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一本釣りの一皿

桐田詩夜葉は駅前の回転寿司店に入った。一皿一皿を自分で選択する回転寿司は詩夜葉にとってカウンター寿司よりも贅沢であった。一皿一皿を味わうことが自分を育てる時間だと考えていた。


流れるレーンを眺めていると、一枚の皿が目に留まる。


「静岡県産一本釣りカツオ」

詩夜葉は思わず苦笑した。

「一本釣り……ただのブランド名じゃないの?」


半信半疑で皿を取る。だが、ネタを見た瞬間、その考えは消え去った。


「きれい……」

断面は角がぴんと立ち、身割れがない。深い紅色は透き通るようで、内出血の黒ずみも見当たらない。


以前の人生では、カツオは少し生臭い魚という印象であった。大量の魚を一度に引き揚げる巻き網漁では、網の中で魚同士がぶつかり合い、身に傷がつきやすい。それが食感や風味に影響することもある。


一方、この一皿は違う。

一匹ずつ釣り竿で引き上げる一本釣り。

魚への負担を抑えながら水揚げされることで、身の美しさが保たれている。

箸で持ち上げても崩れない。

しっとりしているのに、しっかりとした弾力がある。


「いただきます。」

口へ運ぶ。舌に触れた瞬間、澄み切った旨味がゆっくりと広がった。驚くほど雑味がない。 カツオらしい力強い味わいを持ちながら、後味はどこまでも透明だった。


「あぁ……本当のカツオって、こんなに上品なんだ。」

思わず独り言が漏れる。歌も同じなのかもしれない。派手な高音や大きな声だけが人の心を動かすわけではない。一音一音を丁寧に積み重ねること。一人ひとりの聴き手に届けるつもりで歌うこと。大量生産のように効率だけを追い求めれば、一時は目立つかもしれない。でも、長く愛される歌には、一本釣りのカツオのような誠実さが宿る。


詩夜葉はもう一貫を口へ運びながら、小さく笑った。

「焦らなくていい。」

前の人生では結果ばかりを気にしていた。だが今は違う。毎日の発声練習も、ダンスも、食事も、人との出会いも。一つひとつを丁寧に積み重ねれば、それはきっと歌声にも表れる。


静岡の海で、一匹のカツオに向き合った漁師がいる。その誠実な仕事が、この一皿の感動を生んだ。ならば自分も、一曲一曲、一人ひとりの観客と向き合う歌手になろう。回転寿司の一皿は、詩夜葉にそんな決意を静かに刻み込んでいた。


●攻める一皿 大トロびんちょう旨辛醤油

一本釣りカツオの余韻に浸りながら、詩夜葉は湯呑みに熱いお茶を注いだ。静かな旨味を味わった後だからこそ、次は少し違うものが食べたくなる。

レーンを流れてきた黒い皿に、自然と手が伸びた。


「大トロびんちょう旨辛醤油」

店内のおすすめ札が添えられている。


「ビンチョウマグロか……」

前の人生なら、きっと素通りしていただろう。「本マグロの代用品」という先入観だけで、その皿を評価してしまっていた。しかし逆行してから、詩夜葉は知った。人も魚も、名前だけでは価値は決まらない。まずは自分で確かめること。それが夢を追う者の姿勢だ。


一貫を口へ運ぶ。

「……!」

思わず目を見開く。脂が舌の上で音もなくほどけていく。しつこさはない。甘く、なめらかで、文字通り溶けてしまう。


「これが……大トロびんちょう」

驚きは、まだ終わらなかった。その直後、ニンニクの香りがふわりと立ち上がる。続いて青唐辛子の鋭い刺激が、脂の甘さを切り裂くように駆け抜けた。


「わっ……!」

思わず笑ってしまう。

辛い。けれど、ただ辛いだけではない。甘みを際立たせ、旨味を何倍にも増幅させている。攻めた味なのに、全体は見事な調和を保っている。食べ終えても、舌には心地よい刺激が残った。その余韻が、不思議なほど次の一貫を呼んでいる。


詩夜葉はふと、自分の歌を思い返した。前の人生では、「失敗しないように」と無難な歌ばかり選んでいた。音程を外さず、リズムを守り、誰にも嫌われない歌。けれど、それだけでは誰の心にも深く残らなかった。


