかったので……貴族法的にも、後見人がいさえすれば、年齢にかかわらず当主の座につけるとありますし」
「な、んだって……」
「ということで、祖父が後見人になってくださいましたので、母亡きあとすぐにわたしがエドワルド女侯爵になりました。母が亡くなってすぐ父が結婚の申請書を提出したようなんですけど、当主じゃないので、当然書類一式が返却されまして。お父さまにも『あなたは当主ではないので、王宮に出したい書類があるならわたしを通してください』とお伝えしましたよね?」
「と、当主でないのは知っているよ。でも……」
美貌の母子は『知っていたの!?』という顔をしたが、基本的に面倒くさいことや問題になりそうなこと、自分の手に余ることを遠ざける傾向にある父親は、伝える必要がないことだと思っていた。
当主ではない。しかし、当主の父親ではある。少なからず仕事もしているし、まさか肉親を追い出すことはないだろう――と。
とはいえ、婚姻申請が却下されていたなど、知らなかったのだ。『当主ではない』『王宮に出したい――』などという遠回しな言い方では、わからないではないか――。
そう、頭の中で毒づく。
なにしろ、この男は商家出身。当時、侯爵家とは名ばかりで、経済的に困窮していたエドワルド家の財政状況を回復させるため、ミレーゼの母親が政略結婚として受け入れたのだ。
今では貴族らしく振る舞ってはいるが、貴族としての知識を身につけるのは面倒だったらしく、彼の教養と言えば、一般的なマナーを取り繕える程度のものでしかない。いくらミレーゼの母が指導しようとも、「僕は当主じゃないし、最低限のことだけ覚えておくよ。要は、この家に迷惑をかけなければいいんだろう?」と言うばかりであった。
「まさか、当主でない自分の結婚に、わたしのサインが必要だと知らなかったんですか?」
ミレーゼは純粋に驚き、声を上げる。
父の顔が、羞恥か怒りか――わずかに赤く染まった。
「ま、待て。では、アリアナは……?」
「ですから、当主の夫の愛人というだけです」
「いや、そうではなく。侯爵令嬢ではない、と?」
「侯爵令嬢……?」
きょとんとしつつ、オウム返しのように訊き返したその声音は、至極不思議そうなものである。
「どういう意味かわかりませんが、身分の話をしているのであれば、彼女は平民ということになりますね」
「……へい――」
「平民!? あたしが!?」
「え? だって、あなたのお母さまは平民でしょう? お父さまとの結婚も認められていない……ということは、愛人のまま。誰の愛人であるかによって、持てる権力は多少違うかもしれませんけど、身分としては平民であることに変わりありません」
「なんでよ!? パパの娘なのよ!?」
「えーと、はい、でも、その父は当主じゃないので。貴族は血筋を大事にしますから、単純に血の話をするにしても――いえ、するとしたらなおさら、父は大きな商家の次男でしかありませんし、あなたは生粋の平民ということになりますね」
『生粋の平民』という言葉があるのかは知らないが。
「な――」
アリアナは絶句した。
愛人である彼女も同様に。
「そもそも論ですが、貴族と平民の婚姻は原則、認められていませんよ」
無論、例外はある。
たとえば、エドワルド侯爵家のように、経済的支援を必要としていた場合だ。これについては、然るべき手続きを踏み、国王の許可が出れば婚姻も可能になる。
あるいは、配偶者として迎え入れたい相手やその家に、貴族とつながるだけの理由があった場合。後々、国に大きく貢献する可能性があるということで、これも認められる可能性が大いにあるのだが――。
ダドリーはふとこれをおぼろげに思い出し、ハッとした。
「だ、だが、ミレーゼ。ここで俺共々、アリアナを追い出していいのか?」
「……えーと? どういう意味ですか?」
「アリアナはあの王立学園で優秀な成績を修めていた人間だぞ? たとえここから追い出されても、アリアナにはいくらでも仕事があるだろう。だが、エドワルド侯爵家はそんなアリアナを追放したと追及されるおそれがある。そうは思わないか?」
「ああ、それ! ――前から聞こうと思ってたんですけど、どういうことなんですか?」
そういえば、とミレーゼが手を叩く。
辺境伯も不可解そうな表情を浮かべていた。
話が思った通りに進まないので、ダドリーの声色がややぎこちなくなる。
「どういう意味……とは?」
――顔を青褪めさせるアリアナには、ミレーゼと辺境伯以外の誰も気付いていない。
「あの、さっきので答えは出てると思うんですけど、平民は王立学園に通えません。あそこは基本的に、貴族として必要な知識を養うための場所ですから」
「あ……」
アリアナは平民。
つまり、入園資格もないということ。
「アリアナ……?」
ダドリーが隣に座る愛人に視線を遣ると、顔を青褪めさせたまま、下唇を噛んでいるのが見えた。――そういえば、妹とはいえ、学年は同じだと言っていたのに、学園でアリアナを見かけたことはなかった。
そんなことを、今更ながらに思い出す。
学園の方針で、生徒の試験結果が公表されることはないから、『試験で首位を取った』という自己申告を鵜呑みにしてしまったのだ。
「それから、これもずっと不思議だったんですけど――アリアナ。なんでわたしのことを『お姉さま』って呼ぶんですか?」
アリアナの華奢な肩が、びくりと震える。
嘘を吐かれていたことに戸惑いと混乱を覚えたまま、それを怒りに昇華させる間もなく、ダドリーは半ば反射的に「同じ父親から生まれたんだ。いくら関係ないと思っていても、姉とすら呼ばせられないというのか。なんて狭量な」と反論した。ミレーゼの上にいるように感じられないと、落ち着かないということなのだろう。
そんなダドリーの苦言に、ミレーゼは再度きょとんとする。
