第一章5 『白髪の男』
上空を見上げれば太陽はほぼ真上に位置している。暖かな陽射しがスバルの頭部を照らしている。およそ午前十二時を過ぎた頃合いなのだろう。スバルの黒髪が日光の熱を吸収し、一時間ほど前と比べて多少暑くなっているのを感じる。
ルートの一件が済んだところで、衣食住を確保するために再び役所へ向かうスバル。大勢の人で行き交う大通りを隙間を縫うように歩みを進める。
歩きながらスバルの脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
「あれ? そういえば、ウィリアムさん俺を役所に案内しようとしてたけど、出身国不明の俺って対応してもらえるのか?」
今から向かう役所でスバルが受けるであろう対応といえば、恐らく現実世界の生活保護と同様の手続きだろう。しかし、そこで問題が生じるはずだ。せめて、氏名、年齢、性別は理解してもらうことが出来るだろうが、住所及び出身国なんか書類に書いたものなら理解してくれるはずがない。日本という国を知っている人はこの世界には皆無だろうから、「は? 日本て何処だよ?」と言われるのが目に見えている。生年月日ですら怪しいところだ。
その解決策を模索するも中々この問題を打開できる解決策が見当たらない。住所や出身国を問われたらどう答えればいいのか。書類にはどう記載すればいいのか。長考した末に結局答えは出てこなかった。
それは、後にかなり困難を極めることになりそうだ。
「この世界の人から見れば、俺は怪人ってことになるのか?」
ここで言う怪人とは「奇怪な能力を持つ人物」とか「特殊能力を持った悪人」という意味ではない。『正体不明のよく分からない人物』という意味である。
「うわ、そう考えると役所に行きたくなくなってきた……」
自分の出自について様々に聞かれた挙句、怪しげな目で見られることを考えるとスバルは多少役所へ向かうのを躊躇する。しかし、そんなことを言ってられないのは重々承知なのでそのまま歩みを進めていく。
相変わらず大通りは群衆で賑わっている。辺りを見回すと様々な人種、多彩な風采の老若男女が行き交っている。路肩には様々な露店が立ち並び、大通りの中央を商業用や運搬用、観光用、交通用まで数多な馬車が通過する。
先程とは違いスバルを珍奇な眼で見てくる人はゼロではないものの、数はそんなに多くない。
前方からやって来た一組のカップルは、スバルの傍を通る際に珍奇な視線を向けていた。
それを受けたスバルはとあることに気が付いた。
「カップルか。俺にもいつか彼女ができるのかなぁ……。あれ? そういえば俺、この世界に来てからまだ女性に出会ってなくね?」
今のところ異世界転移してから出会った人は、ルートとクラウス、店主のおっさんとウィリアムさん、ルートの両親で最後である。そんな中に女性はルートの母親のみであり、迷子の件で少しお礼を言われた程度。出会いと呼ぶのには微妙である。
「俺がこの世界に来たのは異世界転移だよな? 生まれ変わっていないし、神って名乗る人物とも会ってないから異世界転生ではないのは確か。ということは俺を召喚した人物でもいるのか? まさか探しに行けっていうわけではないよな……」
異世界召喚ものなら召喚した人物がいるのが定番だ。しかし、その人物は未だスバルの前に現れていない。
召喚者がいると確定しているわけではないが、仮にいるとしたら召喚しておいて自ら姿を現さないのは身勝手ではなかろうか。目的がよく分からないのである。
俺を召喚したであろう人物といつか出会えるのだろうか。
「俺が創作作品で言うところの主人公って立ち位置なら、俺が出会うはずの美少女はどこにいるんだ?」
異世界転移してから未だヒロインなる美少女と出会っていないスバル。主人公とヒロインが出会わないなんて二次元の世界ならあり得ない。職務怠慢と言っても過言ではないほどだ。
そんな独り言を呟きながら役所への歩みを進めていたスバルの耳に、
「君が明月統くんで間違いないかな?」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
歩みを止めて声のする方に顔を向けると、そこには路肩のベンチに一人の青年が腰かけている。
――また男の人だよ。どうなってんだよ! この世界は男としか出会えない世界なのか? 俺は別にゲイじゃないんだけど。
その青年は高めの身長で、整った顔立ちに雪のような純白の髪と金眼を併せ持つ。髪は短髪で平均的な肉付きの身体を白を基調とした執事服のような衣装で包んでいる。
