二次審査
二次審査の選考日が近づくにつれ、胸騒ぎのような恐怖感で悩まされ、仕事に集中できなかった。まったく自信が持てず、友達と行きつけの飲み屋で話し合う度に涙を流した。何か恐ろしい不運と恐怖が身に迫っているのではないかと不安で落ち着けなかった。色々と暗い想像を巡らし、心配の上に次々と不吉なことを積み重ねてしまった。しかも二十三歳で応募したが、誕生日を迎えて二十四になってしまった。
連日最高気温が二〇度を超え、汗ばむほどの晴天続きの中で二次審査を迎えた。太陽は朝から早くも、ぎらつく光を地上に投げつけてくる。今日も暑い夏の一日になりそうである。
行きの新幹線では、ぼんやり車窓の風景を眺めているか、寝ているか、弁当を食べるかしていた。弁当と飲み物は駅や車内で買うと高いので、予め買っておいたものを持ち込んだ。
弁当は味わうことができなかった。砂利を食べているような気分だった。弁当業者の名誉のために付言すると、弁当には問題はなかった。緊張感が詩夜葉の味覚をおかしくしていた。食欲はそれほどなかったが、喉は見捨てられたオアシスのように干上がっていた。こうなることを予想し、烏龍茶のペットボトルを複数本用意していたが、何杯飲んでも喉の渇きは満たされなかった。
本を持参したが、緊張から字を追うことが精一杯で頭には何も入らなかった。これからやろうとしていることに、勇気を振り絞ることで精一杯だった。
「折角、大阪から来たのだから悔いのないように歌いきる」
自分で自分に言い聞かせた。髪型も気合を入れた。普段はロングヘアを下ろしているものの、今日はアップにしてカワイイ感じにした。
この会場に来ている人は一時審査を突破できた者だけである。全国九九〇〇名の応募者から選抜された者達である。一時審査会場のような弾けた空気はどこにもなく、ピンと張りつめた熱気と緊張感だけが流れていた。緊張感が濃霧のように周囲を満たし、詩夜葉を窒息させようとする。詩夜葉はガチガチになっていることが人目にも分かるくらい固くなってしまった。顔は冷たくなり、体は痺れ、心は覚め、諦めが全身を浸していく。
高層階から直行で降りてきたエレベータが停止する寸前のような圧迫感、そして瞬間的にやってくる浮遊感が繰り返された。魂が体から抜け出て、浮き上がったり沈んだりする。自分では、もうずっと前に開き直っていると思っていたが、それは所詮、薄い皮膜程度の自己暗示でしかなかった。
「早く家に帰って寝たい」
ここが詩夜葉の夢の墓場になるのだろうか。はるばる上京して散るなら、夢も本望だろうか。違う。詩夜葉は急いで不吉な予感を打ち消した。
会場は満場の熱気で三度は温度を上げているように感じられた。詩夜葉が登場した瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。洞窟の静けさ、さもなければ森か墓地の静けさが周りを包む。周囲の空気が凍りつき、詩夜葉自身も凍りついた。大勢の目が自分に注がれる。この中には審査員の視線も混ざっている筈である。
無数の視線が見えざる矢となって詩夜葉に突き刺さる。観客の眼差しがまるで稲妻の如く心の底まで突き通る気がした。解剖前に拡大鏡で観察されているような気分だった。観客は既に多くの応募者の顔を見てきただろう。しかし今の詩夜葉の顔ほど青ざめた顔は初めてに違いない。
夢にまで見たステージなのに、第一印象は恐怖であった。背中をゾクゾクと虫が這っていくような感覚に襲われ、鳥肌が立った。腕を見ると刺のような粟粒がびっしりと浮かんでいた。数百、数千の恐怖の粒子が皮膚を引きつらせていた。
会場全体が丸ごと自分を責めているように感じられた。感情の波が雪崩のように押し寄せ、総がかりで詩夜葉を押し潰そうとしている。毛細血管にコンクリートが流れ込み、全身を石化させてしまったように微動すらできなかった。ステージが今にも足元から崩れ落ちそうで、立っているだけでも大変だった。このままでは砂嵐に翻弄される砂の一粒のように、自分を見失ってしまう。
考え抜いてきたはずの台詞は、地面に飛び散った水しぶきのように、いつの間にか四散してしまっていた。別に歌う前に台詞を言う必要はないが、少しでも他者との違いをアピールするために粋な台詞をあれこれ考えていた。しかし、その準備も本番の緊張の前では徒労に終わりそうである。
「観客に媚びることはよそう」
心の中で言い聞かせた。観客を魅了させ、心酔させてこそスターであり、アイドルである。慣れない台詞で点数稼ぎするのではなく、純粋に歌で勝負しよう。時間はかかったが、呼吸と鼓動を整えた。心臓と肺の機能が次第に秩序を回復してくる。
手のひらは汗でびっしょりしていた。滑らせて落とすことのないよう、マイクを強く握った。体が震えそうになる度に一層強く握り締めた。
この日のために選んだ歌は、自分がよくカラオケで歌っていた曲、ホンワカさせて癒してくれる曲である。今日まで何度も繰り返し、歌ってきた。歌い始めると、何故か心が落ち着いた。
自分の歌声が心の古い場所に食い込んできて、たくさんの思いの下に埋まっている場所に浸透していく。それに伴い、体内を何かが通過していく奇妙な感覚が全身に広がっていった。今まで一度も味わったことのない、これからも忘れられそうにない感覚だった。
それは神経に巣食う蜘蛛の巣を払い、もつれた回路を爽やかな風のように吹き抜けていく。それによって筋肉がこれまでにないほど、寛いでいった。詩夜葉は体で歌っていた。流れを作り、流れに乗り、流れを感じる。
余裕を取り戻しつつあるだけでなく、スポットライトを浴びることで体中に光の波が打ち寄せ、自分も光り輝き、生気が溢れ出した。詩夜葉の光を反射して世界も輝いた。神々も天国も何もない、純粋で清潔な白い光の世界を感じることができた。ここ以外に詩夜葉の居場所はない。このまま詩夜葉の歌が永遠に続けばいいのに。身も心も光の渦の中に投げ出した詩夜葉は陶然としてその幸福に酔っていた。観客の歓声が暖かく快適な抱擁のように詩夜葉を包み込んだ。
「十八歳だったら即買いなのに」
審査員の評価である。審査員の言い方にも雰囲気にも特別なものが感じられた。年齢の話が出されたことは面白くなかったが、詩夜葉は無言を保った。
しかし詩夜葉の燃えるような目と思案に沈む態度は無言以上のものを審査員に伝えていた。邪魔者があればそれを持ち上げ、引きちぎり、遠くへ放り出す梃子を思わせるような鋭い目つきであった。全身の力を振り絞って止めの一撃を加えようとする闘士さながらであった。たとえ詩夜葉が目を伏せていても、その顔からは誰にも譲らぬ堅い決意の熱い炎を読み取ることは可能だった。
そして詩夜葉は最終候補者十一名に名を連ねることができた。一万人近くの応募者がたった十一人に絞られた。詩夜葉はここまでやってきた。十一人の中では二十四才の詩夜葉が突出して最年長である。次の年長者は東京会場で応募した二十一歳のフリーターだった。