「ええ、別に姉妹だと勝手に思ってもらうのはかまわないんですけど。彼女、わたしの妹じゃないので……」
「――はあ? 半分とはいえ、血のつながった妹をそこまで邪険にっ」
「じゃなくて! アリアナはわたしの姉なので!」
「しな、くても……え?」
二人きりのときは『ミレーゼ』と呼ぶのに、ダドリーの前では『お姉さま』と呼んでくるので、徹頭徹尾不思議に感じていた。
訂正しようとしたこともある。
だが、そうするとやはりダドリーが、話半ばで「お前の言葉はすべて言い訳じみている」などと言い出して、有耶無耶になってしまうのだ。結局はいつも、ミレーゼが諦めることになった。これについては、たとえダドリーが勘違いしていようと問題はないということで見逃していたのだが――おそらくこれが、最後の機会になるだろう。気になることははっきりさせておくべきだ。
アリアナと二人のときに聞いてみても、のらりくらりと躱されてしまうので。
「アリアナが……姉?」
「アリアナはわたしより四つ年上ですね。今はともかく、子どものときの四歳は大きな差でしょう。母の葬儀でアリアナと初めて会ったとき、わたしより随分と大きな身長で、わたしのことを『お姉さま』って言っているのを見て、まったく違和感なかったんですか?」
「そ、それは……」
「それとも、あなたもそれなりに上背があるほうだったから、気付きにくかったんですかね。十歳とは思えない発育の仕方だったと思いますけど」
あのころ、アリアナとミレーゼの間には、大きな身長の差があった。ミレーゼの身長自体、昔からいたって平均的なものなので、『ミレーゼが小さすぎた』『アリアナが成長期を迎えた』というのはあり得ないだろう。
「本来なら、わたしのほうが『お姉さま』と呼ぶべき立場ですよね」
アリアナは、ほとんどやけくそ気味に舌打ちをした。知りもしなかった(不利な)事実が次々と暴露され、嫌気が差したのかもしれない。
「い、妹のほうが可愛いじゃない!」
「……かわいい?」
「姉より妹のほうが、優しくしなきゃって思ってもらえるでしょ」
「うん、で?」
「なにが、で? なのよ」
「え、いや、え? それだけ……ですか?」
「は? 十分すぎる理由じゃない。婚約者に可愛いとすら思ってもらえないあんたには、一生かかってもわからないだろうけど」
気になってはいたが――いざ聞いてみると、呆れるほど下らない理由だった。
「まあ、それはいいとして」
爆弾を落とすだけ落として、ミレーゼは続ける。その自由奔放さに、辺境伯は『誰に似たんだ。母親……母親か?』と心の内で頭を抱えた。考えてみれば、確かに、ミレーゼの母親も好奇心旺盛で、切り替えが早かった――と。
「最初の話……アリアナが子を産む、ということですけど。まさかダドリーさま、あなたが当主でいるつもりだったなんて、夢にも思っていませんでした」
「なっ……」
「だって、そもそも領主の仕事をしていないでしょう? どうやって領地運営をしていると思っていたんですか?」
「ほ、補佐官や執事がどうにか回してくれているのかと……」
「あのねえ、だとしても、当主が『何もしなくていい』だなんて、そんなことあるわけないじゃないですか。何かを決めるときには必ず、当主の承認が求められるんですから。こまめな指示出しも必要ですし。なにより、領地運営は付け焼刃でどうにかなるものじゃありません。あなたのご両親やわたしが、あなたに次期領主としての教育を勧めたことなんてありました?」
――呆れた。
こんな甘えた考えの男が、自分に『貴族の常識』を説いていただなんて!
ミレーゼは嘆息した。
「というわけで、自分の子は自分で養ってくださいね。よくわかりませんが、アリアナは優秀? だということなので、どうにでもなるでしょう。新しい住居は――」
「待て! だから、なんで俺が離縁されなくてはならない? と、当主でないことは……理解した。だが、当主の夫ではあるんだろう? なら……」
「ええ? まさか、婚約期間の最中に変更された契約書、読んでないんですか?」
「契約書……」
読んでいない――いや、読んだ?
ダドリーが心の中で考えている間に、辺境伯が説明を始めた。
「そもそもこの婚約は、エドワルド侯爵家とマルクス伯爵家の共同で立ち上げた事業を確固たるものにするためのものだった。エドワルドには娘がひとり――ミレーゼしかおらんでな、マルクスの息子ふたりのうちどちらかをエドワルドでもらい受けることにしたんだが……兄のほうはすでに婚約者がいた。それも、良好な関係を築いていると言うじゃないか」
「だから、お――私、に……」
兄ではなく、自分のほうが侯爵家に相応しいと認められたのだ。ダドリーは、領主教育に励む兄を見るにつけ、鼻で嗤っていた。
「それに、君は勉強が苦手なのだとご両親が言っておった。とても領主は務まらないだろう、とも」
「は……?」
「なら、優秀だと言う兄を伯爵家の当主に、凡庸な弟を侯爵家当主の夫に、という話になった。当主の伴侶というだけなら、飛び抜けて優秀である必要はないからな。昔から思い込みが激しく、なんでも自分の都合が良いように解釈してしまう、一度そう思い込んだらなかなか意見を変えられない、と当時からご両親はそれはそれは心配されていた」
ミレーゼに対し、『貴族の常識』を執拗に言い聞かせていたのは、そういう悪癖の表れだったのだろう。それを正面から受け止めなければならない人間からしてみれば、たまったものではないが。
「私が優秀だから……では、ない?」
呆然とダドリーが呟いた。
「誰が君を優秀だなんて言ったのか……まあ、そうであればいいとは思うが。学園の成績も平均的だったと聞いているぞ。ああ、確かに地頭が悪いわけではないんだろう。だが、君はコツコツ積み重ねるのが苦手だった。凡庸でも必要な努力ができる人間は好ましいが、やるべきことがあるのにもかかわらず、それを放棄する人間が領主に相応しいとは到底思えんな」
