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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

明日になれば、あなたはいない

作者: 真木もぐ

 カランカランと扉のカウベルが鳴り、「いらっしゃい」の優しい声とコーヒーの香りに迎えられる。


 店内の隅に置かれたストーブのおかげで、寒さに硬くなった体がほぐれていく。


「雪はどうです?」

「もう止むだろ。予報では夜には晴れる」


 コーヒーの準備を始めるバリスタに軽く手を上げて、ジェイクは店の奥へ進んだ。

 奥とは言っても、二人で営むカフェはこぢんまりとしていて、さほど歩かなくても壁に行き当たるほどだ。


 ジェイクはカウンター席の奥から三つ目の椅子にバッグを置くと、二つ目の椅子を引いて、一番奥に座っている先客に声をかけた。


「隣、いい?」

「……はぁ」


 戸惑いと不審が入り混じった瞳が、眼鏡の奥からジェイクを見返す。


 店内に他の客はおらず、席にも余裕があるのになぜ隣に、と言う疑問が駄々漏れだ。できれば別の席へ行ってほしそうな表情は、このひと月で見慣れたものである。


 助けを求める視線を受けて、バリスタが二人の所へやって来た。

 そして、ジェイクの前に水のグラスを出してから先客の青年──リードに向き直る。


「リード、こっちはジェイク。首都から仕事で来てて、何度か寄ってくれるんだ」

「ハジメマシテー」

「どうも……」


 言葉にしなくともジェイクを胡散臭く思っている態度も、ずっと同じ。

 ジェイクはもうひと月、リードに「初めまして」を言い続けている。




◇◇◇




 このカフェに入ったのは偶然だった。


 星空を撮るために撮影機材を抱え、ヨーロッパにある小さな王国シルヴァーナの北端、カーシェと言う町までやって来た日のこと。

 シーズンオフで安く借りたコテージに運び込んだ荷物を片付けるのに半日かかり、四時を回ってようやく遅すぎる食事と周辺散策を兼ねて部屋を出た。


 肩にかけているのは、ゴツい望遠カメラではなく、ちょっと背伸びした学生が持つくらいのデジカメ。

 本気で構える訳ではなく、興味をひかれるものがあれば軽く撮りたいだけなので、これで十分。とかカッコイイことを思ってみたりするが、ジェイクはまだまだ駆け出しのフォトグラファーだった。


