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逆行して歌手を目指します  作者: 林田力
オーディション
21/62

結果通知

旅行中、携帯電話にオーディション事務局の人から東京に来るように連絡があり、慌てて上京した。オーディションを主催したテレビ局の受付で名前を言うと、三階の応接室に行くように言われた。


エレベータもあったが、三階程度ならば階段の方が早い。詩夜葉は自分の穏やかな息遣いを耳にしながらゆっくりと階段を上がり始めた。エレベータは自動的に運んでくれるが、待たなければならない。一方、階段は自分の足を使うが、一歩ずつでも自分のペースで進んでいける。それにエレベータは他人と乗り合わせると何となく緊張してしまう。だから階段の方が気楽で好きである。


三階に着いた時、疲労のためか、興奮のためか、詩夜葉は息を切らせていた。応接室の場所はすぐにみつかった。室内に入ると、ロック歌手が座っていた。軽い閉所恐怖症に襲われてしまいそうな無機的な空間だった。詩夜葉はとぎこちなく室内に進んだ。まるで沼の中を進むような状態だった。緊張感から呼吸が重くなっていた。だが、この緊張には興奮が混じっている。期待と不安が否応なしに高まる。どういう態度で迎えられるのか、という瑣末な心配まで脳裏をよぎった。


ロック歌手は部屋に入ってきた詩夜葉を見てヘッドホンを外した。茶色いサングラス越しの黒い目が幾分かの戸惑いを込めて詩夜葉の全身を見つめている。彼の不審がノースリーブの黒いワンピースから出ているこんがりと日焼けした詩夜葉の両腕に注がれていることは明白だった。


「日焼けした?」

向かいの席を勧めながらロック歌手が尋ねる。詩夜葉は困ってしまった。詩夜葉が今日ここに呼ばれたということは何か発表することがあるということだろう。そのために審査員やスタッフの方は今日まで色々と準備していた筈である。その間、詩夜葉は海で日焼けしてきた。詩夜葉にとっては心の整理をするために必要な旅だったが、傍から見れば遊んでいるようなものである。詩夜葉は自分がここにいることが相応しくない人間のように思えた。


答えに窮したため、座るという動作に忙しく、会話する余裕がない振りをして、大袈裟に椅子を引いて着席した。


「日焼けしたでしょ?」

ロック歌手は詩夜葉が座り終えたことを確認し、重ねて尋ねてきた。どうあっても答えを引き出すつもりらしい。詩夜葉は覚悟を決めた。喉の渇いた者から水を遠ざけるように説明を先に延ばせば、それだけ相手の好奇心を掻き立てることを知っていた。


「もう終わったと思ったから、いいと思って……」

弱々しく詩夜葉は答えた。口から出た言葉がそのまま床に転げ落ちるのではないかと思われた。この時の詩夜葉は恥ずかしさで耳の付け根まで真っ赤になっていたかもしれない。


それで前置きの会話は終了したようであった。ロック歌手はおもむろにサングラスを外す。直に見る眼差しは年老いた賢者を思わせた。春の青空のように清らかで深い眼差しだった。一息入れた後で、おもむろに本題に入った。その声の調子は、勅命でも伝えるかのように厳かで重々しかった。


「ご足労願ったのは他でもない。あなたがデビューすることが決まりました」

その声は生き物のように詩夜葉を包み、耳の中で反響した。まるで小説の主人公になったような急展開である。最初は頭が真っ白になった。詰まっていた何かがスコーンと抜けた。体中に電気が走り、震えが生じた。鮮烈な風が詩夜葉の体に吹き込み、胸に巣食っていた不安や絶望をことごとくなぎ払った。血液が喜びをのせて体内を循環し、それが脳裏で弾けるまで数秒を要した。屋内にもかかわらず、雲間にあった太陽がほんの一瞬顔を出し、そのぬくもりを背中に感じたようだった。


「本当にこんなことがあるんだ。夢は夢じゃないんだ」

心の中で叫んでいた。父がよく「人生には何が起こるかわからない」と言っていたことを思い出した。もし詩夜葉が敬虔な信仰を持っていたら神に我が身の幸運を感謝していただろう。しかし詩夜葉の家庭はそれほど宗教的ではなかった。


「二十四年間培ってきた何かを捨てなければならいかもしれない。それでもやりますか」

「捨てます」

はっきりとした口調で詩夜葉は即答した。何の保証もない世界へ今までの自分を捨てて飛び込むことの意味は理解していた。それでも自分でもびっくりするぐらい、意外とすぐに切り替えられた。


「ここから詩夜葉のやりたいことは始まる。いよいよ人生の正念場を迎えることができる」

詩夜葉は実感した。もう充分苦労してきているから、後は輝いていくだけだ。


帰途、道端では名前も知れない小さな花が咲いていた。素朴な薄紫の花弁がやけに美しく感じられた。太陽の光を吸い込んだ青草と大地の匂いが互いを確かめるように交じりあう。噴水は水しぶきを輝かせて、高々と上がっていた。


川面に落ちた光の細かなきらめきや、岸辺で揺れる木々の緑といった、日常の何気ない光景が、まるで永遠のように眺められる。新幹線から外の景色を眺めると、何でもない田園の緑までがキラキラと輝いて詩夜葉を祝福しているようだった。夜になれば満月が幽かに微笑んでいた。


詩夜葉自身は光のトンネルをゆっくりとスキップしている気持ちだった。とめどなく、涙が出てきた。そして、その涙はものすごく気持ちのいいものであった。深々と空気を吸い込む度に新鮮な生気が血管を流れ、体中の細胞に広がる。これまで一度もちゃんと息を吸ったことがなかったような気がした。


その時の詩夜葉は何時にも増して穏やかで満足していた。そして誰よりも喜びに溢れていた。この時の気持ちは一生忘れない。この後、どんなに惨めな事態に直面しても、この時のことを思い出せば、胸のすくような気持ちになれた。


大阪に戻ってからは、それまで働いていた仕事を辞め、夢に向かって歩き出した。それまで会社のために働いていた身が、言い換えれば給料のために働いていた身が、自分のため、夢のために働ける充実感に心は弾んだ。


会社生活を振り返ると充実感よりも虚しさが大きい。「立つ鳥跡を濁さす」の諺通りと言えば聞こえがいいが、要するに何も残すものはなかった。組織の歯車という言葉があるが、詩夜葉は歯車でさえなかった。


歯車ならば一個でも欠ければ一時的にせよ機械全体が止まってしまう。しかし、詩夜葉はいてもいなくても会社は全く変わらなかった。絶対に詩夜葉でなければならないという仕事はなかった。別に他の人がしてもよかった。最初からいなかったとしても、会社は今と同じように存在している筈である。


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