頭がパンクしそうだ――。
ダドリーは目を白黒させた。
知らない事実が次々と明らかになっていく。誰も教えてくれなかった。いや、知っているべきなのに知らなかった――らしい。
「そして、政略結婚であろうと恋愛結婚であろうと、貴族の婚約に家や利権が絡む以上、そこには契約書が存在する。君に求められることはそう多くなかった。だから最初はいたってシンプルなものだったんだが、初めてミレーゼと顔合わせをしたときの態度で、『侯爵家の婿として不適格ではないか』という話が持ち上がった」
「え――」
「まともな挨拶さえできないのは、子どもならまあ許されるかもしれないが、もうすぐ十を迎えるという時期になって、親しくもない他家のご令嬢に突然『不美人』などと暴言を吐き、相手が何も言えないように躾けるなど、普通はあり得ないからな」
「ミ、ミレーゼ! お前が告げ口を……」
「はっ、当時四つの幼子にいったい何を言っているのか。ミレーゼではない。あの場にはエドワルドに仕える他の人間だっていたのだから、ミレーゼの母の耳に入るのは当然だろう。彼らには、報告の義務がある」
高貴な身分を持つ者の中には、使用人を『人』として数えない人間もいる。身分が高ければ高いほど、その傾向も顕著であるが、伯爵家出身のダドリーもそうだったということなのだろう。
ミレーゼに対していつでも優しかった乳母も、婚約者として交流するとき背後に控えていた侍従の彼も、ダドリーにとっては物同然だったのだ。
「だが、こんな理由で破談になってしまっては、両家のつながりにひびが入るかもしれない。君がまだ幼い少年だったこともあり、ひとまずは注意だけで済ませることにした。まあ、ミレーゼの母も君のご両親も、婚約などで両家を結ぶべきでなかったと後悔していたが」
ミレーゼの母も、ダドリーの両親も、まごうことなき政略結婚である。
ミレーゼの母の相手は、入り婿でありながら愛人を作るような男だったが、毒にも薬にもならない人間だったので目にはつかなかった。
対して、ダドリーの両親は貴族的な一面もあるが穏やかで、婚約から結婚後にかけて、順調に愛を育んでいったのだろう。社交界でも、仲睦まじい様子が微笑ましく受け止められている。
そんな二人のもとに生まれた子どもが他人を堂々と見下すようになってしまったことに、両親は気がついていなかったらしい。
『そういえば、注意された……かもしれない』などとダドリーがぼんやり考えているうちにも、話は進んでいく。
「しかし、いくら注意しようとも、君の様子はまったく変わらない。それどころか年々酷くなり――ついには、手を上げた。そのうえ、エドワルドに抗議するとまでのたまったらしいな。無論、そちらについてはこちらから厳重に抗議が行き……マルクス伯爵家からは慰謝料も支払われたが」
「慰謝料!?」
「当然だろう。頬が腫れた程度とはいえ、意図して貴族令嬢に暴力をふるったのだから。君のご両親は何度も言って聞かせたが、『女に下げる頭などない』と言って君は謝罪にすら来なかったと聞いている。その時点で、君のご両親は息子を諦めることにした」
「……あ、諦める?」
「時には厳しく叱りつけたり、良心が咎めながらも、時には罰だと言って食事を抜いたりしたそうだが、結果として、君は『男に縋って生きていくしか能がないのが女なのだから』と、態度を改めようとはしなかった。どうしてこうも偏見を持つようになってしまったのかと焦ったご両親が、同年代のご令嬢とのかかわりが少なすぎたのではないかと、子どもだけの茶会などに参加させてみても、必ずひとりふたりご令嬢を泣かせてしまう。その点、ミレーゼは昔から感情表現が苦手な子でな。君に何を言われても泣かなかったので、ご両親から『ダドリーはもう他のどこにも婿にやれないだろう。衣食住だけ用意してくれればそれでいいから、どうか婿に貰ってやってくれないか』と頭を下げられたのだと言う」
「……だからといって、まったく傷付かなかったわけではないですけどね。まあ、実際はそれだけじゃないっていうか……そんな良い話でもありませんし」
そんなこともあり、母の葬儀でアリアナと遊ぶダドリーを見たときは、流石のミレーゼも驚いたものだ。まあ、可愛いだけではどうにもならない高位貴族の令嬢と違い、感情豊かで、女の使い道がわかっているアリアナとは気が合ったのだろう。
平民と貴族なので、二人が真実結ばれるとしたら、ダドリーが平民になったときであるが。
「その分、事業については、ある程度こちらに有利な条件で進めてもらうことになった。婚約など解消してもよかったのだが、ミレーゼが『自分は気にしない』と言うのでな」
「流石に毎日暴力を働かれるのは怖いので困りますけど、結婚しても一緒に住むことはないだろうなと思っていましたし。わたしが当主なので、別に無理して社交場に顔を出していただく必要もありませんから」
そこでダドリーはハッとした。
結婚して三年弱。
仕事もせず、面倒な社交もせず――気がつけば、学生時代の悪友たちやアリアナとしか交流を持っていないことに気がついたのだ。
その悪友たちも、この一年ほどは、とんと疎遠になってしまっている。彼らの中には家の跡取りもいるので、いつまでも遊んではいられない。そういうことなのだろう。
「だが、君を引き取るといっても、こちらの邪魔をされては困るだろう。なので、途中で契約内容が見直されることになった」
「そのひとつが『愛人について』ですね」
「……愛人について?」
「はい。あなた、『貴族男性なら、愛人を持つのが当たり前だ』というような発言を繰り返していましたけど、それは当主になる場合であって、入り婿の場合はほとんどありえない状況です。妻に離縁されれば、家を追い出されるのは自分のほうですからね」
「あ……?」
