メダカ
詩夜葉はメダカを一匹飼ったことがある。そのメダカには「瑠璃」という名前をつけた。よく水槽に話しかけていた。ある日、メダカを入れていた小さな水槽を外で洗うことにした。水槽を洗う間、メダカをビンに移していた。水槽を洗い終わり、水を半分ほど入れ、メダカを戻そうとした。その時、水の勢いが良過ぎて、メダカが水槽から外に飛び出してしまった。
「ぎゃあぁぁ」
メダカはホースからジャージャー流れる水にさらわれて流されてしまった。詩夜葉は慌ててメダカを追いかけ、家の前の道路に飛び出した。道路の側溝は乾いていたが、ホースの水路に乗せられてメダカは流れてしまう。詩夜葉は焦った。全力疾走でメダカを追い越し、流れを止めようと、とりあえず溝に飛び込むように流れをサンダルで踏む。
「踏んだあああああ」
一瞬思ったが、危なかった。メダカを踏み潰すところであった。際どいところで、メダカはサンダルの下をスルーした。そのまま詩夜葉はメダカを追い越そうと溝の中を大股で走った。夢中で走りながら「神様、神様」と、何の神様だか分からない神様に心の中で祈った。「お母さんを大事にします」と意味不明な懺悔もした。
懺悔の甲斐があったのか、一度は乾いた砂が積もったところでメダカは止まった。詩夜葉はヘッドスライディングとばかりに飛びついた。しかし、一瞬早く、メダカは砂を迂回する流れに持って行かれてしまった。もう、路地が交差する角が迫っていた。
「助けてえええええ!瑠璃ちゃぁぁぁんん!!」
神様がお留守だったのか、睡眠中だったのか、とうとうメダカは路地の交差点に到達し、溝の曲がり角の排水溝に落ちてしまった。
「うわああぁぁん」
詩夜葉は排水溝にかぶせられた頑丈な暗渠の鉄柵の上にしゃがみこんでいた。覗き込むと、排水溝は物凄く深い。それだけに暗渠の周りもコンクリートで塗り固められていた。底は、子供の詩夜葉の目には、五メートルも下に感じられた。暗くて何も見えない。
「ん?……」
遠くに何か、銀色がチラとみえた気がした。排水溝の底の暗さを睨みつけていると、やはり遠くに銀色がチラと見える。詩夜葉は鉄柵に顔を押しつけて心の中で祈った。
「瑠璃ちゃん。お願い、お願い」
メダカは排水溝に流れ落ちたが、まだ底にいた。下水が少なくて土管より底の水位が低いのか、水の流れのせいなのかは分からなかった。アスファルトにコンクリートで塗り固められた鉄柵が、詩夜葉の力ではビクともしないことは見るだけで分かった。
仕方なく詩夜葉は戻ってホースの水を止めた。詩夜葉は母親に「瑠璃ちゃんがあぁ!お母さん、排水溝に、瑠璃ちゃんが」と言うことはなかった。誰にも話さなかった。
学校の行き帰りに排水溝を覗かずにはいられなかった。それ以外にも毎日毎日、何回も何回も、排水溝を覗きに行った。家にいると気になって仕方がなかった。餌をまきに行った時、下水が洗剤の泡で濁っていて心配で泣いたこともあった。
「誰か!台風が来る前に、瑠璃を助けてください」
幸いなことに水槽を洗った日からずっと晴れた日が続いていた。排水溝は水かさが増えることなく、水の流れのせいなのか、瑠璃が土管に吸い込まれることもなかった。しかし、とうとう台風が来た。超大型台風十三号が東中国海から上陸して、日本列島をアンコウの吊し切りみたいにぶったぎるというニュースが流れた。
「来んな!台風!!東中国海てドコ?!ドコか知らんけど、こっち来んな!」
詩夜葉はモーレツに腹が立っていた。
「警報出たら全校早退やでぇ~」
学校では朝から小学生達が妙にはしゃいでいた。いつもならば詩夜葉も同調しているところである。子どもには変に暴風雨に興奮する心がある。日常を破壊する非日常への憧れである。もっと単純な話かもしれない。犬がサイレン音を聞くと、むしょうに吠えたてるようなものかもしれない。
傘を差す意味がないような横殴りの雨風の時など、皆でワァワァキャアキャア騒ぎながら帰ったものである。大声で意味不明の奇声を上げながら水たまりにジャンプインする男子。飛び込んだ当人は長靴を履いているため大して汚れないが、近くを歩いていてスカートに泥水をひっかけられた女子はたまらなかった。わざとだったのだろうが。
その日は下校時刻になっても、まだ雨さえ降っていなかった。小学生によっては残念なことに、早退ということもなかった。台風十三号は鈍いスピードで日本列島にのしかかるようなヘビーな台風だった。帰り道は生暖かい風が強く吹き始めていたけど、空は青かった。嵐の前の静けさだった。
詩夜葉はいつも一緒に下校している友達とも別れて一人で家に向かっていた。彼女の家は詩夜葉の家より百メートルくらい手前だった。瑠璃が居る排水溝よりもずっと手前。だから彼女も詩夜葉が毎日排水溝を覗いていることは知らなかった。瑠璃の災難も話してなかった。隠すような話ではないが、何故か瑠璃のことは誰にも話さなかった。
「何故かなぁ?自分でも不思議だ」
コンクリートで塗り固められた深い排水溝は、大人の協力があっても瑠璃を救い出せるとは思えなかった。今は瑠璃と詩夜葉に台風が容赦なく迫っていたことしか思い出せない。