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逆行して歌手を目指します  作者: 林田力
オーディション
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チャンス

毎週日曜日の夜にはテレビでオーディション番組を観ることが習慣だった。日曜日の夜になると、楽しかった休日も終わりで、明日から五日間また満員電車で通勤しなければならない。そう思うと、とても悲しくなった。嫌なことを考えたくないために、だらだらテレビを観ていた。オーディション番組は格好の慰めだった。


ある日、そのオーディション番組で新たな女性ヴォーカリストオーディションを開催するとの告知が発表された。そのオーディションは人気ロック歌手が審査員となり、福岡、大阪、東京、札幌の四大都市で開催される大規模なものだった。


当時の音楽シーンでは作曲能力のあるアーティストがプロデューサーとなり、楽曲を提供して歌手を売り込む手法が流行していた。プロデュースする側にとっては活動の幅を広げることになり、プロデュースされる側にとっては、某有名歌手がプロデュースしているということで、話題になりやすいというメリットがある。


この企画も、そのプロデューサーブームに乗ったもので、プロデュースする対象者の選定からプロデューサー自らオーディションで行うという点が特徴だった。審査員となるロック歌手もシンガーソングライターで、特にギターを器用に弾き、楽譜なしでも一度耳にした曲なら弾きこなす天才的な閃きで頭角を現した人物である。


詩夜葉は何気なくテレビを観ていたが、その告知を観た途端、ドキッとして、冷や汗が溢れ出した。頭の中で火花が散る。「あ、受けなきゃ、コレだ!」と直感的に思った。予感というよりも確信に近いものが詩夜葉の中をうねるように通過していき、体のうちに力が漲るのを感じた。肩にかかる茶髪をなでているうちに指先に静電気が走った。興奮のあまり全身から放電しているのかもしれない。


とうとう詩夜葉の出番が来た。これまで詩夜葉の人生はゆっくりと流れてきたが、急流に近づきつつあることを実感した。この衝撃は忘れられない。思いつきで行動することはないが、直観をないがしろにすることはできない。この第六感にも類する本能こそ、詩夜葉を救ってくれたものである。科学史に残る発見も実は直観で理論を生み出して、後のデータで実証を重ねたに過ぎないものも少なくない。


これまでも番組でオーディションの告知をしたことは何回もあった。しかし今回のような直感が働いたことはなかったし、年齢制限やCD持参という条件から諦めていた。CD持参とは応募者が歌う歌のカラオケが入ったCDを用意してくることを意味していた。オーディション会場でCDのカラオケに合わせて歌を披露するためのものである。


何でもないことだが、当時は別の意味に解釈していた。普通のオーディションでは、歌を吹き込んだカセットテープを送ることがある。そこから自分の歌の入ったCDを持参しなければならないと考え、デビューもしていないのに無理だと諦めていた。今回のオーディション告知には、そのCD持参という言葉がなかった。これはアカペラで歌うことを意味し、考えようによってはより大変になるが、誤解していた詩夜葉にとっては幸いだった。


詩夜葉はテレビに表示された電話番号を急いで書き写した。詳しいことは電話で聞こうと思った。このオーディションでは書類選考は一切なく、直接、会場に行って、その場で選考される仕組みであることを知った。大阪のオーディション会場が家から近いことも分かった。当時一人暮らしをしていたマンションから徒歩で二〇分ほどの距離にあった。


これまでも大阪で開催されるオーディションはあったが、一口に大阪と言っても広い。詩夜葉は大阪に住んで数年経つが、家と会社の往復が基本で土地勘は全くない。しかも方向音痴である。「大阪の某所」と言われても全くわからず、「面倒くさい」と思っていた。しかし今回は近所である。

「これはもしかしたら何か縁があるのかもしれへん」


占いを信じる詩夜葉はこの偶然も大事にする。会場が自宅から徒歩圏内にあるというだけで他の応募者に比べると有利である。実際、大阪会場の応募者には遥々中国地方から午前四時起床で来た人もいたらしい。長旅で疲れた人は、そうでない人に比べてハンデを負っていることは明白である。この点で詩夜葉はラッキーである。但し、運は早めにまとめて使い果たすこともある。だから楽観はできない。


「さあ、どうしよう。でも、これは最初で最後のチャンスだな」

行くも行かないも自分の意思だから、もう行くしかない。悩みに悩んだ末、応募することにした。今まで迷った分、もう迷いたくなかった。冷静に考えることだけは忘れなかったが、もう少しだけ夢を目指して本気であがこうと思った。後悔に足首をつかまれたまま生きるより、失敗に終わるとしても挑戦せずにはいられなかった。


元々、このために生まれてきたと信じている夢である。運命というものは多分、信じた人のものになる。詩夜葉の夢を知っている人は詩夜葉だけである。だから自分を信じてみよう。そして自分の幸せをつかみたい。失いかけていたものを取り戻そう。


詩夜葉は世間知らずかもしれない。世間を知っていれば、まだ会社勤めをしているか、結婚しているかのどちらかである。二十三歳でオーディションを受けたこと自体、人から見たら、これ以上なく奇異なことだろう。自分自身、よく不安と恥ずかしさで潰されなかったと感心するくらいである。ただ世の中、少しくらいは、詩夜葉のような人と違った物の考え方する人間がいてもいい。凹みそうになった時は、そう言って、自分を勇気付けている。


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