「もっとも、当主になる場合でも、あちこちに愛人を作る男性より、妻ひとりに愛情を注ぐ男性のほうがずっと好ましく映りますよ。あなたのご学友の方々がどんな考えをしていたかは聞くまでもありませんけども。貴族女性は当然だからと素知らぬ顔をしているわけじゃなく、いまだ男性に有利な貴族社会の中で、そういうことはあるものだと周囲に窘められるから、歯を食いしばって我慢しているだけです」
結婚と恋愛は別物だと考える人が多いので、女性でも愛人は作れる。しかし、あまり褒められたことではない――というのが一般論だ。
愛人のいる婦人でも、その事実については口外しない。
「ええと、それで、契約内容についてですけど、女性を見下している時点で、いつか女性関係で問題を起こすのではと薄っすら嫌な予感がしたので、『愛人に子ができた場合、あるいは女性に怪我をさせた場合は離縁となる』という条件も盛り込んでおきました」
もちろん、アリアナと出会う前の話である。
「な、なにを勝手にっ!」
「え、でも、契約内容に変更があったとき、あなたにも説明が行ってるはずですよ。ご両親がわたしの目の前で、『あとでわかりやすく説明もするが、まずは自分でもしっかり読み込んでおくように。将来に関わることだから』と言って、あなたに書類一式、渡していらっしゃいましたし……?」
今度はミレーゼのほうが、困惑したように小首を傾いだ。自分の夫はもともと暴力的な人だが、ここまでおつむが弱かっただろうか、と。共寝するときぐらいしか一緒に過ごさないので、わからない。
「だ、だいたい、そんなの卑怯だろう!」
「卑怯……?」
「貴族なら、夫の愛人に子が生まれたら、庶子とはいえその家に迎えられるのが常識じゃないのか!」
「……だからそれは、夫が当主だったらの話ですって。夫が当主であれば、義務ではありませんが、そういうこともあるでしょう。でも、入り婿なら話は変わってきますよ。夫には継ぐべき家の血は流れていない。愛人の子ならなおさらです。なぜ、エドワルドの血を継いでいないアリアナの子を受け入れなきゃいけないんですか?」
メリットがないどころか、下手すればお家乗っ取りの大騒動である。
子宝に恵まれず、養子を取ることにした場合でも、貴族は血が一番。親戚筋から貰い受けるのが一般的だ。
たとえ親戚筋に適当な人材がいなかったとしても、愛人の子を選ぶ貴族はほとんどいないだろう。悪意を持って、血筋を乗っ取られる可能性があるからだ。
「待って、待ってよ。じゃあ、あたしはどうなんの!?」
アリアナが叫んだ。
ミレーゼは祖父と顔を見合わせ、それから肩を竦める。
「知りませんよ。彼とは離縁するし、この際父にも出て行ってもらおうと思うので、家族五人ならどうにでもなるんじゃないですか?」
「あ、あたしに働けって言うの!?」
「……えーと。逆に、今まで働かずにいられたほうが奇跡なんですけど。うちにいるのだから、少しは手伝ってくれないかって何度も言ってましたよね」
この話があとで偶然誰かの耳に入ったとき、『やるべきことをやらずに夫を家から追い出した』と言われては敵わないので、言い訳用に、常識の範囲で注意するようにしていたのだ。
「そこをダドリーさまが威圧して黙らせ、悠々自適な生活をしていたから『働きたくない』だなんて思うんじゃないですか。働き始めてしばらくすれば、慣れ――」
「あの、僕まで追い出すことはないんじゃないかなあ……?」
今度は父親だった。
まったくもって諦めの悪い人たちである。
「だって、唯一の愛娘に孫ができるんですよ? 初めての出産は不安になるもの。アリアナにとっても、両親そろってサポートしてくれたほうが心強いに決まってるでしょう」
「き、君だって僕の可愛い子どもで……」
「そうですか……。でも、二十年以上生きていて、両手で数えられる程度にしか顔を合わせたことがない人を、わたしは父親だと思えないんですよね。ごめんなさい」
事実、ミレーゼはこの男を他人だと思って生きてきた。強いて言うなら、仕事のサポートをしてくれるお手伝いさん。といっても、そのサポートも微々たるもので、あってもなくてもほぼ変わらないのだが。
業務連絡は使用人を通して行っていたので、父親ですら、ミレーゼ本人が主軸になって領地運営をしているとは考えていなかったのだろう。
父親にはなれずとも、仕事において役立ってくれていたら、流石に追い出すことまではしなかったはずだ。
母は気にしていなかったし、自分もまたそうだと思っていたが、ダドリー含め、入り婿なのに正妻が生きているうちに愛人とその子を家に連れ込むなど、本来はあり得ない。
ひとりで過ごすうち、いつしかミレーゼは、『きっかけを見つけて出ていってもらおう』と考えるようになっていた。
「――それにあなたは、わたしの名前を呼んだこともない」
たまに会うと、『君』や『ねえ』などと呼ばれていた。一時は、愛情がないだけでなく、憎まれているのではと思ったほどだ。いや、もしかしたら真実、そうなのかもしれない。
だが、そんなことはもはやどうでもよかった。
「な、何を言っている? 君は家族と仲が良かったはずだろう!」
「へ……?」
「なのに、実の父親を家から追い出すような真似――」
「あの、家族と仲が良いって……誰の話です?」
表情を強張らせた父に代わり、ダドリーが大袈裟に悲しそうな演技をする。ミレーゼはさらに困惑した。
「誰のって……」
「わたしとアリアナを見ても、そんなことが言えるんですか?」
「そ、れは、アリアナはほら、俺の愛人だからっ」
「まあ、確かに愛人と親しくなるのは難しいかもしれませんけども。そうじゃなくて、この家族の中に、わたしが入っていけるとでも?」
「だ、だが、お義父上は穏やかで、家族を大事にする――」
「ああ、はい。家族を大事にする方ではありますね。だいたい、わたしのことを可愛いと思っているなら、わたしを向こうの邸に置いておいたりはしないでしょう」
