69話 竜の降臨
「なっ……!」
僕がこの場を動いていない事を思い出すまで少し時間がかかった。だって、伏せていた顔を戻した時には空しか見えなかったのだから。
それは焦げて折れやすくなっていたとはいえ、数々のの大木を濡れた紙を裂くようにへし折りながら頭上を過ぎ去る。更に地震を起こしながら停止し、その方角を向いてみると、それはいた。
かなり距離がある。それでもハッキリと全身の輪郭がわかる。それは、黒く光る鱗に覆われた四つ脚を持ち、なお一対の翼を生やした巨大な竜だった。
そう、こいつはザックが話していた飛竜などではなく、所謂幻の竜だった。だが、驚いたのはそれだけではない。それはまるでーー
「り、竜神様……!」
この前お婆さんの絵で見た恐ろしい竜神様が、そのまま飛び出してきたようだったからだ。
「で、出たああああだゾオオオオオオ!」
「パ、パロさん! どうですか! やはり伝心は、出来ませんか!?」
「や、やっているゾ! でも無言無視なんーー」
「グウウウアアアアアアアア!!」
全ての雑音を掻き消す音。その咆哮が聞こえたときだ。竜の周囲に散らばる邪魔な岩や、へし折った木々が吹き飛ばされ、その一部が僕達目掛けて襲いかかってきた。
(全力で!)
「障壁いいい!」
「オレのも乗せるゾ!」
そうして二人……いや、三人分の力を合わせて一個の盾を作り上げる。それは大木と同じくらいの頑丈さを備えた盾となった。
ーーその程度にしかならなかった。
「……ぐわああああ!」
何かがぶつかったか。とにかく頭が痛い。朦朧とするとかじゃない。他に考える事をその場で斬り落とされたように痛い。
(レノン! レノン……!)
「あっ……あぁ……!」
サキの声がする。息をする。だけど、目が開けられない。でもダメだ。ここで倒れちゃダメなんだ。
「うあっ、くっ……き、傷癒し……!」
痛い。全然効いていないようだ。でも指が動く。これなら動くくらいなら出来そうだ。
「……自分で魔法を使えるくらいには回復したか」
治癒魔法をかけながら彼は言った。
「し、師匠……僕もまだ……」
「それだけの元気があるなら逃げるんだ」
「僕だって戦えます。その杖があれば……!」
僕は師匠が背負っている布が巻かれた杖を指して言った。
「ふざけた事を言っている場合か。幸いやつは吹っ飛ばした物のせいで俺達を見失っている。パロは拾った。さっさと連れて逃げろ!」
「その杖があれば僕だって強力な魔法が使えます! そしたらーー」
「粋がっている場合ではない! 強いのはサキだけで、お前は途中で道端に倒れるような半端者だ! 今度は倒れられても拾えないかも知れないだろうが!」
「そ、それは……」
(そんな言い方酷いわよ! 少しでも足しになるにはなるでしょ!)
彼女はそう言ったが、僕には返す言葉がない。
自分はもう上手く使えこなせるのだと勝手に思って、何でも出来ると自惚れてーー
気づいてしまったのだ。ここで引かなきゃ、前に破門された時と同じなのだと。
「大丈夫だ。幸い俺は一度こいつを追い返しているからな。一度勝てたなら楽勝だ。絆の森に恐らくセレーナが居る。彼女にでも治癒魔法でもかけてもらえ」
彼はパロを雑に渡しながら彼はそう言う。これは思い上がりだろうか。いいや、違う。
半分を占めるやせ我慢と、もう半分を占める守りたいという想い。そしてその二つの半分からほんの少しずつ絞り出されるやれるはずだという自信だ。
「分かりました。では、この場はお任せします。そして、僕に任された使命は必ずや果たしてみせます!」
(そんなのただの強がりじゃない! だってーー)
そう言うサキを無視しようと決め、背を向けようとしたとき、
「サキ! 今更だが、言って良い我儘と悪い我儘があるからな?」
(何で今あんなのの言葉なんか……)
「なんて、昔を思い出してみたりな。まあ、やってみれば何とかなるはずだ。だってーー」
「俺はサキの一番弟子なのだから」
彼は過去を振り返っても僕が今まで見た事がない悪戯っぽい笑顔でそう言った。
(……そうよ。こ、これくらいやってみせなきゃ私の弟子じゃないわよ! さあ私の弟子達! 無事逃げ延びて見せなさい! レノンは弱いんだから今すぐ走る! 振り返る暇なんかないわよ!)
「クソ……わかったよ! 師匠! また今度!」
その言葉は彼に届いたらしい。彼は左手を伸ばして親指を突き立てた。
「治癒魔法……下手くそでも練習しといて良かったな……これで今までの後悔、少しは拭えただろうか……?」
俺は小さく呟く。遠くからでもよく見えるでかい面を睨み返す。
「さて……あの時とは何もかもが違うぜ」
絶望感も、目の前の敵も。
こんなにも『戦う事だけに集中出来る戦い』は、いつ以来だろうか。
「よし! 俺が相手だ! まさか忘れてはいないよなーー」
わざと目立つように叫ぶ。
「前族長の分……そして今ここで生きている仲間のため! 今度こそ逃さない! 覚悟しろーー幻の竜よ!」
男は目の前の怪物に向かって走っていった。
◆
僕は走る。走る。ただの一度も振り返らない。だってサキがそう言ったから。この腕で包むは一つの命。一定した調子で身体が動いている。大丈夫。まだ間に合う。
(木がある方……葉っぱがある木がある方を目指せば誰かしらいるはずよ!)