「寒っ! やべぇな。もう二月も終わりだぞ」


 ダウンのポケットに両手を突っ込んで、衰えを知らない積雪に白い息を吐く。


 そんな雪の間に、イーゼルに立てられた看板を見つけた。

 それがなければ、気付かず素通りしていただろう、小さなカフェ。

 屋号と思しき『ミミズクの巣』の文字と、隅っこに描かれたへたくそなイラストが気に入って、ジェイクはその店の扉を押した。


「どうぞ」


 カウンターにコーヒーを出した若いバリスタは、話好きな気配を察したのか、ジェイクに声をかけてきた。


「お客さん、この辺りでは見ない顔ですね」

「分かるもん? こっちに着いたばっか」

「へぇ、仕事ですか?」


 落ち着いた笑顔とコーヒーの味に、こっちにいる間は常連になるなと確信する。


「半分仕事で半分趣味。星を撮りに来たんだ」

「星?」


 ジェイクはいつも持ち歩いている名刺をカウンターに滑らせた。


「……ナショナル・ジオグラフィック・フォトグラファー……ナショナル・ジオグラフィック?」


 眉を寄せて読んでいたバリスタが、その肩書に名刺を二度見する。

 まさにこの反応を狙って、半年前に契約したばかりの協会の名前を借りているジェイクとしては、予想通りのリアクションに内心ガッツポーズ。


「まだ数枚しか載せてもらってないから、半分ハッタリだけど」

「十分すごいですよ。どんな写真を?」

「風景と動物を八・二くらい」


 見たいなら次来る時に持って来ると言えば、楽しみにしてます、と笑みが返って来た。

 やはり居心地がいいカフェだ。


「お待たせしました! フレンチトーストでーす」

「………」

「………」


 ずいぶん雰囲気の違う店員の登場に、ジェイクは啜っていたコーヒーを噴きかける。

 ジェイクの前に置かれた蜂蜜たっぷりのフレンチトーストを見て、バリスタがため息をついた。


「注文はクラブサンドでしたよね。どうしてフレンチトーストが出てくるんですか」

「そう言う気分だったからよ」

「ぶふっ!」


 今度こそ噴き出す。

 ますますこの店が気に入った。


 クラブサンドを注文されてフレンチトーストを出してきた女性は、それでもこの店のオーナーだった。


 明るいオーナーとクールなバリスタはいいコンビで、パニーニを食べ終わる頃には、「自炊しないなら、うちに食べに来なさいよ」とまで言うほどジェイクと意気投合した。


「じゃあ、そろそろ……」


 あっと言う間に三時を指す腕の時計に、ジェイクは腰を上げた。天気がいいきょうのうちに、撮影スポットを見つけておくつもりだった。


 ジェイクがデニムのポケットを探っていると、その横から細い手が延びた。

 きれいな指先が、カウンターに硬貨を置く。


「ハーイ、リード。新作ケーキは旨美味しかった?」

「はい。ごちそうさまでした」


 驚いたことに、この狭い店内でジェイクはその手の持ち主を全く意識していなかった。

 リードと呼ばれた彼を、ジェイクは指先からゆっくりと辿る。

 バリスタとは、また違うタイプの端麗な顔がそこにあった。


「また明日」

「明日は仕事があるので、来られませんよ」

「夕方にでも来いよ」

「じゃあ、時間があれば」


 彼らがそんな会話をする間、ジェイクはただその顔に釘付けだった。

 ようやく我に返ったのは、リードがジェイクの後ろを通って扉に手をかけた時である。

 慌てて立ち上がり、その手を掴んだ。

 フレームレスの眼鏡の奥で、驚きに目が大きく見開かれる。


「あの……?」

「眼鏡君、名前教えて!」

「嫌です」




◇◇◇



 ──と言うのが、彼らとの出会いである。


 初めて『ミミズクの巣』で出逢い、ドン引きされた翌日。

 その日も店でケーキを食べていたリードは、しかしリベンジしようと話しかけたジェイクのことを、全く覚えていなかった。


 隣に座って「よう、昨日ぶり」と片手を上げるジェイクに、「人違いでは?」と答えた彼の表情には、はっきりとした困惑と少しの恐れが浮かんでいた。


 怒っているだとか、嫌がらせとか言うのとは違う次元の反応に戸惑うジェイクに、そっと事情を教えてくれたのはバリスタの彼だ。


「リードはね、新しいことが覚えられないんですよ」


 作り付けの棚にコーヒーカップを並べながら、彼は静かにそう言った。


 リードと言う綺麗な青年は数年前、ひどい交通事故に遭った。一年近く意識不明で、目を覚ましたのは奇跡だと医者も家族も喜んだが、傷ついた脳は記憶を更新することができなくなっていたらしい。


 誰と会い何を話し、どこへ行ったか。

 それを彼は、一日で全て忘れてしまう。

 事故に遭う前の記憶は鮮明なので、それ以前の友人であるバリスタやオーナーのことは分かるが、ジェイクの場合は何度会っても覚えられないのだ。

 だからジェイクは毎日、リードに「初めまして」を言い続ける。


「これ、前に言ってたやつ」

「ありがとうございます」


 バッグから薄い簡易アルバムを取り出すと、サロンで手を拭きながらバリスタがカウンターから出て来る。


「綺麗ですね」

「それはスペイン」


 リードがいるのはランチもティータイムも終わったくらいの時間なので、他の客がいることは少ない。休憩も兼ねて、ジェイクが過去に撮った写真を見るのが日課になっていた。

 と言うのは建前で、実はリードとの仲立ちを頼んでいる。


 警戒心の強いリードは、初対面のジェイクとあまり話そうとしない。

 最初の数日でそれを学んだジェイクは、彼から信頼されているバリスタに間に入ってもらうことにした。


「リード、見てみなよ。ジェイクが撮ったんだって」


 バリスタに誘われて、リードがこちらを向いた。それでようやく、きょうの彼との関係が成立する。


「……仕事って、写真ですか?」

「そう。一応、フォトグラファー。あっちこっちで写真撮ってる」


 こう言うやつ、とアルバムを示すと、リードはケーキの皿を避けてそれを覗き込んできた。

 同じようなことを尋ねられたり話したりはするけれど、言葉や態度が少しずつ違っておもしろいと思う。

 初めの数日はバリスタが誘ってもつれない態度だったのに比べれば、この数日は積極的と言えた。


「星、好き?」

「……嫌いではないです」


 言葉を選ぶような答えが返ってきて、バリスタが笑う。

 ちょっとひねくれているらしいリードの答えは、いつもこんな感じだった。

 口数は多くないし、表情もくるくる変わる方ではない。けれど、何も考えていない訳ではないことは、ジェイクの写真を熱心に見つめてくれる眼差しで分かっているし、それが可愛いとさえ思ってしまう。