「いや、それはあそこが本邸で、母親と過ごした記憶があるから自ら進んであそこにいると……それでアリアナが、姉と仲良くなれないと悲しんでいたことがあって」
「母と過ごした記憶があるというのは事実です。もっとも、あそこに居続ける理由は、単に引っ越し作業が面倒くさいというだけの話ですが。あと、細かい点を修正するなら、あそこは別邸です。ここが本邸」
アリアナをちらと見遣ると、その顔色は紙のように白い。呆れを通り越し、ミレーゼは感動すらしていた。人はこうもナチュラルに嘘が吐けるものなのか、と。
貴族の一員として、ミレーゼも必要な嘘は吐くが、意味のない嘘は吐かないようにしている。自分が誰に対して何を言ったのかわからなくなるし、ひとつ嘘を吐けば、その嘘を隠し通すために、さらに嘘を重ねなければならなくなるからだ。
「ここが、ほんてい」
ダドリーが、ほとんど片言でミレーゼの言葉を繰り返した。
見当違いなことが多いが、『貴族の常識』をこのうえなく愛する彼のことだ。それが普通の状況ではあり得ないことに、なんとなく気がついたのだろう。
「愛人が本邸に住むことなどほとんどないので、勘違いしてしまうのも仕方ありませんね。最初はわたしも本邸に住んでいたんですけど、母が仕事の都合で王都に行くというのでわたしもついて行ったところ、本邸を離れている間に、愛人宅に入り浸っていた父が愛人母子を連れて帰宅しまして。その二人が絶対に出て行かないと言い張るので、わたしたちが別邸に移ったんですよね。まあ、母としては、仕事さえできればどこでもいいみたいでしたし」
わざわざ口論してまで本邸にいる価値はない、と判断したのだ。あとはもう、ミレーゼとしても母に従うのみだった。
時間が経つと、いつの間にか愛人とアリアナに傾倒する使用人が増え、ますます本邸には近寄らなくなった。ミレーゼたちを支持する使用人はことごとく追い出され、自主退職する者が後を絶たない状況だった。
そのうちの数名は、今でも別邸で仕えてくれている。
本邸の人事的な采配はすべて父親に任せていたので、そのようなことが可能だったのだろう。とはいえ、あまり深く考えない父親のことだ。母親も万一のためにと時折チェックして、怪しげな人物を見つけたときにはこっそり排除していたようである。無論、ミレーゼも同じことをしているのだが。
「なので、別邸には(使用人を除いて)わたしひとりで住んでいるようなものですね。昔から」
「昔からひとりで……い、いや、しかし、俺が訪ねるときはいつもアリアナが――」
「ああ、それは、わたしがあなたのスケジュールを把握していたからです」
「……は?」
「昔からあなたの先触れは突然でした。『二時間後に顔を見せる』というように。正直、こういうのって物凄く困るんですよね。婚約者とはいえ、お客さまをもてなすのにはそれ相応の準備が必要ですから。仕方なしに父に訴えてみても、わたしが合わせるべきだと言うだけだし……あなたのご両親に相談したら、注意してくれるとはおっしゃっていましたし、実際、そうしてくださったのだとは思いますけど――あなたは変わらないし」
『人の家を訪ねるときは、余裕を持って先触れを出しなさい』と、いつか言われた両親の言葉を、ダドリーは思い返していた。
――聞いている。聞いてはいるのだ。両親の言葉を。
ただ、届いていないだけで。
「なので、苦肉の策として、あなたのご両親と協力し、あなたのスケジュールを把握することにしたんです。あなたの空き時間さえわかれば、だいたいいつわたしを訪ねてくるのか予想できますからね。執務に支障を来すほどアリアナがしつこかったので、仕方なくその予想を教えていたんですよ。そのうち、先触れさえなくなったときには、本格的に行動パターンを予測しなければいけなくなってしまい、少し困ったことになりましたけど」
家族ぐるみで行動を監視されていたとわかったからか、ダドリーは肩を震わせた。
「あの……そろそろいいですか? あなたたちがこんなに無教養だとはわたしも知りませんでしたが、これってとても単純な話だと思うんです」
「単純……?」
「入り婿が愛人を作り、子を設けた。契約書の内容に則って離縁する。その家族であるお父さまと愛人さまも一緒に出て行っていただく。以上――というだけのことでしょう? 何か問題がありますか?」
――特に離縁については、昔から契約で定められていたことなのに?
そんなミレーゼの疑問が聞こえてくるようだった。
しかし、ここで引き下がったら最後、まともに働いたことのないダドリーたちに明るい未来はないだろう。もともと平民だった愛人はわからないが――少なくとも、知らずのうちに高くなってしまった生活水準を意図して下げるのは難しい。
「ま、待て待て。だいたい、そんなことを言っていいのか?」
「……え?」
「お前のように学のない女が、ひとりで侯爵家を守っていけるとでも?」
「あ……そうよ! 確かに今まで、この人は何もしていなかったかもしれないけど、本気を出せばっ」
早口で言い募るダドリーとアリアナを、きょとんとした顔で見つめるミレーゼ。締まりのないその顔に、ダドリーが「その顔!」と嚙みついた。
「昔からそうだった。理解が追い付かなくなると、考えることを放棄したくなるのか、呆けた顔ばかりしやがって。特に難しい話をしたわけでもないのに、いったいどうしてなんだ? こんなんじゃあ、やはり侯爵家を引っ張っていくのは無理だろう」
「え?」
「……だから、その顔をやめ――」
途端、何かが破裂したような音が響いた。
ソファーから飛び上がらんばかりの勢いで驚いたミレーゼが、その音の発生源に視線を向ける。
「ああ、すまん、すまん」
祖父だった。
祖父が爆笑している。
――目尻に涙を浮かべてまで!
