社内公務員の害
退職代行で不利益を受ける存在は、延々と面談を繰り返し、退職を妨害する社内公務員的存在だけである。事務的な手続きについては手慣れている代行業者の方が、本人が行うよりもスムーズだろう。これに対して、社内公務員的存在の面談は翻意させるにしても、アリバイ作り的に面談するにしろ、本人と会わなければ仕事にならない。それ故に退職代行に脊髄反射的に反発する。
社内公務員的存在にとって退職代行が不都合であることは社内公務員的存在のデメリットに過ぎない。自分の時間と精神的安寧を犠牲にして社内公務員的存在の点数稼ぎに協力して不愉快な時間を過ごす意味はない。退職代行を使うことのデメリットは社内公務員的存在のデメリットであって、本人のデメリットでしかない。自分の点数稼ぎしか考えない社内公務員的存在は何をしようと本人のためになることをすることはなく、その協力を前提としたメリット・デメリットは意味がない。
無意味な面談を拒否したということが本人のマイナスになるとの論理は成り立たない。それで反感を持ってマイナス評価を下すならば、それが不合理である。そのような人物ならば何をしても評価は上がらず、面談に応じることは無意味である。退職代行を使うことでマイナスになるものではない。
前職の会社が本人の承諾なしに情報を提供したら、個人情報保護やプライバシーの侵害になる。採用候補者からの委任状や調査同意書を取得する方法があるが、適性や能力に関しての問い合わせに限られる。差別につながる調査は違法性を問われる。
昭和の感覚ならばパワハラで追い込まれて退職したことも被害者が悪いと「悪い噂」になるだろう。そのような昭和の感覚のままの業界ならば退職代行を使おうと使わないと「悪い噂」は変わらない。21世紀的な感覚では面談に唯々諾々と応じる方が都合の良い存在とマイナス評価になるだろう。むしろ、一切の説明をせずにコミュニケーションを断つ潔さにカッコよさを感じることもある。
退職代行サービス批判には労働問題の法律論に通じているが故の現実の無理解がある。労働者には契約自由の原則があり、退職の自由がある。そのために、この問題は裁判ならば明快である。退職代行サービスを利用しなくても辞めることはできる。退職させない使用者は法律を無視し、労働者の無知につけこむ悪質業者である。しかし、裁判はハードルが高く、労働者本人は追い詰められて大変な状態であり、退職代行サービスのビジネスのニーズはある。現実に個人が申請した申請書が握り潰された事件が起きており、労災裁判になった。
退職代行サービス批判の中には退職代行業者に胡散臭い業者がいることへの批判もある。法律的には争いがなく、明確に処理できる点は消費者金融の過払い金請求と状況は似ている。その意味では宣伝広告だけは熱心なブラック弁護士法人のような悪質な業者を排除できるかが重要になる。この点は重要な問題であるが、退職代行サービスというビジネスモデル自体の是非とは別問題である。これは分けて考える必要である。
逆説的であるが、退職代行サービスは問答無用でコミュニケーションを断つことに比べれば、まだ会社に対して遠慮がある。辞表を郵送やFAXで一方的に送りつけて、その後の連絡を拒否するような辞め方をしても、何も問題ない。退職日も交渉で決めるものではなく、上記の中に記載するものである。悪く言えば、退職代行サービスには日本人の大人しさ、権利意識の低さを意味する面がある。久保帯人『BLEACH―ブリーチ―』の黒崎一心は一切の説明をせずに音信不通になる潔さがあった。
労働者の代わりに使用者と交渉する役回りは伝統的に労働組合が担っていた。その労働組合が退職代行のニーズを果たしていないから、退職代行サービスという新規参入者が生まれた。企業別組合ならば無理である。産業別組合ならば可能であるが、このようなニーズをつかみとる発想が出てくるか。集団的な労働者の底上げが労働者の地位向上になるという発想では、この種のニーズに応えられなくなる。労働者側のニーズは個別化している。
退職代行サービスは多様な選択肢の一つになる。選択肢がないと思い込んでいる人に退職代行サービスという選択肢を紹介することは、選択肢を増やす上でプラスになってもマイナスになるものではない。
個人に負担や我慢を押し付けることを正当化する昭和の精神論根性論者にとって退職代行サービスは最悪の辞め方に映るかもしれない。しかし、パワハラに関する意識が昭和と21世紀で異なるように、昭和の退職の仕方を21世紀人に強要することはできない。
退職代行サービスを利用すると円満退職にならないということは誤りである。退職代行サービスは退職手続きを代行するもので、円満か否かは関係ない。円満かは双方の一致がなければ成り立たないので、労働者側の言動に責任を負わせることはアンフェアである。
退職代行は、手続きを本人がするか代行業者がするかの違いでしかない。「本人が直接来なければけしからん」という批判は、昭和の対面コミュニケーション至上主義の押し付けある。代行業者を会社側が受け入れれば十分に円満に進む。「本人が挨拶に来ないことはけしからん」という昭和の感覚こそパワハラ許容と同じく前時代のものとして葬り去るべきである。
理解し難い点として労働者の立場に立つべき労働運動側に退職代行サービスへの冷淡さがある。冷淡などころか、退職代行サービス利用者が非難されることもある。パワハラなど労働問題を構造的な問題として捉える一方で、退職代行サービスを利用すると本人に問題があると見られる、自己のキャリアに傷がつくなどと言う。それならばパワハラ被害者も本人に問題があると評価されることを肯定しなければ筋が通らない。
問われるべきは日本企業の体質である。退職代行サービスを利用する側を批判することは筋違いである。退職代行サービスを利用する人は短期離職を繰り返す我儘な人物とすることは、根拠のない決めつけになる。社会構造を批判しても、個人レベルでは頑張れというならば昭和の精神論根性論と変わらない。天下国家を論ずるような感覚で構造的な問題は批判しながら、個人レベルの問題は個人の頑張り、自己責任とする議論は欺瞞である。
ここには日本の左派の冷たさがあるだろう。日本の左派は水俣病や福島原発事故のように一つの問題で多数の被害者が出る集団的問題には対応できても、個別的問題については反応が鈍い。もっと言えば冷たい。個別的問題を社会的問題よりも一段低く見る傾向がある。労働運動は個別的問題と言うかもしれないが、労働組合運動が成り立つような問題は取り上げても、退職代行サービスの利用には冷たいという話になる。