 元より一目惚れのようなものだ。ジェイクはこの二週間で、自分の心がどんどん彼に傾いていくのを自覚していた。


「ピザトーストお待ち!」


 乱暴ではないが豪快に皿が置かれる。


「おれが頼んだのはオープンサンドなんだけど」

「気分よ!」


 わはは、と胸を張るオーナーに、ため息をついたバリスタが腰を上げた。


 『ミミズクの巣』には、オーナーの気分で注文とは違うメニューが出てきた場合、コーヒー一杯がサービスになる裏ルールがある。

 今のところ、ジェイクは六割の確率でこのサービスを受けていた。


「……この時間から食べるんですか」


 自分のケーキを棚に上げて、リードがピザトーストを見下ろす。


「あー、これから仕事だから」


 星を撮りに来ているので、軽く昼夜が逆転しているジェイクは、四時近くに食べるのが昼食代わりになっている。


「あぁ、星を撮りに来たんでしたっけ」

「そう。夜のお仕事」


 おどけて言えば、リードは肩を震わせるようにして小さく笑った。

 そして、小さなアルバムを指で撫でて尋ねる。


「星って、どうやって撮るんですか?」

「気になる?」

「まぁ……」

「一緒に行って、見せてもらったら?」


 カウンター越しにコーヒーカップを交換したバリスタが、リードへ向けたと見せかけたパスをジェイクに投げてきた。


「興味あるなら、連れてってやるよ」


 それをありがたく受け取って、ジェイクは警戒されないほどの強さでそっとリードの気を引く。

 しばらくの逡巡の後、お願いします、とリードが頭を下げた。

 誘っておきながら、全く予想していなかった展開に、嬉しすぎてピザトーストの味は分からなかった。




◇◇◇



 夜の外出になるため、家族に許可を取ると言うリードと一緒に、ジェイクは彼の家に寄った。


 玄関先に出てきたのは、可愛らしい印象の姉。彼女はバリスタやオーナーと親しく連絡を取り合っているらしく、ジェイクのことも知っていて、「あら素敵ね、行ってらっしゃい」と、快く送り出してくれた。


