見舞い
詩夜葉は大学病院に入院している叔父の見舞いに出かけた。叔父は昨今の高齢化社会では、お爺さんという年ではなかった。それでも大学付属病院に再入院していた。その見舞いに行くことにした。
大学病院はターミナル駅からバスに乗っていく。駅に着いたが、見舞いには早い時間だったため、駅ビルの商店街に入った。朝食が遅かったから、空腹感はなかった。いつものように、本屋を探した。適当に「ミステリの金字塔」という帯広告の文庫本を買ってファーストフード店に入った。詩夜葉は喫茶店よりもファーストフード店を好む。喫茶店は落ち着かない。一時間ほど推理小説を読んでいると、かなり面白い。
「ヤバイな」
読書が止まらなくなる危険があったために詩夜葉は一旦切り上げて店を出て、バス乗り場に向かった。その前に公衆トイレに行くことにした。公衆トイレでは間違って男性側に入りそうになった。公衆トイレは入口が一つで左右に別れていた。つい詩夜葉は進行方向に真っ直ぐ進みそうになった。
しかし、男性トイレのすぐ入り口の鏡の前に、学ランを着た男子高校生が立っていたため、すぐ間違いに気付いた。鏡の前の男子高校生は両手の指先で前髪を整えるのに夢中であった。そのため、詩夜葉が間違えて入りそうになったことには全く気づかなかったようだった。
女性トイレに無事入り直し、詩夜葉はバス乗り場に着いた。バスが来るまで、結構な待ち時間があった。既に外来患者の受付時間は終わっており、入院患者の面会時間には早いためである。乗り場のベンチは誰もいない。簡易な屋根が日陰をつくっていた。詩夜葉は推理小説の続きを読もうと、ベンチに座った。
真正面の向かいに先ほど入ったトイレが見える。男子高校生が入口の鏡の前に立っていることも遠めに見えた。しばらく、わたしは本に集中していた。厳密に言えば本に集中し、ストーリーの世界に入りかけた。しかし、何か、ひっかかる。気になる。
「何だろう?」
その時、バスが到着したが、詩夜葉は一台乗り過ごすことにした。小説が異様に面白い展開に差しかかっていた。詩夜葉はバスでは本は読めない。車酔いするためである。初めて乗る路線であるし、時間はまだまだある。次のバスに乗ればいいと考えた。
バスは結構長い間、お客の乗車を待っていた。時間を見計らって乗り場に来たらしい少しの乗客を乗せると、定時が来たらしくバスは発車した。ベンチに座って本を読む詩夜葉の目の前からバスは去った。
「んっ?」
その時だ。詩夜葉は先ほど気になった違和感の正体が分かった。例の公衆トイレの男性側入口の鏡の前に、まだ高校生が立っていた。
「あの子。いつまで鏡を見ているのかしら?」
詩夜葉がトイレに入る前からだから、かなりな時間になる。しかし、時間感覚に関しては詩夜葉も自信がない。それでも、それにしても引っ掛かることは、彼の仕草である。先ほど間違えかけた時と違い、このベンチからは距離がある。それでも彼が相変わらず、両手の指先で前髪を触っていることは分かる。
「ずーっと前髪だけいじくっているのかしら」
鏡の前に何時間いようが人の勝手である。まして、混んでいるわけでもない公衆トイレの鏡の前だ。何時間でも好きにすればいい。それにしても、離れていても男子高校生の一心不乱さ、オーラのようなものが感じられた。少し前屈みになって、指先以外は微動すらしていなかった。
「前髪に賭けているんだねっ、君は」
詩夜葉は推理小説に目を戻した。それにしても、男子高校生の前髪とのバトルは長かった。小説の中の犯人は、二人目の殺人を犯して死体遺棄に取り掛かろうとしていたが、鏡の前の男子高校生は、まだ前髪を触っていた。詩夜葉は急に彼の顔を間近に見たくなった。しかし、バスが既に来ていた。詩夜葉は今回もバスを見送った。叔父夫婦には「お見舞いに行く」とは言っていない。もう何回も見舞いに行っている。好奇心を優先させたとしても問題はない。