体育嫌い
まだ小学生の頃は無邪気で、友達と遊ぶことも多かった。昼休みは鬼ごっこにはまっていた。足が遅かったので、よく捕まっていた。小川でザリガニとか沢ガニをとって遊ぶこともあった。背が伸びるように鉄棒にぶら下がっていたこともあった。
しかし運動は苦手で、体育も運動会も真面目にやったことなかった。体育教師は、木陰を好む人の目に激しい光線を当て、休息を愛する優しい人の耳に大砲の轟きを響かせることが趣味の人種としか思えなかった。
運動神経は努力より素質と思っており、最初から放棄していた。照れくさくて、全然一生懸命になれなかった。だから運動会の写真を見ても、笑っている顔がない。幼稚園の運動会では泣いていた。弁当を食べている時にだけ、楽しそうな顔をしていた。
サッカーもバスケットも、嫌でたまらなかった。三十分で足がパンパン、一時間で足がプルプルいいはじめて大変だった。バレーボールはすぐに腕が痛くなった。自分のチームが勝とうが負けようが全く興味が持てなかった。他の人がどうしてゲームの勝ち負けに熱くなれるのか不思議だった。
ボールが自分のところに飛んでくると、小鳥が物音を聞いた途端に飛び去るように、逃げ出した。なるべく目立たぬようにして、ひたすら試合時間・授業時間が過ぎ去ることを念じていた。チャイムが鳴ると、これで苦行から解放された、という安堵の思いでいっぱいになった。
今の小学校では子どもの気持ちを考えて、徒競走をやっても順位は付けないようにしているところもあるという。この話を聞き、教師も少しは子どもの痛みが分かるようになったと実感している。その種の平等主義教育に保守的な大人は批判的だが、運動会は好きでもないのに全員が強制的に参加させられる。だから好んで参加したわけではない子ができるだけ嫌な思いをすることがないように配慮することは教育者として当然である。運動能力のある子は運動が苦手な子と一緒に走って勝って喜ぶというような低次元な楽しみを享楽せずに、地区大会でもオリンピックでもどんどん参加して、能力を伸ばせばいい。
体育を益々嫌いにした理由に詩夜葉の通っていた小学校の迷惑な教育方針がある。学校では健康に良いという理由から、グラウンドでは裸足でいさせられた。教室に戻る時に足洗い場で洗うのが慣わしであった。砂や石を直接足の裏で踏むため、足が痛くなるだけでなく、衛生面も悪そうで嫌だった。足を地に付けるという意味と大地の息遣いを感じるというイメージは素晴らしい。プールの時は裸足で気持ちいいと感じることはある。しかし、それにグラウンドが相応しい場所とは思えなかった。