表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
逆行して歌手を目指します  作者: 林田力
オーディション
17/62

一次審査

遂に一六六一番が呼ばれた。もっと待たされたら糸がプツンと切れて、大変な状態になっていたかもしれない。詩夜葉の番だ。詩夜葉は立ち上がった。背中と太腿の筋肉がきつく束ねた鋼線のように張りつめている。恐らく今までの人生の中で最も重要な出来事が扉の先で待っている。ドアノブに手をかけると、何やら得体の知れない恐怖に襟首を撫で回され、あわてて引っ込めてしまった。


思い直し、勇気を振り絞って、再度ドアノブに手をかけ、扉を開ける。部屋に入ると三人の審査員が座っていた。一次審査の段階では審査員はロック歌手ではなく、テレビ局とプロダクションのスタッフが担当することになっていた。詩夜葉は生まれて初めて空気を吸うように、深々と息をついた。


「一六六一番です。よろしくお願いします」

言葉が錆びた釘の如く喉につかえた。しかしその声は力強く、審査員達を驚かせたようだった。


詩夜葉は一礼して歌い始めた。審査員とは三対一で向き合う形である。審査員の視線は当然、詩夜葉に注がれる。詩夜葉も審査員を見て歌わなければ不自然である。詩夜葉の緊張は嫌がおうにも高まった。審査員と目が合うとゴクリと喉が鳴った。中央にいた審査員は、剣道の師範が腕の立つ相手に構えの姿勢を取れ、と促すような態度で挑発的な一瞥を投げてきた。


ああ、今こそ自分を発揮しなければならない。神経はギリギリまで研ぎ澄まされ、耳の中で血管がドクドクと大きな音を立て始めた。他の応募者のヒソヒソ話や足音が何倍にも聞こえる。内心の緊張を審査員に見咎められないか、心配だった。自分の心音が外に漏れていないか、そんな心配までしていた。実際、詩夜葉が響きのよい美声の持ち主でなかったら、心臓の鼓動が審査員の耳に入ってしまったに違いない。


審査が終わった時は、ホッとしてへたり込みそうになった。額には汗が噴き出していた。今の今まで内臓が蛇のようにのたうっていたのに、急に腹の中が空っぽになった気がした。心臓が冷たくなり、膝から力が抜けていった。そのまま床に座りこみそうになったが、ひたすら見栄から会場を出るまでは颯爽と歩いた。


何とか家までたどり着くと、みるみる力が失せていった。台座の上で突風を受けた彫像のように、グラっとよろめき、ベッドに倒れこんだ。何日も休まずに走り続けたように体の芯まで疲れていた。そのまま心地よい眠りの神の沼地に沈み込んでしまった。


再び目が覚めた時には窓から日光が注ぎ込んでいた。ここ数週間で初めてとてもよく休めた気がした。伸びをすると体の節々が痛んだが、これは心豊かな活動がもたらした嬉しい痛みだ。一次審査は終わったが、まだ気を抜くところではない。結果発表がある。


発表はテレビでなされた。現地の審査員で応募者を絞り、ロック歌手がその中から次の段階に進める人を選ぶ仕組みである。ロック歌手の話によると、大阪会場はケバイだけの人が多く、歌の評価はイマイチだったという。その中で詩夜葉は歌唱力を認められ、東京でのスタジオ選考に進むことができた。多少声量が細くて普通のカラオケのように聴こえてしまうことが難点だが、ボイストレーニングで克服できると言っていた。大阪会場から次の審査に進めることができたのは詩夜葉と三重県から来た女子高生だけだった。


次の審査は東京で行われる。全国の会場から選抜された応募者がスタジオに集められ、観客の前で順番に歌っていく。そしてその模様がテレビで放送される。オーディションで歌うだけでも緊張するが、観客やテレビカメラの前で歌わなければならないとなると筆舌を尽くしがたい。


「ああ、遂に詩夜葉にもテレビで見ていた状況が起こる。ヤバいなぁ」

これは現実の出来事ではないかもしれない。眩暈にも似た感覚だった。


オーディションのスタッフからは「東京ではテレビに映るので、一番いい格好で来てください」との連絡を受けた。その頃の詩夜葉がテレビに出るため用の服を持っているわけがなかった。「これくらいしかないなぁ…」と黒のタンクトップとミニスカートを着た。それは美しい体の線を隠すよりもむしろ強調するものであった。どうということのない格好がつまらなくもあり、安心するところもあった。


小さい頃から、歌手になりたいと強く思っていたが、その夢をこれまで誰にも一切言ったことがなかった。オーディションも自分の中では悩んだが、誰にも相談はしなかった。東京での選考が決まった頃に初めて家族や友人に話したので、皆、驚いていた。


母は詩夜葉を温かく抱擁してくれた。何も言わなかったが、愛情のこもった母の眼差しが雄弁に気持ちを語っていた。母の顔にはたくさんの皺があった。しかし、それは笑いと優しさと思いやりの皺ばかりだった。


妹には「すごいね。詩夜葉にはとてもできない」と言われた。子どもの頃から、ずっと言わないで大切にしてきた夢だったから、とことんやろうと決意を新たにした。


オーディションへの応募は会社の人にも黙っていた。仕事をしながらこういうことをやっている自分自身がいいのか悪いのか判断ができなかったところがあった。どうせ勝ち抜けないとも思っていた。テレビで結果発表されても、「観ている人はいないだろう」と高を括っていた。


しかし翌日、「あなた昨日テレビに出ていたね」と言われてしまった。「言わないでください、内緒にしておいてください」と答えたが、その日のうちに全社に話が広まってしまった。後輩の子達も「どうするんですか、これから?」と心配してくれた。社長からもエレベータとかで会うと、詩夜葉は「ああ!社長だ」と気まずいなと思っていたら、「何か今大変みたいだね。応援しているから頑張りなさい」と声をかけてくれた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