生活
パソコンがほしいとずっと思っていた。インターネットをしたい。自分のウェブサイトができたのに、自分では見られないことが残念だった。しかしウィルスへの不安からパソコンの購入を躊躇していた。その時は、コンピュータウイルスが人間にも感染すると勘違いしていたためである。ウィルスに感染したマシンの画面を見ると人間に感染すると思っていた。そのことを友人に言ったら、「アホなこと考えていない?」と笑われた。
「人間に感染するようなことがあったらニュースになるでしょ」
「そうか。だったら早く言ってね」
「自分で勘違いしていただけでしょ」
デスクトップ環境にはこだわっている。可愛いイラストの壁紙にカレンダー機能、コミカルなアイコン。まるで女の子の部屋そのもののようにしている。コンピュータと言えばどことなく冷たいイメージがあり、そのため近寄りがたかったが、ファンシーな環境にして、ごく身近なものとして親しんでいる。
パソコンにコンサートのMCで話すことを打ち込むこともある。スター歌手でありながら、キーボードの操作も堂に入っている。気が付くと、すっかり夜中になっていることもある。コンサートツアーで全国を回っていると、同じことをMCで言ってしまいそうになる。かぶらないように、その話したことを整理しておく。とても便利である。
インターネットにアクセスできるようになってから、テレビを見る時間が減った。疲れて帰ってくると、テレビを見ることが億劫になる。最近はスポーツやお笑いも、テレビではほとんど見ていない。ネットの方が楽である。こちらの時間の都合に合わせて見られるし、要点だけ、かいつまんで知ることができる。
ドラマも連続物はあまり見ない。毎回見られないと話が分からないようになる。サスペンスやラブストーリーは、正直、食傷気味である。テレビ番組はビデオに録画して観ることが多い。その方が、時間の制約が少ないし、早送りや巻き戻しができる。
マスメディアとは関係浅からぬ仕事に就くことになったが、同業のほとんどの方と同じくマスメディアは嫌いである。ジャーナリストと会う時は、不潔なものを見た時の不快感を隠すのに苦労する。レポーターが近寄って来るだけで空気が銅臭を帯びたものに感じられる。
撮影の時も撮影者から「元気な表情で」とリクエストされても、中々テンションが上がらない。人間味の感じられない応対をされるよりは喧嘩をした方がましという気持ちになってくる。
歌手として有名になりたいという気持ちは皆無ではない。しかしマスメディアの報道はその場限りのニュースに過ぎない。多くの人に知られて忘れられるよりも、たった一人の人によくわかってもらった方がすっといい。その場限りの嘘臭い賞賛とは無縁でいたいし、単なる好奇心の対象になることは不愉快である。
基本的にマスメディアは羽振りがいい人を嫉む。正当であろうと不正であろうと、他人が利益を得ることを傍観するのが嫌なのである。色々言っても、結局揚げ足とって困らせることが目的である。暇だったり、何かに鬱屈したりしていると他人にチョッカイ出したくなることと同じである。
大きな事件があり、ある人が逮捕され、それが報道された。このような時、多くの人は、「コイツが犯人か」と思ってしまう。詩夜葉も、正直そう思ってしまう。しかし、その人が、長い時間を費やした挙句、無罪を勝ち取るということも、かなり起きている。だからたとえ大々的に報道されていても、それが真実とは言い切れない。マスメディアの報道姿勢を、あれだけ批判しながら、多くの人が冤罪報道を何の検証もなく、百パーセント信じてしまう。深い謎である。
インターネットの発達によって、マスメディアの執拗な攻撃対象になっている人が自分のウェブサイトを開設して反論できるようになった。それを見て「ああ、いい時代になった」と心底感じた。これまでは、このような場合、反論する機会はなかった。マスメディアに総攻撃を受け、その報道に接した大衆から白い目で見られることを甘んじて受けなければならなかった。そして名誉回復の機会もなく、永遠に社会から抹殺されてしまう。
しかしインターネットの発達により、不完全ながらも、反論する機会が持てるようになった。つまり、マスメディアが実質的に独占していた言論の自由を一般市民もやっと享受することができるようになった。まだまだ不完全ではあるものの、相当な前進であることは間違いない。その意味で、ああ日本も、ようやく自由主義国家としての体を為してきた、という感慨がある。
中学生の時に公民で言論の自由を習った時、「そんなもん、絵に描いた餅やないの!」と凄く不愉快に思った。それは小さいながらも、やっと本当の餅になった。このような物の見方をすることを「世間知らず」と言うのなら、詩夜葉は生涯「世間知らず」でありたいと思う。そのような世間を知っていることに何の意味もない。
詩夜葉は関西出身だが、関西弁はあまり話さない。特にラジオやテレビでは話さない。マクドナルドをマクドと略すこともない。マクドナルドが自らの略称としているマックを使っている。東京で長く生活すれば標準語の影響も当然受ける。
関西人には、関西人らしくして欲しいという人もいるかもしれない。しかし関西人である前に一個人である。個人としての個性がある。「関西人は、関西人らしくあらねばならない」は「女性は女性らしくあらねばならない」と同じである。没個性的で全体主義的な発想である。例えば関東人みたいな関西人や、逆に関西人みたいな関東人がいてもいい。マニュアル通りに振舞う必要はない。自分にあったスタイルをとればいい。
そもそも関西と一緒くたにする発想自体気に入らない。詩夜葉は東京に同化しようとする気は全くない。しかし大阪にも同化していない。詩夜葉にとっては大阪も東京も等距離という感覚である。大阪でも東京でも余所者である。
詩夜葉は昔から個性を無視して枠にはめようとする見方が嫌いである。十七歳の少年による犯罪があると、センセーショナルに煽るために、わざわざ「十七歳の犯罪」と記述する。昔から、少年の凶悪犯罪は存在する。上の世代の人が、こういう事件があると、すぐ「教育のせい」と言うことには正直、不愉快な感情がある。




