保護犬のシェルター
小芝理香というのが女性の名前だった。
「取り乱しちゃってごめんなさい」
目尻に残った涙を指先でぬぐって、小芝さんはアイスコーヒーを一口飲んだ。
あのあと、「話しがしたい」と小芝さんの方からカフェに誘ってきたんだ。もちろん僕にもヒナにも、警戒心はある。「知らないひとにはついて行かない」って、小さい頃から耳にタコができるほど、周りの大人たちから言われてきたからね。でも、小芝さんは悪いひとには見えなかったし、僕たちにはジイサンについて調べる任務があった。
「そっかぁ。香具山さんにもちゃんとご家族がいたのね」
嬉しそうな顔で見つめられ、居心地が悪くなる。僕は返事をする代わりに、アイスココアを飲んだ。
「今日はどうしたの? おじいちゃんが住んでいたアパートを見学しに来たの?」
住んでいたアパートを見学って何それ、と笑いそうになったけど、他のひとから見たら、僕たちの行動はそれくらい不審なんだってわかった。
「じつは祖父の遺骨をどうするかで、家族の間で揉めているんです。それで祖父が家を出てからの三十五年間について調査しているんです」
ヒナがこれ以上ないほどストレートに説明した。僕はぎょっとして、危うくアイスココアでむせるところだった。
「ちょっとヒナ」
と、思わず「問いただす」といった口調になると、
「ヘーキ、ヘーキ」
とヒナは小芝さんにも聞こえる大声で返した。
「おじいちゃんの遺骨をどうするかで揉めているのは事実だし、隠すようなことでもないでしょう。それに小芝さんって良い人そうだもの。おじいちゃんの遺産を狙う愛人には見えないし、かと言って、おじいちゃんと手を組んで結婚詐欺を働いていたひとにも見えない」
自信たっぷりな口調で言われて、つい、「そうだね」って頷きそうになったけど、寸でのところで思いとどまった。
「失礼だよっ」
小芝さんは呆気に取られたように表情を固まらせ、それから小さく吹き出した。
「あなたたち、とっても良いコンビね」
ひとしきり笑ったあと、小芝さんは姿勢を正した。
「まずはちゃんと自己紹介した方がよさそうね。えっと、私は小芝理香。二十六歳です。仕事は鍼灸師で、駅前の鍼灸整骨院で働いています。香具山さんは、うちの院の患者さんでした」
「シンキュウシ?」
初めて聞く職業だ。
「簡単に説明すると、もぐさっていう植物から作ったお灸や、髪の毛ほど細い鍼を使って、肩こりや腰痛、冷え性などを治療していく専門家。香具山さんは足の治療で、うちに通っていたの」
「足?」
「若い頃に大工の仕事をしていて、高いところから落下して負った怪我だって言っていたわ。その後遺症で、右足を引きずっていたし、梅雨時や寒い季節になると、膝や足首に痛みが出るって言っていた」
足の怪我――。新たな情報だ。僕とヒナは顔を見合わせ、頷き合った。
僕は病院で見たジイサンの足を思い出そうとした。でも、浮かんでくるのは、薄くなった頭や、手の甲に浮かんだぽつぽつとした薄茶色のシミばかりだった。たぶん、足は布団のなかに隠れていたんじゃないかな。あんなに「不気味」だと思ったはずなのに、もうすでにジイサンの姿を思い出しにくくなっていることに驚いた。顔を思い出そうとしても、輪郭がぼんやりと浮かぶだけで、どんな目や鼻や口をしていたのか、わからない。
僕は改めて小芝さんを見やった。患者と先生、というだけの関係なのに、わざわざジイサンのアパートにまで来て、花を手向けてくれるなんて、小芝さんは優しいひとなんだな、と感心していると、
「なんか、めっちゃ隠し事をしてますよね」
とヒナが言った。
「ちょっと、ヒナ」
「だって明らかにおかしいでしょう。たとえばコウイチが、事故か事件に巻き込まれて明日死ぬとするじゃん。それであんたが時たまお世話になっている耳鼻科の先生がわざわざ花束持って尋ねてくると思う?」
「イヤなたとえ話しないでよ。――来ないと思う」
だって耳鼻科に行くのなんて、一年に一回、あるかないかだ。
小芝さんは、「するどいなぁ」と言って苦笑した。
「そうだよね……。やっぱり今の話じゃ納得しないよね。うーん、どこから話せばいいのかな。とりあえず私ね、父親の顔を知らないんだ」
「え……」
さらりとした口調で、すごいことを言われ、僕とヒナは目を丸くした。
「私の母親は、二十歳のときに家出をして、私を産んで育てていたらしいんだけど、結局は育てられなくなって、おじいちゃんたちに私を押しつけて、そのままいなくなってしまったの。それからは、おじいちゃんとおばあちゃんと私の三人暮らし。私ね、両親は事故で亡くなったんだって教えられて育ったの。でも、十六歳のとき、母親が突然帰ってきた……。大地がひっくり返ったみたいに驚いたわ」
「小芝さんに会いに帰ってきたんですか」
「ううん、違うの。母はね、おじいちゃんにお金を借りに来たの。――何が言いたいのかっていうと、私は親に捨てられたってわけ。おじいちゃんたちに、ウソをつかれていたのもショックでね……」
「はあ……」
それなりに興味深い話ではあったけど、この話とジイサンがどう繋がっているのかわからず、僕とヒナは浅く頷いた。
「考えてみれば、私、お墓参りもしたことがなかったのよ。その時点でオカシイって思うべきだったかのかもしれないけど……。たぶん、本能的に考えるのを拒否していたんだわ。おじいちゃんも、おばあちゃんも、何度も謝ってくるし、気をつかってくるしで、家にいても居心地が悪くて。だけどこんな重たい話、友達にも話せないでしょう。それであの日、ぶらぶらと歩いているうちに、偶然あそこに辿りついたの」
「あそこ?」
「保護犬のシェルター」小芝さんはこたえて、思い出すように遠い目になった。「ケージのなかから、何匹ものワンちゃんたちが私をじっと見つめてきた。子イヌもいれば、成犬もいたし、明らかに血統書付きの子もいた。見るからに野犬って感じの子もいたわ。元気な声で吠える子、尻尾をふる子、眠ったまま動こうとしない子」
僕たちは黙って小芝さんの話に聞き入った。
「その子たちを見ているうちにね、涙がこぼれてきたの……。飼い主の身勝手で捨てられたワンちゃんたちに自分を重ねたのよ。そしたらね、急に話かけられたの」
――お嬢ちゃん、どっから入ってきたの。
――え……。
――えぇっ、泣いてんの? あ、もしかして迷子になった飼い犬を探しに来たとか?
