謎の女性、現れる
すみれ荘というのが、ジイサンが住んでいたアパートだ。大通りから外れた裏路地沿いにある、まるで時代から取り残されたように古い木造の建物だった。
あのあと――、「おじいちゃんに恋人がいたら、どうする?」という質問に僕があれこれと考えをめぐらせていると、
「よし。せっかくここまで来たんだから、ついでにおじちゃんが住んでいた場所まで行ってみよう」
とヒナが言い出して、あれよあれよという間に、すみれ荘に到着したのだ。
「かーなーり、ボロっちいアパートねえ」
とヒナはアパートを見上げて言った。二階建てで、ドアに数は全部で八つ。ゴミ置き場の端っこでは、ヒマワリが一輪だけ太陽に向かって花を咲かせていた。僕はふと、ジイサンもこのヒマワリを見たのかなって考えた。だけどすぐにそんなわけがない、と打ち消した。ジイサンが倒れたのは、五月の終わりだもの。
ジイサンの部屋は二〇三号室だった。当然、もう引き払われている。
「どうする? 片っ端からピンポンを押して、何でもいいんで、おじいちゃんについて知っていることを教えてくださいってお願いしてみる?」
ヒナが僕をふり返った。
「あのさ……」
僕はヒナを見上げた。僕は最近、すごく背が伸びている。それでもヒナの方が五センチは背が高い。しかもヒナは底が五センチはあるサンダルを履いているから、どうしたって身長差が出る。
「うん?」
「さっきの質問のこたえだけど、おじいちゃんに万が一、恋人がいたとしても、おばあちゃんには黙っていよう。それがどんなに昔のことでもさ」
離婚して三十年以上が経つけど、それでもジイサンに恋人がいたら、おばあちゃんは傷つくんじゃないかな。だから――。
「僕とヒナだけの秘密にしよう」
それこそ墓場まで持っていく秘密だ。
コウイチ――、とヒナが感じ入ったように僕を呼んだ。僕はしっかりと頷いた。
「もしかして、ずっとそれを考えていたの?」
「え?」
呆れたような口調で言われ、僕は眉をひそめた。
「いや、なんか、さっきからテンション低いなぁ、とは思っていたんだけどさ。ごめんね、まさか悩ませているなんて思ってもみなかったから。ていうか、アレだね。コウイチって面倒っていうか、重たいわ。重たい小学生だわ」
「――へ……?」
「あ、重たいって悪口じゃないから。むしろ、私はコウイチのそういうところ割と買ってるから」
「どうも……」
褒められているのか、けなされているのか、いまいちわからなかったけど、とりあえず頷いておいた。
「ていうか恋人ができたのが原因で、おばあちゃんたちを捨てたんだとしても、それをおばあちゃんに言わないのなんて、当たり前じゃん。たとえ相手がパリコレモデルであろうとパティシエだろうと政治家だろうと、言わない。そんなの世の中の常識だよ」
「え、そうなの?」
「そうなんです」
「じゃあ、何でわざわざ、『おじいちゃんに恋人がいたら~』なんて訊いたんだよ」
「うーん、世間話? 恋バナ的な?」
何だよ、それ。思っていたのと違う話の展開に、心がしっくりとしない。思わず黙り込んだ僕を、「ほらほら」とヒナは急かした。
「ここにいても暑いだけだし、さっさとピンポン押して聞き込み調査を開始しよう。――ということで、行って」
「行ってって……、僕が押すの? 言い出しっぺはヒナだろう」
「私はさっき、佐々木さんたちに話しかけたもん。それにもし部屋のなかにいるのが美少女好きのヤバめなひとだったらどうするの」
「ヒナなら大丈夫だって」
「はあっ? ケンカ売ってんの?」
「とにかく嫌だよ。絶対、変な顔される」
「情けないわねっ。あんたこの前、穂積くんから『少年探偵団』を借りたんでしょう。小林少年から何を学んだのよ」
「小林少年には、七つ道具があったし、明地小五郎がついていた」
だいたい佐々木さんたちに話しかけるのとは難易度が雲泥の差だ。
佐々木さんたちには「ジイサンの元同僚」という肩書きがあったし、二人とも見るからに良い人そうだった。でも、この扉の向こうにいるのは、どんな人物なのかまったく謎。怖いに決まっている。
炎天下のなかアパートの入口で騒いでいると、「あの~」と控えめな声が聞こえた。
「通ってもいいかしら」
白いワンピースを着た女のひとだ。腕にヒマワリの花束を抱えている。
「あっ、ごめんなさい」
僕とヒナはすぐにそのひとに道をゆずった。
「どうもありがとう」
女のひとは小さくほほ笑むと、アパートの外付け階段をのぼりはじめた。
「コウイチ、隠れるよ」
ヒナが小さな声で言い、僕の腕を引っ張った。僕たちはとなりのアパートの壁に隠れた。
「何で隠れる必要があるの」
「シッ、いいから見てなって」
ヒナの言う通り、黙って女のひとを観察していると、彼女はジイサンの部屋だった二〇三号室の前で立ち止まり、花束を置いて、祈りを捧げるように両手を合わせた。
しばらく合掌したのち、再び花束を抱えて階段を下りてきた。
「追いかけるよ」
「あ、待って!」
女のひとを追って走り出したヒナを僕は追いかけた。これが小説のなかの出来事だったら物陰や電信柱に隠れながら女性の家まで尾行するのに成功したかもしれない。でも現実はそう上手くいかない。どうしたって足音は出るし、そうそう都合良く身を隠せる物陰もない。
「えっと、きみたち、私に何か用かしら?」
次の角を曲がる前に女性は僕たちをふり返った。
どうしよう。僕はやましいことなんてないのに(――いや、尾行はやましいことなのか?)、とにかくハラハラした。
女性は、青山先生と同じくらいの年齢に見えた。色白で、目のぱっちりとしたキレイなひとだ。背中まで伸びた髪の毛をうなじのところで結んでいる。彼女は、僕たちのことを真っ直ぐに見つめながら、「もしかして」と小さく呟いた。
「私の妹と弟?」
――へ?
何言ってんだ。
意味不明な言葉を投げかけられて、僕もヒナも戸惑った。
「私たち、すみれ荘の二〇三号室に住んでいた、香具山雨の孫です」
ヒナが切り出すと、女性は驚いたように目を大きくした。その瞳が見る見るうちに潤み出して、ついにボロボロと泣き出したものだから、今度は僕とヒナが驚いた。