男子高校生の前髪
詩夜葉はバスターミナルの向い側のバス乗り場に行った。公衆トイレは駅ビルの一階にあり、向い側のバス乗り場に面していた。
「ここのトイレの清掃は、バス会社かな、駅ビルの管理会社かな」
歩きながら詩夜葉は、どうでもいいことを考えていた。男子高校生の顔を見ることも、どうでもいいことであった。結局のところ、人生とは、ある意味どうでもいいことの積み重ねであり、その中で少しでも面白そうなことを拾わなければならない。
向い側のバス乗り場に着いた詩夜葉は、そこにあるベンチに座った。しかし男子高校生は、よく見えない。身長は高い。一八〇センチメートルくらいではないか。詩夜葉は改めてトイレに入ることにした。鏡に映った男子高校生を見ようと思ったのだ。一旦、女子トイレに入る。女子トイレから出る時、かなりじっくり男子高校生を見つめることができた。
「彼を鏡の前にフリーズさせているポイントって?」
男子高校生は、男前とは言えなかったが、醜男ということもない。野球選手の松阪大輔をさらに少しつり目にした顔立ちで、少しニキビがあった。体格は痩せ気味で脚は長い。制服は少し崩して着ており、柄物のTシャツが下に見えた。足元の学生カバンにはステッカーが貼られていた。
まさに中身次第であった。彼のキャラクターが良ければ彼がモテることにも納得できた。詩夜葉は意外感を覚えた。あまりに常軌を逸した長時間、男子高校生が鏡の前で同じ姿勢でいるために、詩夜葉は彼に対して変人という先入観を抱いていた。
「そんなもんかしら?」
大河ドラマ主演経験もある女優が撮影前に二時間メイクするというエピソードは聞いたことはある。しかし、男子高校生が公衆トイレの鏡の前に一時間弱いることは普通なのだろうか。近くで見た男子高校生のノーマルな印象が余計にチグハグ感をもたらした。
何もしないで、ただ鏡を見つめている方が納得できた。その方が変かも知れないが、何かよほど深刻な決断を迫られて、鏡の中の自分を見つめて考え込んでいるように見える。
「ずっと前髪ばかり、同じ姿勢で触っている」
詩夜葉も髪をセットして、どうしても気に入らず、洗髪してセットし直し、化粧を落として洗顔してやり直したことはある。しかし、それは気合いを入れてドレスアップする必要がある場合だった。
「この子、今からデートかな?」
土曜日の昼に制服の高校生というのは、下校途中なのだろうか。これから部活だろうか。デートなら何故帰宅して詩夜葉服に着替えないのだろう?
「デートではないにしろ、これから好きな女の子に逢う可能性が高い状況だろうな」
詩夜葉は大学病院行きのバス乗り場に戻ることにした。男子高校生のことは謎のままだったが、気は済んだ。男子高校生への好奇心も急速に薄れていった。ちょうど大学病院行きのバスがターミナルに入って来た。さっき見送ったバスが出てから、あまり時間が経っていないが、二時の面会開始時間に向けて本数が増えるのだろう。
ターミナルをぐるりと回って、詩夜葉が乗り場に着くと、ちょうどバスも乗り場に横づけになった。数人の乗客が降りると、詩夜葉は一番乗りでバスに乗った。窓際の座席に座って、ふっ。と見ると、男子高校生の姿が消えていた。
詩夜葉は思わず公衆トイレ前からバスターミナル全体、視界の届く限りを見渡したが男子高校生の姿はなかった。
「トイレの中に、用を足しに入ったのかな?」
そのように一瞬思ったが、何故か違う気がした。彼は目的地に向かって出発したのだろう。彼がトイレから出る瞬間を見なかったせいで、少し不思議な感じがした。まさに消えたみたいな感じであった。バスがエンジンをかけ、扉を閉めた。
バスが動き始めた時、詩夜葉は再度、公衆トイレの方を見た。公衆トイレの入口のあたりが白っぽく光っているように見えた。灼熱のリビドーの残像が、白い光で残っているようであった。
詩夜葉は一時間も公衆トイレの鏡の前で、一心に前髪を触っていた男子高校生に、コンビニでエロ雑誌を立ち読みしている男子高校生以上に、はるかに焼けつく様なリビドーを見た気がした。
「あの男子高校生が幸せになれればいいなぁ」
詩夜葉は何故か彼の幸せを祈りたい気分だった。特に彼が心から好きになった女の子と相思相愛になれればいい。相手の女の子が優しい性格で、彼のコトを心から大切にしてあげればいい。そして彼が年老いて死ぬ時には、愛する人に見守られ、苦しい思いをせずに幸せな一生だったと、安らかな臨終を迎えられたらいい。
叔父の見舞いに行くというのに、あれこれ気が散っていた詩夜葉は人類愛に胸がいっぱいになってバスの座席でうなだれていた。