――いえ、違うんです。うう……っ。
「もしかして、話しかけてきたひとって……」
うん、と小芝さんは頷いた。
「香具山さんよ。香具山さんね、当時はあのシェルターで働いたの。それで泣きくずれた私を休憩室に案内してくれた。私ね、祖父母や母のことを香久山さんに打ち明けたの」
――捨て子だっていう事実を隠されて生きてきたんです。私、価値ないんですよ。いらない子なんですよ。もう誰も信じられないっ。
すると、ジイサンはこう返したそうだ。
――しょうもねえ親だな。
「普通、『そんなことを言ったらダメだよ』とか、『おばあちゃんたちはきみを思って、ウソをついていたんだよ』とか、諭してきそうでしょう。それなのに、しょうもねえ親って一刀両断だもの。驚いちゃった」
確かに、と僕は頷いた。何だかんだで、大人って大人の味方をしがちだから。
「それからね、香久山さん、こうも言ってくれたの」
――うちのシェルターに引き取られる犬たちは、それぞれ色々な事情があって、やって来るけど、どの犬にだって共通して言えるのは、価値のねえ命なんてないってことだ。捨てられようが、何をされようが、あの子らの価値は変わんねえ。人間だって同じだろうよ。親に捨てられようが、子供の価値が損なわれることは一切ない。価値がないから捨てられるんじゃない。むしろ、捨てる側の人間こそ、価値のない人間なんだよ。親はさ、あんたっていう人間を育てるに値しない人間だから、あんたを手放した。あんたは、いらない子なんかじゃなくて、そんな親こそ、あんたにはいらない親なんだよ。
「すごく心が軽くなったわ。母親が生きてるって知ったときはもちろん傷ついたけど、私が一番嫌だったのは、おばあちゃんたちが、母をかばったことなの。『あの子を許してやって』『根は優しい子なの。いつかきっと和解できる日が来るから』って。だから私、母を恨んではいけないんだって、ずっと自分に言い聞かせていた。恨む私は、心が狭いんだ。こんな悪い子だから捨てられてしまったんだって。――でも香久山さんが、堂々と母を批判してくれたおかげで、救われたの」
そのときのことを思い出したように、小芝さんは清々しい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、その後も祖父とはよく会っていたんですか」
ヒナの質問に、小芝さんは首を振った。
「私はもう一度会いたかったんだけど、次に保護犬のシェルターに行ったときにはもう、香久山さんは辞めていて……。私は、高校を卒業したあとは、祖父母の家を出て、鍼灸師の専門学校に通ったの。卒業したあとは、さっき話した駅前の鍼灸整骨院で働き始めた。香具山さんが来院されたのは二年くらい前だったかな」
「すぐに祖父だと気がついたんですか」
「うん。でも香具山さんは気づかなかったみたいだし、他の患者さんもいるから、治療中に話しかけることも出来なくて……。四回……、五回くらい来院されたあとだったかな、お会計のあと思い切って外に出た香具山さんを追いかけたの」
「すごい。映画みたいだ」
僕はその場面を想像した。
「香具山さんを呼び止めて、あのときのお礼を言ったの。あのとき香具山さんに会わなかったら、祖父母とも仲直りできなかっただろうし、それどころか、自暴自棄になって犯罪に手を染めるようになっていたかもしれないって」
「祖父は、小芝さんのことを覚えていましたか」
ヒナが質問した。
「すぐにはわからなかったみたいだけど、話しているうちに、『ああっ、あのときの』って思い出して驚いた顔をしていたわ」
ふふっと小芝さんは懐かしそうに笑ったあと、「でもね……」と寂しそうに表情を曇らせた。
「私はもっと色々と香具山さんとお話がしたかったんだけど、香具山さん、あのあとは一度も治療院に来なかったの。――それで先日、他の患者さんと話しているときに、すみれ荘の住人のひとりが亡くなったって聞いて、もしかしたらって思って調べたら、やっぱり香具山さんだったから……。最後のお別れをしようと思ってたずねたら、あなたたちに出会ったってわけ」
そういうことだったのか……。
「さっき、僕たちを見て、『妹と弟?』って訊いてきたのは、どうしてですか」
「母が、よそで生んだ子供かなって思ったの。半分血の繋がった姉である私を探しに来たのかなってね」
なるほど、そうだったんだ。
「疑ってしまって、本当にごめんなさい」
小芝さんは頭を下げた。大人の女性からこんな風に謝られるのは初めてで、
「いえ……。どこの家にも問題ってありますから」
僕なりに気をつかって返すと、
「あんたお昼のコメンテーターか」
とヒナがツッコミを入れてきた。そんな僕たちを見て、「本当に良いコンビだわ」と小芝さんは笑顔を浮かべた。