拒絶
ライブが終わった後の楽屋は、いつもひどく静かだ。耳の奥ではまだ、さっきまでの大音量の残響と、数千人の歓声がハウリングを起こしている。
詩夜葉は鏡の前に座り、重たいステージメイクをクレンジング綿で拭い去る。鏡の中にいるのは、「歌姫」という虚飾を剥ぎ取られた、ただの疲れ果てた女だ。
ふと、移動中の車内で繰り返し見ていた東京03のコントを思い出す。「大丈夫です」という、あの短い拒絶の言葉。
マネージャーがドアをノックして入ってきた。
「お疲れ様。次のシングルの方向性だけど、プロデューサーはもっと明るい、寄り添うような応援歌がいいって言っている。いけるかな?」
詩夜葉は、真っ黒に汚れた綿をゴミ箱に捨てた。心の中では、あのコントの豊本さんや飯塚さんのように、無機質で、それでいて断固としたトーンが響いている。
「大丈夫です」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たくて、鋭かった。
マネージャーは一瞬、詩夜葉が「無理をしなくても大丈夫(書ける)」という意味で言ったのだと勘違いしたようだった。安心させるための「大丈夫」だと思ったのだろう。けれど、すぐに詩夜葉の視線の強さに気づいて言葉を呑み込んだ。
違う。そうじゃない。
あなたの提案は必要ない。詩夜葉の歌に、これ以上安っぽい希望を混ぜ込まないでほしい。
これは、詩夜葉を守るための、そしてあなたに従わないための、精一杯の抵抗だ。
世間は詩夜葉に、誰かを救うような、優しくて「大丈夫」な歌を求める。でも、今の詩夜葉に必要なのは、救いでも励ましでもない。ただ、自分の聖域を侵そうとするものすべてをなぎ倒す、拒絶の言葉だった。
「……そっか。わかった、上に伝えておくよ」
マネージャーが肩を落として出ていく。ドアが閉まる音。
詩夜葉はもう一度、鏡を見た。
メイクが落ちた顔は酷く青白くて、情けないほどに「大丈夫」じゃなかった。でも、自分の意志を貫いたあとの胸の奥には、あのコントのオチを観た時のような、どこか滑稽で、無性に切ない「哀愁」が宿っていた。
「大丈夫じゃない、大丈夫じゃない」
独り言のように繰り返してみる。
それは、自分を安心させるための呪文でもなければ、誰かに向けた嘘でもない。
この孤独を誰にも譲らないという、詩夜葉なりの、一番エモい決意の表明であった。
ライブハウスの地下から地上へ出ると、夜の空気は驚くほど湿っていて、重かった。
さっきまで詩夜葉を縛り付けていた衣装の感触はもうないのに、肌の上にはまだ、見えない鎖が巻き付いているような気がする。
スマホの画面を光らせる。通知の束。SNSには「今日も救われました」「明日からまた頑張れます」という言葉が、色鮮やかな絵文字と共に並んでいる。
みんな、そんなに簡単に救われていいのか。そんなに安っぽく、明日を信じてもいいのか。
詩夜葉は画面を閉じ、吸い込まれるようにコンビニに入った。
明るすぎる店内の照明が、現実を白日の下にさらけ出す。
雑誌の棚、冷えたペットボトル、整然と並んだおにぎり。そのどれもが、詩夜葉の「孤独」という聖域には不釣り合いなほど、日常の顔をしてそこにいた。
ふと、また東京03のコントが脳裏をよぎる。
日常の些細なズレ、滑稽なまでの自意識、そして、決定的なコミュニケーションの断絶。
彼らの笑いの裏には、いつも言葉にできない「切なさ」が張り付いている。
詩夜葉がさっきマネージャーに放った「大丈夫です」という言葉も、客観的に見れば、ただの売れない歌手の強がりに過ぎないのかもしれない。
「袋、ご利用ですか?」
レジの店員の、どこか投げやりな声。
「大丈夫です」
また、同じ言葉が出た。今度は鋭くもなく、冷たくもなかった。ただの、記号としての拒絶。
買ったばかりの冷たい缶ビールを片手に、夜道を歩く。
不意に、新しいメロディが浮かんできた。
それはプロデューサーが望むような、誰かの背中を押すような明るいコード進行ではない。
もっと、低くて、濁っていて、地面を這うような旋律。
大丈夫じゃない自分を、そのまま音の中に閉じ込めるような、救いようのない歌。
詩夜葉は立ち止まり、ボイスレコーダーを起動した。
「……大丈夫、じゃない」
吹き込んだ声は、夜風に混じって消えていった。
明日の朝になれば、事務所からの電話が鳴り、大人が詩夜葉の「わがまま」を修正しに来るだろう。
世間という巨大な化け物が、詩夜葉に「偽りの希望」を歌わせようと口を広げて待っている。
けれど、今この瞬間、この湿った夜道で、詩夜葉は間違いなく詩夜葉自身のものだ。
コンビニの袋を揺らして歩く自分の影が、街灯の下で長く伸び、そして縮む。
その滑稽なリズムが、何だか無性に愛おしくなった。
詩夜葉の歌は、誰の心にも寄り添わない。
けれど、この夜の静寂と、冷たいビールの感触と、そして「大丈夫」という名の拒絶だけは、嘘偽りのない詩夜葉のリアルだった。
詩夜葉は、もう一度だけ小さく呟く。
「……大丈夫、じゃない」
その言葉が、明日への一歩を支える、最もエモくて残酷な呪文になった。