 何となく想像していた、ハンディを抱える弟を持つと言うネガティブさを微塵も感じさせない、一般的な女兄弟だったことにジェイクは安心する。

 リードが家族に見守られて、ごく普通の生活を送っていることが分かったからだ。


 防寒着とカイロで寒さ対策をした二人は、星空の広がる小高い丘に立った。


「デジカメじゃないんですね」


 セッティングを始めたカメラを見て、リードがそう言った。


「デジカメも使うけどなー。星の撮影はアナログの方が多いかも」

「どうしてですか?」

「デジタルより滑らかな光が撮れる──気がするからだな。まぁ、勘に頼るところが大きくて、現像してみて失敗だったってことも、よくあるけど……」

「けど?」

「一期一会みたいで、味があるだろ?」


 にやっと笑ってやれば、鼻の頭を赤くしたリードは一つ瞬きをして肩を竦めた。


「職業としては、どうかと思います」

「言えてる。さて、まず二十分な」

「一枚にそんなにかかるんですか?」

「これでも短い方。ま、雪も積もってるから、次はもうちょい短くする。でも長いと一時間くらいかけるぜ?」

「ずいぶん気が長いんですね」


 自然相手の撮影は時に忍耐との戦いで、一瞬を切り取るために何時間でも何日でも待ち続ける気の長さが必要だ。

 仲間からは、その気の長さがジェイクの長所だと言われる。


「それ、おれちょっと自慢よ?」

「だから、ぼくに一ヶ月も『初めまして』なんて言えるんですか」

「………」


 電灯もない暗がりで、ジェイクはリードを振り返る。

 ジェイクとの毎日のやり取りを、彼は知らないはずだ。


 ぼんやりとした輪郭が動いて、リードが家から背負ってきたリュックを開けた。

 取り出したのは、一冊のノート。


「一週間前から書いてる日記……と言うか、メモです」


 きっかけは、見慣れないメモがあったことだと、リードは言った。

 『ミミズクの巣』から帰ってから、リードは誰かの名前がかかれたメモが、机の上にあるのに気付いた。

 全く覚えのないそれが何故だか気になって母に尋ねると、前日に行ったカフェで書いて来たものじゃないかと言われて、よけい混乱した。

 だって昨日は馴染みのカフェには行っていない。

 そう訴えたリードに、全てを教えてくれたのは姉だ。


 事故に遭ったこと、一年も目が覚めなかったこと。そして事故の日から今日までの記憶が自分にはなくて、この先も忘れてしまうこと。


「まぁ、意味分かんないってのが、正直なところだったんですけど」

「……だろうな」

「昨日まで十二月だったんですよ?いきなり一年後の二月だって言われても」


 けれど、新聞の日付もテレビの話題も、全てが未来を示しているのを目の当たりにすれば、信じない訳にはいかなかった。


「そのメモだけが、昨日のぼくがいた証だって思って。誰の名前なのか調べたら、まあ、当たり前ですけど全然知らない写真家で」


 何気ない会話の中で教えた、ジェイクが好きな写真家の名前だ。

 調べてみます、とメモしていたのは知っていたが、明日になったらそのメモのことも忘れてしまうだろうと思っていた。


「ミミズクの巣に電話したんです。どうしてぼくはその名前を書いたのか、どんな話をして、何をするつもりでメモしたのか、知りたかったから」


 そこでリードは、今日初めて会ったはずのジェイクが、昨日も一昨日も「初めまして」と挨拶していることを知った。

 翌日には忘れてしまうことを知りながら、繰り返し自分が撮った写真を見せて動物や星の話をする、ちょっと変わった人。でも、悪い人じゃないよ。


 バリスタはジェイクのことをそう教えてくれた。


「この一週間、不思議な気分でした。貴方のことは“知ってる”けど、“覚えてる”のとは違う」


 自分が書いた日記も、まるで初めて読む小説のようで。

 でも、ジェイクは毎日リードの前に現れた。架空の人物ではなく、生身の人間として。


「ぼくは、全然覚えてないのに……」

「だから、残そうとしたんだろ?」


 俯いたリードの手から、ジェイクはノートを抜き取った。


「明日これを読むぼくの記憶に、あなたはいないんですよ?いくら書いておいたって…」

「リード、一緒に写真撮ろう」

「……何ですか、急に」

「毎日色んなとこ連れて行ってやるから。バリスタとかオーナーとも、毎日写真撮ろう。日記も毎日書いてさ、写真も現像して貼って」

「だから、それに何の意味があるんですか!明日には全部忘れるんです!ぼくは全部失くすのに」

「忘れることと失くすことは違う!」


 反駁したジェイクの手の中で、ノートがくしゃりと歪む。


「今日、ここまで一緒に来てくれて、おれは嬉しかったよ。お前とここで話したことも、見上げた夜空も、おれが全部覚えてる。だから、お前がいる“今日”は失くなったりしない」


 暗闇に慣れた目で、リードを見つめる。

 こんな状況なのに、ほんの数センチ、彼の方が目線が高いことを発見する自分がいて、ジェイクはなんだかおかしかった。


「体の記憶ってあるだろ? 死ぬほど運動した翌日、筋肉痛で動けなかったりさ。それと一緒で、毎日毎日会って喋ってたら、何か変わるかもしれない。『こいつどっかで見たか?』とか、デジャヴみたいに」


 気の長さはギネス級だから、おれ。


 力を込めたせいで歪んでしまったノートのしわを伸ばして、ジェイクはリードの手を取った。


「明日から、もう『初めまして』は言わない。物語の主人公でもない、ジェイクとして、お前に会いに行く。お前と一緒に見た星だぞって、しつこく写真見せて説明してやるからな」

「……物好きな人ですね」


 差し出された一週間分の“記憶”を両手で抱きしめて、リードは何度も頷いた。


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