戦っている場合じゃない。さっき僕達を撃ち落としたオウム達はそれが分かっているようで、既に見当たらなかった。
僕を阻むのは、こんな所にまで飛ばされていたのかと思う木や岩の破片だけ。そんなの、身体さえ動けばどうにでもなる。だから僕はただひたすらに、走り続けた。
(レノン! 聞こえる! 声! 音! 良くはない音だけど……とにかく皆いるわ!)
辿り着いたのは戦場だった。伝心狼に乗った並獣族とヤギが剣や爪をぶつけ合っている。個々ではヤギの方が圧倒的に優勢だが、狼と並獣族は陣形を組み、後ろから矢を放つ、複数対複数になるように工夫している。恐らく騎士が強化や治癒の魔法を駆使して成り立たせているのだろう。
とにかく分かることは、この戦いは拮抗している。そのため皆一生懸命で、わざわざ死にかけで剣の代わりに鳥を抱えた僕に狙いをつけて襲うような器用なやつは、着いて早々は現れないでいてくれたということだ。
(セレーナさんを探そう……探さなきゃ……!)
(流れ弾には気をつけて!)
辺りを見渡して奥へ。また辺りを見渡して奥へと場所を移す。いない。いない。いないーー
「ヴガアアアアアアアア!」
(レノン! 後ろ!)
「くっーー」
振り向いた時には既に爪を振り上げたヤギの姿があった。僕はメイジスだ。騎士と間違えたのだろう。いや、間違いではないか。
「メエエエェェ!!」
もう間に合わないと思った瞬間に、気持ち高めのヤギの叫び声が急に響く。それに驚いてそのヤギは、振り上げた拳ならぬ振り上げた爪を下ろし、先程までの僕のように辺りを見回し始めた。その隙を見て僕はその場から立ち去る。
「早く、見つけるんだゾ……」
「もしかして今の声は……!」
「美少女ヤギ風の声だゾ……どんな種族でも、可愛い女の子は助けてあげたいんだゾ……」
(助かったわ。早く探しましょう!)
そしてまた場所を移しーー
(レノン! あれ! 左の方!)
サキの言う通り視線を動かすと、そこには伝心狼と、それに乗って戦っている女の人がいた。
「巫女様だ! つまりセレーナさんも近くに……!」
「一旦離脱! 矢を放ちます!」
巫女がそう口にすると、向きを変え、伝心狼がこちらに向かってくる。巫女は脚の力だけで自らの身体を支え、背後のヤギに矢を命中させる。走ってきた伝心狼は僕を咥え、そのまま走り続ける。
「セレーナの少年、生きていたのですね! そしてまた私は目的ではないのですね!」
「ごめんなさい! 輝の森の族長が竜と交戦を始めてしまいましてーーそれをセレーナさんにお伝えしなくてはと!」
「お二方の怪我を証として信じましょうーーセレーナ! 命令です! 可能な限り戦線を維持したまま私の元へ戻りなさい!」
「ーーはっ!」
巫女はセレーナに対して指示を出してくれる。
「医長。十分彼らへの強化を現状維持して頂ければ保たせる事が出来るなら可能です」
「分かりました! 離脱後も強化の魔法は切らないでおきます」
「それならこちらは問題ありません。あやつは七割八部負傷、こやつは八割を超え時期に撤退を、対して我々はーー」
「報告中も手が止まらず流石です! お任せします!」
「承知致しましたーー医長セレーナ管轄班は散開しながら撤退しろ! 約十分後から強化が弱まる! およそ十秒に一割の速度でだ! 代わりにロジムスの隊が受け持つ!」
セレーナは僕達の方を見て頷いた後、そう言い残すとこっちに来てくれた。
「レノンくん……! それに君も酷い怪我……何があったの!?」
そう言いながらもすぐに僕とパロに治癒魔法をかけてくれる。大分楽になった。流石医長の魔法だ。
「ありがとうございます。一先ず大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ。最低限の応急処置はされていたし、今もそれなりにしたけど、これだけの怪我だと、今のでもあくまで痛みを止めただけに等しいわ。奥でじっくり時間をかけて治療しないと……」
「セレーナ、よくお聞きなさい。輝の森の族長が飛竜と交戦を始めたそうです。恐らく彼はそこから逃げ……生き延びてきたと言っています。合っていますか?」
「合ってます。音の森と蜜の森の丁度境目くらいです」
「導師にも伝心で知らせ、一先ずは彼も撤退の指示を始めました。この戦いは直に自然消滅するでしょうーーだからセレーナ、あなたは飛竜に応戦して輝の森の族長を助けなさい!」
「承知致しました。レノンくんはーー」
「僕はここで待っています。今だと足手まといなので……」
「宜しいーーそういう事です。彼は私が責任を持って生存させましょう。なので気にせず行ってください!」
「承知しました! では!」
巫女の指示を受け、セレーナは風のように走り抜けていった。
「少年ーーいえ、レノン」
「巫女様……僕なんかの名前を……」
「先に戻った二人の惨状を見て、余りにも愚かで可哀想な事をしたと、思い出さないようにしていたのです」
「では、二人は無事なのですねーー良かったです」
「無事とは言い難いですが……今はここまでです。兵を退かせなければなりませんので。この危険な場で降りろとは言いません。私にしっかりと掴まっていてください」
「ありがとうございます」
「一時休戦です! 退きなさい! 聞こえたなら他の者にも伝えなさい! 休戦です! 退きなさい!」
その声を聞いた絆の森連合軍は、敵を見ながらも退き始める。導師が指示を出しているのだろう。ヤギもわざわざ追っては来ず、退がっていった。
こうして争いは、一旦終わりを告げた。