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逆行して歌手を目指します  作者: 林田力
オーディション
5/62

子ども時代

詩夜葉は産まれた時から声だけは大きく、一旦泣き出されると、耳鳴りがするくらいだったと母は言う。何でも見たい、知りたい、触りたいと好奇心の塊で目が離せなかったらしい。


詩夜葉は京都駅から電車で約二時間のところで生まれ育った。都会ではないが、全くの田舎でもない、のんびりした街だった。盆地のため周りは山に囲まれていて、自然がいっぱいあった。無風の日には青空は高く深く澄み渡り、穏やかな陽光を地上に注ぎかけてくる。夜空には何千、何万もの星が輝く。大気と水が親和しており、酸素をたっぷり含んだ空気は実に清々しい。風は幼児の肌にも優しく、顔で風を感じるのが心地よかった。今でも風と風のある季節が好きである。


春には様々な花が一面に咲き誇る。冠のような花や釣鐘のような花や鍵のような花が美しさを競い合い、花びらの香りをかいだり、触ったりして飽きることがなかった。植物にとってよい環境は昆虫にとっても同様で、蝶や蜂や羽虫が花や草の周りを飛び交う。蜂の羽は鋭い午後の陽光を受けてガラスのように光っていた。寝転がると、自然の音が詩夜葉を包み込んでくれた。


稲刈りの時期には田んぼは黄金色に輝き、涼やかな空気を吸い込むと肺まで洗われる心地がする。冬には雪が降り積もり、家々は粉砂糖にくるまれたようになる。朝は黒土を押し上げる霜柱や水溜りに張った氷を踏む楽しみを満喫した。夢中になって踏みしめた霜柱の、サクサクという崩れる音は、アスファルトだらけの都会ではすっかり懐かしい響きになってしまった。畑の中にはポツンとイノシシの檻があり、子供心に「怖いなあ、大きいなあ」と思いながら興味津々で見に行った。


少し奥に歩を進めると、里山の昔ながらの牧歌的な風景が広がる。木の葉に埋もれた、湿った土の匂いに満たされ、鬱蒼と生い茂る竹林や年輪を感じさせる大木に遭遇する。恐らくは太古の昔より繁り続けてきた木々だった。谷には青々とした草が生い茂り、草木の香りが漂っている。奥に行くに従って鳥の鳴き声も多くなる。春から夏にかけては新緑が鮮やかで、秋には紅葉が燃える。深山を思わせる渓谷には清流が流れ、四季折々の自然の景観を満喫することができる。


詩夜葉に最も影響を与えた人物は母である。今でも「尊敬する人は誰ですか」という質問を受けたら、迷わず母と答える。母は女手一人で詩夜葉と妹を育てた。母子三人で身を寄せ合って厳しい世間の風を避けていた。そこは社会から隔絶された母子の小宇宙であった。


父は詩夜葉が六歳の時に急逝した。父は二十九歳で体の異常に気付き、癌と宣告されながら、安らかな死が訪れるまでの一年間、身を引き裂くような激痛に一人で耐え抜いた。病魔に侵されながら、愚痴もこぼさず、ひたすら苦痛に耐え続けた。


母は愛情に溢れていたが、厳しい人であった。しかしその厳しさがなければ、娘の心は父の死によって穴が開いたまま、どうにかなってしまっていたかもしれない。母は「おかん」と呼んだだけでも怒った。きちんと「お母さん」と呼ばなければならなかった。


「自立しなさい」が口癖だった。「自立した女性にならなければだめだよ。頼ってばっかりじゃダメだからね」と小さい頃からずっと言われてきた。今現在、自立しているかどうかは分からない。しかし、少なくとも何とか一人で考えることはできている。これは母のお蔭である。


子供の頃は母とよく一緒に買物に行った。親が電気器具や自分以外の人の洋服を見ている時はとても退屈だった。そのため、イライラして、泣き叫び、わめくこともあった。そのため、デパートでは大抵母親と離れて、本屋で絵本を読んだり、おもちゃ屋で人形を眺めたりしていた。そうさせてもらえるから、デパート行くことが楽しみになった。これがずっと親と一緒にいないと駄目だったら、苦痛以外の何物でもなかった。


しかし、詩夜葉は外で遊ぶことは好きではなかった。特に砂遊びのように汚れることが嫌いだった。一人で家の中で塗り絵をすることが好きだった。おままごともしたが、小さいながら「ぜんぜん面白くないなあ。でも、こんなもんかな」と思いながらやっていた。かなり「おマセさん」だった。母の化粧道具を勝手に使って怒られたこともあった。


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