その風采は、執事というには不相応なほどどこか貴族のような高貴さを醸し出している。年齢はおよそ三十代くらいだろうか。
「はい、そうですけど。あなたは一体……。それとまだ名乗ってもいないのに、どうして俺の名を?」
その青年とスバルは初対面のはずなのに、何故かスバルの名前を知っている。
そこに疑問を抱くスバルは青年に問いかける。
するとその青年は、
「私の名はパラクレートス。この国では多少名が知られている程度の者さ! 君に少し用があってね!」
「そうなんだ! それで、どうして俺の名を知ってるの?」
「それはあとで教えてあげるよ! ここで話してもなんだし、カフェかレストランにでも行かないか?」
パラクレートスと名乗る青年は、スバルの問いへの答えを後回しにして、話をするのに違和感なさげな場所へ行こうとスバルに提案する。
それに対してスバルは「いや、俺実は……」と無一文であることを告げようとした途端、スバルの声を遮って青年は、
「まぁ、いいから! 私に付いてきてくれ」
そういうと青年はスバルに後を付けてくるように促した。腰を上げてスバルよりも先に歩きだす。初対面の人に付いていくのは多少怖いのだが、風采を見るに貴族のような高貴な人そうで断って不審に思われるのも面倒だし、何か重要そうな話だったら申し訳ないので仕方なく彼の後を付いていくことにした。
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パラクレートスの後を付いて数分歩いたところにある、とあるカフェに現在スバル達はいる。
周辺の建築物と同様に骨組みは木材で外壁は石材で建てられている。屋根は煉瓦でできており、出入口の上部には赤白の二色でできた屋根が斜めに垂れ下がっている。側面には小窓が複数あるため、スバルが異世界転移された場所にあったカフェとは違う場所のようだ。
店内は五割ほどの客で占められている。二人用と三人用、四人用の木材でできたイスとテーブルが同じほどの割合で店内に設置されている。スバルとパラクレートスは二人用の席に案内された。
辺りを見回すと家族連れやカップルと思われる若い男女、ご老人夫婦に一人客なども見られる。注文したスウィーツを味わう者、コーヒーやカフェラテなどを飲み会話を交わす者、コーヒーを飲みながら読書を嗜む者など思い思いに自由の時間を過ごしているようだ。
そんな中、スバルはパラクレートスと二人席に対面で座り、ウェイトレスから水の入った小さめのコップとメニュー表を受け取ると、「ありがとうございます」と返事をした。その水を口の中に運び喉の渇きを潤すとパラクレートスが口を開く。
「隠れて見ていたけど、迷子の子供の親探しを率先して行うなんて君は優しいんだな!」
「困っている人がいたら手を差し伸べるのが当たり前だろ? この世界の人達は違うの?」
スバルの善行を褒めるパラクレートス。それと同時に彼は自身が物陰からそれを眺めていたことを暴露した。
――え? この人、隠れて見てたって言ったけどストーカーか何かかよ。怖えーよ。
スバルは昔から、目の前に困っている人がいたら手を差し伸べてあげたいと思う人間である。日本で「親切だね」と言われることも多々あった。それは、いつしかスバルの中で当たり前になっていた。
この世界の人々はどうだろうか。ルートが一人でいたとき周りに駆けつけていた人をスバルは見かけてはいない。しかし、それだけで「この世界の人々は不人情である」と断定するには時期尚早で、今は何とも言えないのが実情である。
実際、クラウスのように困っている人の元に駆けつける人情溢れる人もいるのだから。
『この世界でも困っている人がいたら手を差し伸べるのが当たり前だ』と勝手な先入観で投げかけてきたスバルの問いにパラクレートスは答える。
「いや、そんなことはない! 当たり前かどうかは置いといて、この世界の人たちも人情溢れる人が多い。都市郊外や田舎では親切な人をちらほら見かけるはずだ。それを都市部や皇都で見かけることは少ないけど」
この世界の人々も親切な人が多いらしい。ただし、それは都市郊外や田舎の話。都市部や皇都では話が違うのだろうか。
疑問に思ったスバルはパラクレートスに問いかける。
「それはどうして?」
「単純に人々の親切心への意識が鈍くなっているのかもしれない」
「鈍くなるねぇ……」
