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逆行して歌手を目指します  作者: 林田力
オーディション
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逆行

桐田詩夜葉には心残りがある。オーディションに挑戦して歌手を目指さなかったことである。詩夜葉は子どものころから歌手になりたかった。


会社ではソツなく仕事をしてきたつもりである。子どもの頃に算盤を習っており、計算は得意だった。高校で習った簿記も活かせた。同僚や上司にも恵まれた方だと思う。お世辞や営業スマイルも仕事として割り切る分には、我慢できた。


それでも歌手になりたいという気持ちは強く持ち続けており、夢を捨てきれない詩夜葉を満足させるものではなかった。しかも次第に単調な毎日に疑問を覚えるようになった。毎朝同じ時間に起きて会社に行き、何時に終わってという繰り返しの毎日で、メリハリのない生活であった。学生時代は時間割があり、曜日によって授業科目が異なったが、会社では同じ毎日の繰り返しで、曜日感覚さえ薄れていきそうだった。無限に続くかと思われる繰り返しが精神から弾性を奪っていった。


タイムカードを押して、先輩や上司には本音を隠してやり過ごす。給料が貰える分、学校よりは良かったが、勤務時間が終わるのをひたすら念じ、一人の部屋に帰ると猛烈な悲しみの感情にとらわれた。冷たい夜気が氷のように心に突き刺さる。ベッドの中で声を殺して泣いた。途端、時が止まったように辺りが静かになった。現実の虚しさからは一向に開放されなかった。


自分の実像と虚像の間で苦しんでいた。密かに自分に相応しいと思っていた賞賛や注目とは無縁の日々であった。現在の自分は本当の姿ではなく、頭の中に描いた理想的な詩夜葉が本当の自分と思い込むこともあった。詩夜葉には社会主義国の五カ年計画も子供だましに思えるくらい、しっかりとした見通しが存在していた。しかし、いざ実行となるとさっぱりだった。自分でもがっかりするくらい弱気になってしまう。空想ばかり追いかけて、頬がこけ、頭もだめになっていくようだった。


ある日、詩夜葉は白い光に包まれて、気付くと真っ白な空間にいた。頭になかで声が響く。

「あなたは人生を逆行して、やり直してもらいます」


就職して五年が経とうとしていた。二十三歳になっていた。夢を監獄に閉じ込め、現実の辛さを人並みに愚痴る大人になっていた。忙しさに身を任せると、考えることも難しくなる。日常の煩わしさや、スケジュール、人間関係、疲労感から、夢のことを考えるだけで切なくなった。夢を諦めようと思ったこともある。誰にでも境界はあり、それが夢を邪魔するのだろうか。思い込みが詩夜葉を苦しめているのだろうか。このままでは体も心も腐っていくばかりのように思えた。


神の雨には終わりはない。詩夜葉は衰弱が死につながることを知っている。詩夜葉は世界を水溜りにした。神の雨には終わりがないが、洪水は起こらない。詩夜葉は時が経つにつれ、衰弱していき、虚無を飲み込む。夏至の日はチラチラ光る。冬の旱魃と不幸な空気の囁きに苦しむ。


詩夜葉の人生は、このまま終わっていくのか。中学高校の頃から、こんなものかなあと思って生きてきた。夢は砂漠の石碑さながら、摩滅していくものなのだろうか。それとも必死に目を凝らし、一生懸命探さなければ、拝むことのできない遥か彼方の星に過ぎないのだろうか。希望とも呼べない、儚い願いなのだろうか。


それでも心の奥には、絶対何かやるという気持ちが淡い期待とともに人一倍存在していた。詩夜葉の中には未だ使ったことのないエネルギーと活かしたことのない才能、試されたことのない力が眠っていると信じていた。足りないものは自分を見つけるためのチャンスだけであった。それは児戯に等しい無邪気すぎる自負だったかもしれない。しかし見苦しくて、そして悲しいくらい純粋な祈りに近かったことも事実である。


やがては結婚して、主婦になるのだろうか。それはそれで幸せかもしれない。この思いが浮かんだ途端、眉間を一撃されたようなショックを受けた。違う、それでは終われない。そんなことを考えちゃダメ。詩夜葉は心の中でパンチを繰り出した。


詩夜葉にとって結婚は逃げでしかない。超越や悟ったふりで誤魔化したくなかった。それは悟りではなく、失望から生まれた狭い正しさの中に収まる愚劣さに過ぎない。そう思った時、久しぶりに胸のときめきを感じることができた。体の深奥では消えかけた火が再び燃え上がり始めた。


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