穏やかに微笑むことはあったが、声を上げて笑うところを見たのは初めてだったので、ミレーゼはぱちくりと目を瞬かせた。
「なるほど。君たちにはこの顔が『理解できない』というふうに見えているのか。まあ、あながち間違ってはいないが……」
「で、でしょう!? まったく、小さいころからこの調子で――」
「ただ、君たちの考える『理解できない』とは少し違うと思うがな」
目尻に浮かんだ水滴を指先で拭いながら、祖父がミレーゼを優しく見下ろす。
「ミレーゼ、言ってみなさい。今、何を考えていた?」
「え? 『何を言ってるのかしら、この人』と思っていただけですけど?」
「それがどういう意味か、説明してあげなさい」
「説明と言われましても……だって、先ほどからのお話を聞いていれば、なんとなく想像できるじゃないですか? 侯爵家をわたしがひとりで回していることぐらい。自分が当主でもなく、補佐官に任せきりにしていたわけでもない、というところまでわかってるんですから。まあ、優秀な人材を確保して、それなりに手伝いはしてもらっていますけど……なのに、いったいどうしたら『侯爵家を守れない』だなんて話になるのか、わからなくて。わたしにとっては、あなたたちが出て行ったとしても、今までの生活になにひとつ変わりはないのだし……」
「やっぱり理解できないな、と思って」と本音を告げるミレーゼに、ダドリーの顔色が徐々に悪くなっていく。祖父はまるで悪役のように意地悪な笑みを浮かべた。
「つまり、この可愛らしい『きょとん顔』は、相手が自分に対して言っていることはわかるが、なぜそんなことを言うのか理解できないというようなときに出る表情だ」
それすなわち、馬鹿にしているとも言う。
「な、っ。な、なら、顔合わせのときにその顔をしたのは……」
「顔合わせのとき、ですか?」
「『お前のような不美人を――』と言っただろう!」
「……よく覚えてますね」
普通、この手のことは、加害者側はすっきり忘れてしまいがちなものであるが。
もっとも、契約書関連についての記憶が抜け落ちているのを見るに、記憶力が良いというわけではないのだろう。自分にとって印象的だった出来事は、誰しも少なからず覚えているものだ。
ミレーゼ自身、薄っすらとだが、当時のことを覚えていた。
「あのときは、『お前のような不美人を嫁にもらってやるだけ』という発言があったので、『婿に来るのはそっちのほうなのに、なんでわたしが嫁に行くことになっているんだろう』と思いました。それに、この人は自分より年上なのに、まともに挨拶することもできないのかしらと考えていたので」
「な……では、刺繍を渡してきたときの、あれは」
「ああ! あれはショックというか……人からの贈り物を、まさか目の前で『捨てろ』と命じるだなんて、婚約者以前に人としての問題だなと思ったので、よく覚えてます!」
「なん――」
「まず、いくら淑女の嗜みとはいえ、六歳の子どもに完璧を求めること自体間違っていますし、『惜しまず努力すべきだ』っておっしゃっていましたけど、あなた自身、努力が苦手なタイプなのに何を言っているんだろうと思って。自分のことを棚に上げて、というより、まさか自分では努力しているつもりだったのかしらと考えたら、なんだか可哀想でしたし」
だいたい、愛人であるアリアナだって、刺繍は苦手だろうに。というより、彼女は平民なので、淑女教育を受けたことがない。貴族令嬢なら必ず通る道であるにもかかわらず、だ。
その時点で、愛人もアリアナもエドワルドの籍に入っていないことに気がついてほしかったのだが、幸か不幸か、父親も元は平民。面倒くさい社交界にも近づかなかったため、そもそも淑女教育が必要なものであるという認識に至らなかったのだろう。
結果として、アリアナは口調だけが貴族らしい平民になった。
あれだけ『貴族の常識』を説いていたダドリーなのに、アリアナなら許せるのかとミレーゼは感心したものである。平民だと誰も知らなかったのには、流石に驚いたが。
「お前の母親の、葬儀のあとは」
もはや、ダドリーは息も絶え絶えである。
「……お母さまの葬儀のあと? あ、もしかして、アリアナと『愛人になる』云々の話をしていたときですか? あれは、契約内容に変更があった直後だったので……。相手がアリアナでないにしても、この人には愛人を作るつもりがある。つまり、将来的にはきっと離縁になるわねと思っていただけです。あと、アリアナが『自分たちをエドワルドの一員ではないとわたしが意地悪する』なんて言っていたのも不思議で。だって、事実、エドワルドとはなんの関係もないお二人ですから」
それも、母親がすっかり後妻気分だったというのなら頷ける。アリアナはただのアリアナではなく、ずっとアリアナ・エドワルドのつもりだったというわけだ。――あり得ない。
「それに、急に『お姉さま』だなんて呼ばれて、単純に驚いていたのもありますね」
妻になろうとする人間の目の前で、見せつけるように積極的に愛人になろうとするあたり、この年齢にしてとんでもない人だとも。
「お、王立学園の話をしたときは……」
「ああ、あの、アリアナが学年首位をキープしているとか言ってたやつですよね。普通に『この人、そもそも王立学園になんて通ってないのに、何を言っているのだろう?』と思いまして。あなただって最終学年はわたしと被っていたのだから、アリアナだって見つけられなきゃおかしいでしょう。それに、半年遅れの妹だなんて情報、どこから出てきたのかもわかりませんでしたし。あのときは混乱しっぱなしでした」
貴族の義務である、王立学園への入園。
彼らにとって、いろんな場所で『自分たちが貴族ではない』と気付くヒントはあったのだ。むしろ、それしかない。
父親があまりに無関心なので、ミレーゼは祖父に助けてもらいながら、けれども最終的にはほとんどすべてのことを、自分で決めなければならなかった。
「……初夜のことは?」
「しょ、初夜? あまり話題に出したい内容ではありませんが……いったい、何を?」
「直前まで、やはりきょとんとしていただろう!」
「……えーと、ああ、あれは――あの、なんと言うか、少し言いづらいんですけど……なるほど確かに、あなたってすごいですね! こんなにも言いづらいことをサラサラと口にするなんて、なかなかできることじゃありませんよ」
「はあ?」
「あれは……あなたが『お前の役割は子を産むことだけだ』とおっしゃったので、『それ、逆では?』と思っただけです」
「……逆?」
「はい。あなたがここにいる理由はただひとつ、わたしとの間に、子を設けることのみですから。二人か、それ以上。あなたのお兄さまは、領主としては優秀ですが、少し体がお弱くありますよね。もし奥さまとの間に子が生せなかった場合、うちの子を跡継ぎとして養子にすると契約してありました。それも無理だったなら、親戚筋からどうにかするとおっしゃっていましたけど」
「お、れの役割、は……」
「え、だから、子を設けること、です」
ついにダドリーが撃沈した。
――優秀だと思っていた。だからこそ、伯爵家よりも位の高い侯爵家の当主として選ばれたのだと!