「なにせ、ここは皇都ミスティルシアだ。皇都や都市部に騎士団が常駐しているんだ。皇都には騎士団本部もある。そのため、街中でよく騎士団を見かけるはずだ。街中を巡回するのも彼らの任務の一つだからな」
パラクレートスの『親切心への意識が鈍くなる』と『皇都や都市部に騎士団が常駐し、街中を巡回する』という二つの答えから、スバルは一つの結論を導き出す。しかし、それが正しいという保証はない。
そこで、スバルはその結論の正否を確かめるべく、その結論を疑問にしてパラクレートスに再び問うことにした。
「それはつまり、皇都の人達は騎士団が街中を常に巡回しているから、困っている人達のことは全て騎士団に任せようとしているってことか?」
「そういう事! 騎士団は人並み外れた実力者が勢揃いしているからね! 想定外の事が起きてもどうにか対処できるはずだ」
「なるほどな!」
スバルの結論は正しかったようで、パラクレートスはスバルの問いに肯定の答えを返す。
騎士団が実力者揃いなら、皇都の人々が彼らに任せようとするのも無理はないのかもしれない。
その答えにスバルは納得すると、二人の耳に新しく美しい高めの声が聞こえてきた。
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
二人の傍に若いウェイトレスが立っている。白と黒を基調とした制服に身を包んだ彼女は、二人の注文を尋ねに来たようでこちらに明るい笑顔を向けている。
先程メニュー表を受け取っていたわけだが、スバルに注文する意思はない。一方、パラクレートスは徐にそれを手に取ると、既に注文する品を決めていたかのように素早く「私はこれとこれで!」と二つ注文し、スバルにメニュー表を向けてきて一言、
「君は何にする?」
「え? いやいや、俺はいいよ! だって俺無一文だし」
早く注文する品を決めないかとまっすぐ見据えた視線をスバルへ向けるパラクレートス。それに対して両手を横へ振り、無一文であることを理由に注文を断ろうとするスバルだが、
「それなら、私が奢ってあげるから遠慮しなくていいよ! 頼みたいもの注文しな!」
「いやいや、それは悪いって!」
「まあまあ、そう言わずに!遠慮なんてしなくていいから!」
「ほ、本当にいいのか?」
「ああ、問題ないよ、スバル!」
「それじゃあ、お言葉に甘えて。俺はカフェオレをお願いします」
スバルに「遠慮するな」と急かすように注文を促すパラクレートス。しかし、スバルはそれを再度断ろうとするも、彼もまた頑なに態度を変えずスバルへ注文を促す。
彼は、奢りたがり屋なのか。それとも、ただの優しさなのか。
彼については名前と風采しか判明していない。スバルは彼の風采から貴族や領主などの身分の高い人物ではないかと勝手ながら推測しているわけだが、それが当たっていると断言はできない。
しかし、彼が通貨を潤沢に保有している、即ち金持ちのような風采をしているのは目で見れば明らかだった。それ故に、スバルのような異邦人に金を使わせることも厭わないのだろうか。
このまま頑なに態度の応酬を繰り広げても埒が明かないので、スバルは仕方なく彼の言葉に甘えることにした。
メニュー表を見たスバルだったが、どんなメニューが書かれているのかスバルには分かるはずもない。その為、甘党であるスバルは行き当たりばったりでカフェオレをウェイトレスに注文することにした。
「了解です! では、注文の確認をします。コーヒー一つ、チーズケーキ一つ。それとカフェオレ一つ。以上でお間違いありませんでしょうか?」
「はい」
「承りました。それでは、商品が出来上がるまで少々お待ちください」
注文の確認を済ませたウェイトレスはメニュー表を回収し、厨房へ向かって行った。
パラクレートスはコーヒーとチーズケーキ、スバルはカフェオレを注文した。カフェオレはこの世界にもあるらしい。それと二人が頼んだ三品には特有の呼称はない模様だった。特有の呼称がある場合とない場合があるらしいが、その基準は全く分からない。
ウェイトレスが二人から離れて、パラクレートスが口を開く。
「ところで、スバル。君はこの世界について何か疑問を持っているかい? なぁに、君がこの世界の人間じゃないことは君の服装を見れば分かる。だから、私が答えられる範囲であれば何でも答えてあげるよ!」
「そりゃあ、沢山あるけど……。そういえば、ここって新ミスティルシア皇国で皇都ミスティルシアでいいんだよね?」