「君の歌は上手い。でも、予想を超えてこない。」

あの一言が胸に刺さった。一本釣りカツオが教えてくれたものは、丁寧さだった。そして、この旨辛醤油の一皿が教えてくれたものは、挑戦する勇気だった。どれほど美しい脂も、刺激がなければ記憶には残りにくい。逆に刺激だけでは、すぐに飽きられる。


甘さと辛さ。

繊細さと大胆さ。

その両方があって初めて、「また食べたい」と思わせる一皿になる。


「歌も同じなんだ……。」

丁寧に歌うだけでは足りない。

聴く人の心を揺さぶる一音。

予想を裏切る表現。

思わずもう一度聴きたくなるような攻めが必要なのだ。


詩夜葉は注文用のタッチパネルを見つめる。少し迷ったあと、指先が自然に動いた。

「大トロびんちょう旨辛醤油 もう一皿」

画面に注文完了の表示が現れる。


彼女は小さく笑う。

「そうだ。人生だって、一度きりじゃない。」

逆行という奇跡で与えられた二度目の人生。自分から一歩踏み出そう。ほどよい辛さが残る舌先のように、その決意もまた、胸の奥で静かに熱を帯び始めていた。


●マグロのハラモ 見えないところに宿るもの

旨辛醤油の刺激がまだ舌に残っている。詩夜葉は熱いほうじ茶を一口飲み、ほっと息をついた。


「次は、少し落ち着いたものにしようかな。」

レーンの向こうから、艶やかな桃色のネタがゆっくりと近づいてくる。


「マグロのハラモ」

聞き慣れない名前だった。説明を見ると、「大トロのさらに下、お腹の一番底にある希少部位」とある。


「こんな部位があったんだ……。」

歌手を目指していなければ、きっと興味を持たなかっただろう。だが今の詩夜葉は、「知らないもの」にこそ価値が隠れていることを知っていた。箸でそっと持ち上げる。柔らかそうなのに崩れない。口へ運ぶ。


「……!」

思わず目を閉じる。

ふわり。

そして、とろり。

舌の上で雪が陽だまりに溶けるようにほどけていく。

脂は豊かなはずなのに、不思議なくらい軽い。

大トロのような力強さではなく、透き通った余韻だけを残して静かに消えていく。


「こんな脂があるんだ……。」

詩夜葉は感心して頬を緩めた。希少だから価値があるのではない。この上品さは、ほかでは代えられない個性なのだ。


その瞬間、ボイストレーナーの言葉が脳裏によみがえった。

「桐田さんは、高音が武器だと思っているでしょう?」

「はい。」

「でもね、本当に魅力的なのは低音なんですよ」

最初は信じられなかった。高い音がきれいに出れば歌手になれる。ずっとそう思っていたからだ。しかし、レッスンを重ねるうちに分かった。歌を支えているのは、目立つサビではない。

息遣い。

腹式呼吸。

低音。

ビブラートへ自然につながる母音。

聴く人には意識されない部分が、歌全体の質を決めていた。それはまるでハラモのようだった。誰もが知る赤身や大トロではない。けれど、一匹のマグロの中で、ごくわずかしか取れない特別な部位。派手ではなくても、一度知れば忘れられない味わいがある。


詩夜葉は微笑んだ。

「人も同じかもしれない」

ステージの中央でスポットライトを浴びる人だけが、作品を作っているわけではない。

演奏するミュージシャン。

音響スタッフ。

照明スタッフ。

衣装係。

メイク担当。

そして、会場へ足を運んでくれる観客。

一人でも欠ければ、ライブは完成しない。


前の人生では、目立つ人ばかりを見ていた。でも今は違う。見えないところで支えてくれる人たちの存在に気づける。その気づきは、自分の歌にも深みを与えてくれるはずだ。


皿の上には最後の一貫が残っていた。詩夜葉は感謝するように両手を合わせる。

「いただきます。」

希少部位だからではない。一匹の命を余すことなく味わい、そこから学びを受け取れることが、何よりも贅沢なのだ。口の中で静かに溶けていくハラモの余韻は、拍手喝采のような派手さはなかった。けれど、それは長く心に残る一曲のエンディングのように、穏やかで、どこまでも美しかった。


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