それが単なる種馬扱いだったなどと、誰であっても信じたくはないだろう。
「それに、なんか不思議だったんですよね。『俺に愛されているわけではない』という言葉って、わたしがあなたを愛しているという前提があってこそじゃないですか? 好きだとも愛しているだとも言ったことがないのに、なんでそんな勘違いをしてるんだろうって」
「……俺を、好きじゃ、ない?」
「ああ、やっぱりそう思ってたんですね! でも、考えてみてくださいよ。あなた、わたしに好かれるようなこと、何かしました?」
「お、俺はっ、――顔が良いだろう」
「顔? えーと、ええ、まあ、はい。悪くはないと思いますけど。でも、あなた以上に見目が麗しい人なんて、この世の中にはたくさんいますし。わたしは自分の血を継いだ子さえいればいいので、別にあなたがどんな顔立ちかなんて関係ありませんね」
整った容姿はそれだけで好印象を与えるので、確かに貴族にとって重視すべき点ではある。ただ、貴族というだけで、それなりの見目をしている場合がほとんどだ。なので、ミレーゼにとってはどうでもいいことだった。
「流石に『生理的に無理』と思うほどなら、わたしもこの婚約を考え直したかもしれませんが……幸運なことに、そこまでにはならなかったので! それに、アリアナを恋人にした時点で、いつかは離縁するだろうなと感じていましたから」
アリアナに一途――と言うなら、ミレーゼも少しはダドリーを見直したかもしれない。しかし、アリアナと同時進行で、複数の女性と付き合っていたことは知っている。それでも、愛人にするなら自分への嫌がらせも含め、アリアナしかいないだろうと踏んでいた。
「……そんな」
重苦しい沈黙が流れ込む。
もはや誰も言い返せない有様であったが、ただひとり、ミレーゼは空気に呑まれることなく、少しだけ困ったような表情を浮かべている。
無論、淑女教育の賜物である。
(お祖父さまのおかげだわ! 暴力をふるわれる心配がないというのは――ううん、味方がいるというのは、こんなにも心が軽くなるものなのね。ダドリーから話があると呼び出されたとき、たまたま王都にいらしたお祖父さまに声を掛けておいて正解だったわ)
ミレーゼは満足げな笑みを浮かべた。
「何も知らなかったというなら、すぐに出て行けというのも大変でしょう。二週間ほどお待ちしますから、その間に次の住居を決めて、出て行く算段を決めてくださいね」
「それは……優しすぎないか?」と辺境伯は眉根を寄せたが、社交界に友人もいない、かといって市井に伝手ひとつない状態では、たとえ二週間あったところでどうにもならないだろうことは明らかだった。
そのうえミレーゼは、にこやかな表情の下で、契約を破ったことによる違約金を請求する気満々である。事業に関する契約については、このあと再度マルクス家の当主夫妻と話し合う予定だ。
「ミレーゼ……」
血の気を失った顔で、ダドリーが呼ぶ。
「お、俺が――いや、俺のことを嫌いじゃなければ、チャンスをくれない、だろうか。アリアナとは別れる! 今後は不義理な真似もしないと誓うっ。子どもも大事にする。だから――」
「ちょっと、ダドリー!?」とアリアナが叫ぶのを聞きながら、ミレーゼは肩を竦めた。
「嫌いというより、そもそもあなたがどうなっても興味がないというか……まあ、あの子たちを授けてくださったのは感謝してますよ。正直、子を産むのは貴族家に生まれた者の定めとしか考えていなかったんですけど、いざ妊娠すると『あの人の子どもを本当に愛せるだろうか』と不安になりましたし。でも、実際はまったくの杞憂で、母として必要としてくれるあの子たちが、わたしは可愛くて仕方ないんです」
「じゃ、じゃあ……!」
「とはいえ、それとこれとは話が別です。わたしにとって、あなたはあの子たちの父親であるというだけ。しかも、あの子たちが生まれてから一度も、あの子たちに会ってませんよね。名前すら知らないんじゃないですか?」
「……それは」
「それに、わたしは何度か『子どもたちに会うつもりはあるか』とお聞きしました。そのとき、あなたがなんて答えたか覚えてますか? ――『それで俺の気が引けるとでも思っているのか』ですよ。子を生すためだけにあなたを利用したわたしも似たようなものですが、ほんと、人でなしだなと思いましたね。いえ、婚約した当初、恋愛感情にならずとも、穏やかな関係が築ければと考えていたわたしよりもむしろ……」
それを台無しにしたのは本人だ。
確かに、ミレーゼは誰もが振り返るような美人ではない。好みでないというのなら、それもまた仕方のないことだろう。
だが、貴族の結婚など所詮はそんなもの。そのあとどうするかは、あくまでも本人次第なのである。
「それでは皆さま、ごきげんよう」
社交用の微笑みを浮かべて立ち上がったミレーゼを見上げて、ダドリーは目を細めた。――アリアナと、全然違う。
立ち姿ひとつ取っても、きちんと淑女教育を修了した女性はこんなに美しいものなのか。