「そうだよ! ここは皇都ミスティルシア。大陸図で見て一番東の国なんだ。正確には東から北東にかけて位置しているんだけどね!」
「一番東か……」
どうやらパラクレートスはスバルが抱えた疑問に答えてくれるようだ。何でも答えてくれると言っても、何を尋ねるか悩みものだ。取り敢えずまずは、今いる場所の再確認をすることにした。
現実世界では日本は東の国だ。それも欧州を中心にした地図で一番東なもんだから、『極東』と呼ばれるほどに。今いるミスティルシアもこの世界で東の国であるらしい。スバルがこの国に転移して来たのは何か関連性があるのだろうか。
この世界に来てまだ土地勘がなく地理的情報が不足しているスバルは、他にどんな国があるのか尋ねてみることにした。
「この世界には他にどんな国があるの?」
「大陸図を西部、中央部、東部に三分割すると、中央部の北に寒帯に属する『ルツェルン皇国』が位置している。その下、中央より少し北側に位置しているのがこの世界唯一の共和国国家『リベルテ共和国』。大陸図の中央に位置しているのが乾燥帯に属する『神聖アッシュール帝国』。その下、中央より少し南側に大陸に囲まれている地中海があり、ここを『カリドゥム海』という。中央部の南には二つの国があり、西を『ルシタニア王国』、東を『新アドリア王国』が位置している。大陸西部には三つの国があり、大陸の西から北西にかけて温帯に属する『新セリカ帝国』が、西から南西にかけてこの世界唯一の大陸と群島両方に領土を持つ『新ロームルス王国』が位置している。新セリカ帝国から北西に向かった遠洋に、この世界唯一の島国である『タカアマハラ』が位置している。大陸東部には二つの国があり、東から北東にかけて私たちが今いる国『新ミスティルシア皇国』が、東から南東にかけて『アッティカ帝国』が位置している。島国が一つ、大陸に九つ。この世界には十国が存在しているんだ」
パラクレートスは右手の人差し指をテーブルの上に置き、淡々と他国の説明をすると共にそれぞれの国があるであろう位置を指し示めす。しかし、どうやらスバルから見れば上下左右真反対なようで、東というには西を指し示し、北というには南を指し示していた。
それは、説明を受ける側への配慮がなされていないように見受けられたが、今は気にしないでおくとする。
「そ、そうなのか……取り敢えず、この世界に十国あるのは理解した!」
「長々と説明してもなかなか理解しずらかったかもしれないな! 申し訳ない。 まあ、そのうち大陸図を目にすることもあるだろうからその時にでも確認してみてくれ」
「いや、大丈夫だよ! なんとなく各国の位置は把握したから」
「そうか。他には?」
彼の説明は分かりずらかったものの、何とか脳内でこの世界の大陸図なるものをイメージ出来た気がする。この世界に十国が存在していることを知り、スバルは一つの疑問を抱く。
数十分程前にクラウスとの会話でこの国の『十天聖霊』について知った。この国に理念があることも。ということは他の九国にも新ミスティルシア皇国のように何か理念があるかもしれない。
そう考えたスバルは、パラクレートスに『十天聖霊』と『理念』について尋ねる。
「この国に『ユースティティア』っていう十天聖霊がいるのを剣聖から少しだけ聞いたことがあるんだけど、もしかして他の国にもいたりするの?」
「ああ、いるよ! というかこの世界の全ての国の建国に関わってる神聖な存在だからね! 存在しない方がおかしい」
「そうなんだ。彼らの名前とか知ってたりする?」
「そりゃあ、もちろん知ってるよ! 十国は現在それぞれの『理念』を持っていて、それをこれでもかって言うくらいに重んじている。それは各国がそれぞれ信仰している十天聖霊に由来していると言われているんだ! 知りたい?」
「教えてくれるなら勿論、知りたいけど」
十天聖霊は各国にそれぞれいて、各国の建国に関わっているらしい。それほど影響力があるのなら国民から信仰の対象とされるのも無理はない話だ。
また、理念も十天聖霊由来らしい。それなら、理念を重んじているのも理解できる。それこそ、蔑ろになんかしたら怒られるで済むものではなさそうだ。
スバルの知りたい肝心な十天聖霊の『名前』と『理念』を出し渋るパラクレートス。彼の「知りたい?」という問いに答えると、
