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逆行して歌手を目指します  作者: 林田力
オーディション
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オーディション当日

光陰矢の如く、あっという間にオーディション当日になった。見えざる手が時計の針を超特急で進めているかのようだった。


その日は緊張から早くに目が覚めた。何故、突然意識がはっきりしたのか不思議に思うくらいだった。薄暗い天井が詩夜葉を見下ろしていた。透明な早朝の空気がヒンヤリと部屋を満たしている。午前五時、いつもならば絶対眠っている時間帯である。炎のような力が心から四肢に伝わっていくかのように、すっくと身を起こした。


生ぬるい水で顔を洗う。毎朝必ず起床後にする行動が洗顔である。これをしないままでは起きた気がしない。目ヤ二などを洗い流し、肌に潤いを与える。今朝の湿度は決して低くはなかったが、外気に触れる肌に湿り気を与えると一層気分が引き立った。


洗い終えると、鏡の中の自分に力強い、愛情に満ちた微笑を投げかける。鏡の中の自分からも同じ微笑が返ってきた。鏡に映る寝起きの顔は聖者の心も溶かすかと思われるほど美しく、恥じらいに満ちていた。


今後どんなことがあろうとも忘れることのできない一日が、とうとうその幕を開けた。今日から詩夜葉の人生は大きく変わるはずである。オーディションのことを考えると、興奮すると同時に不安も覚える。「私には、やってのける力も度胸もある」と自分に言い聞かせた。今ならばおぼろげな未来を覗き込める気さえしてきた。


窓を開けて、街を見下ろす。街はまだ眠っている。胸いっぱいに空気を大きく吸い込む。昨日が一日中雨だったせいか、今朝は空気が澄みわたり気持ちがいい。澄んだ青白い空、誰もいない街、どこか遠くの鳥の声。明け方は、いつも淋しい。透明な空気に一人溶けて消えてしまいそうな頼りなさを感じる。


時間があるので、ゆっくりと朝食をとる。思えば朝食を食べること自体が久しぶりだ。平日は一秒でも長く蒲団にいて、起き上がったら、そのまま会社に直行していた。休日は正午までずっと寝ていた。


まず冷たい野菜ジュースを飲んで胃を活性化する。よく冷えた液体を心行くまで味わい、ほっと一息つく。朝食はシチューとサラダである。かっこつけているが、昨晩の夕食の残りである。温めたシチューから立ちのぼる湯気が顔を優しくなでる。なでられたとあっては、食欲も燃えあがらずにはおれず、スプーンは勢い良く口へ運ばれる。一口ずつじっくりと味わい、栄養素が体の隅々にまで行き渡っていく過程を感じとる。


食べ終わっても出発までにはまだ余裕がある。そこで植木に水をあげる。普段はやらない行為だが、今朝は何かをしていないと落ち着かなかった。鈍い光沢を放つブリキのジョウロの冷たい柄をキュッと握り、少し傾ける。パラパラパラ、という音とともに柔らかな土に染み込んでいく清潔そうな水。光の加減で虹がうっすら見える。


もう少し腰をかがめればもっとはっきり見えるかもしれない。しかし、先ほど手に塗った保湿クリームがべたつき、ジョウロの柄がヌルッと滑り落ちてしまいそうである。それが気になって虹どころではない。所詮、詩夜葉にはハーブに水をやる上品な若奥様を演じることは無理である。詩夜葉は唇をかみしめた。


「私は歌手になるしかない。歯を食いしばってでも、やらねばならない」

この思いが詩夜葉を高揚させた。


難攻不落の要塞に攻め込むような意気込みで家を出た。頭を振って軽い眩暈を取り除き、一瞬の躊躇の後、決心したように第一歩を踏み出す。オーディション会場に着くまでは何も考えられなかった。空っぽの頭には何一つ浮かんでこなかった。自分の足音が頭に木霊した。詩夜葉が歩みを止めるとその音も途絶える。


歩きながら、しょっちゅう後ろを振り返った。誰かに見られているような感覚に襲われたためである。次第に振り向くことも怖くなった。


「知らない振りをしていれば、去ってしまうかもしれない」

詩夜葉は自分に言い聞かせた。走り出したいが、前方にも闇が待っていた。それどころか途中で何度か建物の壁に手をつかざるを得なかった。そうしなければとても自分を支えられそうになかった。


「どうせ落ちる。受けても無駄」

闇の声が耳元でねっとりと囁き続けていた。全ての光を吸い込み、成長を続けていく闇だった。闇の中にはあらゆる否定的な感情が渦巻いていた。隙さえあれば詩夜葉の夢を粉々にして、この世界を詩夜葉からもぎ取ろうとする。詩夜葉の足にしがみつき、渦の奥に引きずり込もうとする。今にも四方八方から黒い触手が飛び出し、牙を向いて襲いかかるのではないかと思われた。闇の底には何が待っているのか、そこまではどれくらい深いのか、どのくらいの速度がつくのか、何一つわからないが、それを許すわけにはいかなかった。


「これは空耳よ」

詩夜葉は自分に言い聞かせたが、耳元で囁く闇の声は増える一方だった。


「この闇に心を捕まれては駄目。これは錯覚よ。気持ちを集中しなさい」

詩夜葉は自分を乗っ取ろうとする闇の人格を組み伏せようとした。


「止めてたまるか。詩夜葉は歌手になるんや」

固い決意にもかかわらず、心の声は弱々しかった。激しく抵抗すればするほど、無力感が広がった。暗い潮のように込み上げてくる闇の声を打ち消そうと必死に考えようとすればするほど、却って思考の幅は狭まり、意識は遠のきそうになった。会場に向かおうとしているのか、自宅に帰ろうとしているのか、それすらも分からなくなった。


看板だかチラシだか忘れたが、「春夏冬 二升 五合」という文字が目にとまった。初めは意味が理解できず、歩きながらそればかりをずっと考えていた。数分後にやっと「商い益々繁盛」だと閃いた。つまり、春夏冬は秋がないので、商い(あきない)である。二升は升が二つで「ますます」、五合は一升の半分だから、半升はんじょうで繁盛になる。理解できる人は少ないだろうという優越感から思わず笑みがこぼれた。


とても軽やかな気分になって、何でもできる、オーディションも合格するという気持ちになれた。頭の中でこれまで練習してきた歌を何度も繰り返し、最後まで暗唱できた。これによって、気分が一層楽になった。



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