(今までの愛人や恋人はほとんど……平民だったから気がつかなかった。侯爵令嬢であるアリアナにも劣らないマナーがあるから、品のある女ばかりに手を付けてきたと思っていたが――)
実際は、アリアナのほうが平民だったということである。
「ミレーゼ……」
今更、逃してしまったものの大きさに気がついても、もう遅い。
部屋を出て行くミレーゼと辺境伯の後ろ姿に、ダドリーは未来が閉ざされていくのを感じていた。
「ミレーゼ」
ふと顔を上げると、自身によく似た、けれども男らしい渋さを併せ持った男がミレーゼの手元を覗き込んでいた。
「お祖父さま!」
幼さの抜けきらない顔にパッと笑みを浮かべると、ミレーゼは読み終わったばかりの手紙を祖父に差し出す。「儂が読んでも?」と聞かれたので、うんとひとつ頷いた。
「……ああ、マルクスの当主からだな」
それは、ダドリーの父親からであった。
一週間ほど前、やっと彼らが出て行ったので、その報告をしておいたのだ。これはそれについての返事である。
「なんと、子が生まれるか!」
おめでたい、と声を弾ませる祖父の姿に、ミレーゼは笑みを返した。どうやら、病弱だからと言っていた嫡男の妻が妊娠したらしい。これで養子の話は立ち消えになるだろう。
(にしても……)
肝心のダドリーについては、一切触れられていなかった。
完全に関係を絶ったということだ。
そもそも、ダドリーの両親は一時期、本気で彼を貴族籍から廃そうとしていたほどだった。だが、なんの問題も起こしていない息子と一方的に縁を切れば、マルクスに悪評が立ちかねない。
学生時代も含め、ダドリーの評判はもともと地を這っていたものの、それは『性格が悪い』という理由から来るもの。肉親から見捨てられても仕方ないと思えるほどの問題は起こさなかったので、籍を抜くに抜けなかったのだ。
しかし、彼の言動は普通ではない。このままではいつか、マルクスやエドワルドにとって悪影響を及ぼすだろう――容易にそう想像することができたため、ダドリーがアリアナと体の関係を持ち、ゆくゆくは愛人にと考えていることを知ったときには、これで排除できるとミレーゼは考えた。
貴族でないとはいえ、アリアナはミレーゼの腹違いの姉である。
国教に定められているクシャーナ教では、妻、または夫の姉妹・兄弟と体をつなげるのはタブーとされているので、ダドリーがアリアナと関係を持っているのは非難されて然るべきことだった。
宗教に興味はなかったのだろう。
二人はまったくそこに思い至らなかったようだが――。
国教に反し、妻の姉を愛人にしたダドリー。国教の教えを守らなかったといって法的に罰則があるわけではないが、これで絶縁する大義名分が出来たのである。ミレーゼ自身、信心深いほうではなかったので、この方法を選ぶことにたいした忌避感はなかった。
周囲の大人たちは何度か「自分のことをもっと大事にしなさい」と窘めたが、母から引き継いだ事業のためであるし、なにより今更新しい婚約者を選ぶのは面倒くさい。あのような凡庸な自信家に下手に口を出されても困るから、愛人と隔離しておけばいいのではないかと、ミレーゼは提案した。
唯一の懸念材料といえば、父の生家である。
しかし、件の商家はすでに貴族との太いパイプを作っており、代替わりしていたことから、父親を放り出しても問題なしとされた。
なんでも、豪商と呼ばれたその父親は、多少出来が悪くても――いや、だからこそか、息子のことを非常に可愛がっていたらしい。けれど、兄弟は違った。後先考えず問題を起こし、それにもかかわらず後始末はすべて他人任せ。そんな彼に、とっくに見切りをつけていた。
甘ったれた父親のことなので、実家に泣き付かないはずはない。向こうも侯爵家を追い出されたことは知っているに違いないが、その後、特に連絡はなかった。それが答えだ。
今後仕事の関係などで再び関わるにしても、父親のことはなかったことにされるだろう。
「それで、儂の可愛い可愛い孫娘は、いつごろ再婚するのかな?」
「えっ!?」
思わず、淑女らしからぬ声を上げた。
ミレーゼがぎょっとした顔をすると、祖父が悪戯っぽく笑う。
「良い人がいるんだろう?」
「……お、お祖父さま、わたし、離縁したばっかりですよ。そんな――」
「よいよい。別に愛人を作ったわけでも、あの男に対して不義理を働いていたわけでもなし。ただ、なあ。儂ってば、その昔、国王陛下の『ご学友』とかいうやつだったのよ。王弟殿下が最近そわそわしてるとか、してないとか……」
「お祖父さま!」
国王とは親子ほども――いや、それ以上に歳の離れた弟。ミレーゼとは十ほど歳の差があるのにもかかわらず、可愛いと思ってしまう男性だ。
なんでもお見通しかと、ミレーゼは唇を尖らせた。この祖父の交友関係はいったいどうなっているのだろう。
「……先のことは、まあ、追々考えますよ」
とにかく今は、少しだけ休みたい。
小さく息を吐きながら空を見上げると、鳥が一羽、羽ばたいていった。