「まずここ、新ミスティルシア皇国の十天聖霊はユースティティア。彼女は『正義』を司ると言われている。リベルテ共和国は『リベルタス』で彼女は『自由』を。ルツェルン皇国は『エイレネ』で彼女は『安寧』を。新セリカ帝国は『オルトシア』で彼女は『繁栄』を。タカアマハラは『アマテラス』で彼女は『永遠』を。新ロームルス王国は『エウノミア』で彼女は『秩序』を。ルシタニア王国は『ミトラ・ヴァルナ』で彼女は『契約』を。新アドリア王国は『アルテミス』で彼女は『純粋』を。アッティカ帝国は『アプロディーテ』で彼女は『愛』を。神聖アッシュール帝国は『ミネルヴァ』で彼女は『知識』を司ると言われてる」
「理念は正義、自由、安寧、繁栄、永遠、秩序、契約、純粋、愛、知識の十個か、なるほどな!」
「十天聖霊の名前は覚えたか?」
「ユースティティア、リベルタス、エイレネ、オルトシア、アマテラス、エウノミア、ミトラ・ヴァルナ、アルテミス、アプロディーテ、ミネルヴァの十人だろ?」
「そうだよ! 幾つかの国家にはその国が信仰している十天聖霊を模った数十メートル程の銅像が、首都や都市部に建設されていたりする。訪れる機会があれば見てみるといい」
パラクレートスの長々とした説明を受けたスバル。パラクレートスによればどうやら彼らは全員女性らしい。なんとか十人の十天聖霊の名と十個の理念を暗記することは出来た。
皇都ミスティルシアの広場に建てられていたユースティティアの銅像と同じように他国にも十天聖霊の銅像があるらしい。
もし、他国を訪れるなら是非ともこの眼で見てみたいものだ。そもそもそんな機会があるのか知らないけど。
そんなことを思惟していると二人の傍には先程のウェイトレスが立っている。彼女の方に二人が顔を向けると、
「お待たせしました! こちらがコーヒーとチーズケーキ、それとこちらがカフェオレになります」
出来上がった商品を運んできたようで、彼女はそう言うと取り違えることなく商品をテーブルへ並べて一言、「それではごゆっくりどうぞ!」というとスタッフルームへ向かって行った。二人はそれに「ありがとうございます!」と返すと、
「よし、頼んでいた品も来たことだし食べながら話そう」
パラクレートはそう言うと早速チーズケーキに手を付け始めた。それを見たスバルもカフェオレを味わうことにした。
スバルの手元にはカフェオレが一つ。取っ手の付いた陶器製の白いコップに八割ほど注がれている。見た目はまさしくカフェオレそのもので、現実世界にあるものと遜色ない程だ。
それを手に取り自身の鼻元まで寄せると甘い香りがスバルの鼻を刺激する。その香りに釣られてカフェオレを口に含むと瞬間に甘味が口内全域に広がる。それはまさしく美味であり甘党であるスバルにとっては堪らない味である。
パラクレートスはチーズケーキを二口程味わってからスバルへ本題の話を切り込む。
「さて、スバル! 本題の話をしよう。私が今日君と会ったのは、君にある物を受け取ってほしいからなんだ!」
「ある物? え、何?賄賂?」
「あはは。違うよスバル! これさ」
スバルの見当違いな返答にパラクレートスは多少微笑みを見せる。
彼が「これさ」と言いながらスバルの前に差し出して来たのは装飾された小物、それは――徽章のような物だった。
白を基調とした菱形でそれに内接する黄金で描かれた円があり、円の中には四つの曲線を持った菱形のような図形が描かれている。それはまるで光をイラスト化させた図形のようだ。その内部だけ何らかの鉱石でできているようである。
目の前に差し出された小物を見てスバルは疑問を呈する。
「えーと、これは?」
「徽章のようなものだ。私には不必要だから君にあげるよ!」
「えっ! いやいや、こんな高価そうなもの代金支払わないで貰うなんて出来ないって! それにこれって貴族とか皇族とか身分の高位な人が身に付ける徽章なんじゃなくて?」
「そういう類の物じゃないから安心して受け取って欲しい」
高価そうな小物を見て、無代金で受け取るなんてスバルには出来ない。さらに、スバルは今無一文。カフェオレまで奢って頂いてる有り様なので尚更だ。
見た目は高貴な人物が身に付けていそうな徽章のように見えるものの、どうやらそれとは違う物らしい。一般人でも身に付けていい物のようだ。
スバルは受け取りを拒否する理由はないものの、何故スバルなのか疑問が脳裏に浮かぶ。その理由を尋ねてみることにした。
「どうして俺なの?」
「私は『生命の書』に記されている人物にそれを渡しに行ってるんだ! 生命の書には君の名前も記されている。だから、これは君の物と思ってくれていい」
『生命の書』というのがあるらしい。そこには名前以外に何が記されているのかスバルには分かり様がない。スバルの名前も記されているらしいが、その理由も分からない。
「生命の書っていうのは一体?」
「それは秘密だよ!」
「なんだよ! 教えてくれてもいいだろ?」
「それは企業秘密みたいなもので、俺には守秘義務があるからね!」
「そうなのか。まあ、取り敢えず受け取っておくわ」
生命の書に疑問を抱いたスバルはパラクレートスに尋ねる。しかし、パラクレートスは守秘義務があるようで詳細を明らかにしなかった。
これ以上詮索しても情報は出てきそうになさそうだ。取り敢えず、スバルは受け取っておくことにした。
「よし、君にそれを渡したことだしそろそろ平らげてここを出ようか!」
用事はもう済んだ様子のパラクレートス。頼んだ品を平らげてカフェを出ようと彼はスバルに促した。
それを受けてスバルもカフェオレを飲み干しだした。
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あれから数分後。商品を全て平らげた二人はお会計を済ませて外に出た。
相変わらず大通りは活気に満ちている。カフェの前に立っている二人。
パラクレートスはスバルの方を見ると、
「それじゃあ、スバル! 私はこれで失礼するよ!」
「奢ってくれてありがとうな! それと徽章も!」
「どういたしまして!」
スバルは奢ってくれたことと徽章を頂いたことに感謝を述べる。パラクレートスはそれに返事を返すと、自身の行き先へ歩みを進める。
スバルは彼が群衆の中に消えていくのを見届けると、スバルも再び役所へ向かって歩き出す。
しかし、そんなスバルをとある『未知』が襲い掛かった。
――は?
スバルに訪れた『未知』を目にして彼は胸中でそう驚いた。
それは単なる驚きではなく、驚きに無理解を含んでいた。
――どうなってんだ?
スバルは困惑している。視界の先に誰にも説明できない現象が広がっている。
つい先ほど訪れたばかりの異世界。異色の街並みに異色の人々。異世界の大衆が行きかう大通りの真ん中で、摩訶不思議な現象に見舞われている。
辺りを見渡して得られる情報を単純に言うと、世界にひびが入っているのだ。
上下左右前後、見渡す限りの辺り一面を世界を引き裂くひびが覆い尽くす。
――何がどうなってんだよ、これ・・・
困惑するのも無理はない。
なにせ、ガラスが割れるときのように世界が崩壊していく最中、周りの人々はそのことを気にも留めていないのだ。
平然と挨拶を交わす人々、露店で買い物をする人々、大衆を避けて通る荷車。
彼の周囲には、そこに普段からあるであろう平凡な日常の光景が広がっていた。
異世界にとって非常事態の現象が起こっているのにも関わらず、異世界の人々は何食わぬ顔で普段の日常を送っているのである。
そのような混沌とした状況にスバルは理解できずにいた。
世界に入ったひびが全て一点の末端に集約したその刹那、世界は割れたガラスの欠片のように砕け散り、底の見えない深淵へと落ちていく。
それと同時に光が失われ、周囲の音も聞こえなくなり、視界は暗黒に包まれた。見渡す限りの真っ黒な世界に一人ぽっつんと突っ立っている。
何が起きたのか、脳内で整理し理解しようとするも、なかなか理解できない。それもそのはず、世界が割れる現象なんて見た事も聞いたことも無く、初めてその現象に襲われているのだから。
暗黒な視界の正面に一点の白い光が現れる。スバルはその光を見つめる。何も見えない世界に出現した一筋の光はこちらに向かって迫りくる。徐々に視界が眩しくなっていく最中、スバルを新たな未知が襲い掛かった。
「ようこそ、メシア!」
優しそうな声。美しい声だ。しかし、誰の声なのかわからない。彼の右から知らない声が聞こえてきた。
話しかけてきたのは誰なのか、気になったスバルは声がした方へ振り向こうとしたそのとき、いつの間にかスバルのもとにたどり着いた眩しく明るい光に包まれた。
「うわっ!」
あまりの眩しさに思わず声が漏れ出る。
刺激の強い光が弱まってようやく目を開けると、そこには見覚えのある光景が広がっていた。
これぞ中世ヨーロッパと言わんばかりの雰囲気を醸し出している石材や木材で建てられた街並みに、石や煉瓦で舗装された大通りの上を大衆が行き交い、街は活気に満ちている。
ここは、スバルが亜人の男と出会った場所だ。
「何だったんだ?今の……」
未知と未知と未知に襲われた彼は、見覚えのある街の中でただ独りボソッと呟いた。