ご飯ですよ、は。
「──やらかした……」
そう呟く私の前には焦げた鍋。
本日の夕飯になるはずだったモノは、無惨にも黒い塊となり異臭を放っていた。
私はもともと不器用である。
なので料理は得意ではない。
嫌いなのではない、得意ではないのだ。
苦手というよりも、得意ではないのだ。
料理を一品作るのは問題ないのだが、並行して料理を作るのが苦手……私が不器用なのは、手先の問題に非ず。
それは料理だけでなく、あらゆることに当てはまる。
──つまり、家事全般が得意ではない。
時は20時近く、最早時間はない。
だが冷蔵庫の中を見た私は、絶望に打ちひしがれた。
『ご飯ですよ♡』
冷蔵庫を開けると、海苔の佃煮がそう告げていた。
有り体に言うと、海苔の佃煮しかない。
炊飯器は確実に米をふっくらと炊きあげており、私はその優秀さに益々打ちひしがれるよりなく、その場に蹲った。
私より遥かにいい仕事をしてくれる。
昔から私はこうだ。
『努力すれば、人並には大抵の事をやれる筈だ』──そんな親や先生の言葉を幾度となく聞いた。母は心配し、私を病院に連れて行った。
だが返ってきた医師の言葉は──
『お嬢さんは少しだけおっとりしていて、慎重なだけです』
『個性である』という医師の判断は、誰も救ってはくれなかった。『発達障害』とかなんとか……そういう診断ならば、それに縋れただろうに。
それで悩んでいる人には申し訳ないが、私や両親が逆に、そうでないことで悩んでしまっていた、というのも事実だった。
上ふたりはすんなりと育っていたのだから、私にはそうでない理由が欲しかったのだ。
努力すればできる人に、努力してもできない人の気持ちは理解できない。ましてや『個性である』なんて、綺麗事に過ぎなかった。
私は度々『努力をしていない』と見なされてしまい、時に厳しく叱咤され、時に呆れられ、過度に優しくされた。
それは同様に、私から尊厳を奪っていった。
今や一万円程で購入した、IH炊飯ジャー以下の存在である。
「ただいまー」
「はわぁッ!!」
打ちひしがれている間に、夫が帰ってきてしまったのがまたイタい。……さっさとコンビニにでも行くべきだった。
なにしろ冷蔵庫には海苔の佃煮しかないのだ。
焦げた臭いの広がる台所。察しの良い夫は「どうしたのか」なんて野暮なことは聞かず、軽い口調で言う。
「あ、鍋焦げちゃった? おお~タイミング良かったねぇ、明日金物 (ゴミ) の日じゃん。 気にしない気にしない!」
夫は優しい。
夏場に味噌汁を残すとすぐ腐らせるので、インスタントの味噌汁にしよう、と言ってくれたのも彼である。
私から過度に仕事を奪わない。ゆっくりでも、急かさず待ってくれる。
なのに、私と言ったら……
「──そんなに優しくしないで……」
「ええ?」
「私は……っ、
私は所詮、一万円の炊飯器以下の女なのよ?!」
あまりの情けなさに私はそう叫び、泣きながら台所を飛び出した。
──しかしその際、ダイニングテーブルの角に腰を強か打ち付けるという体たらく。
「ふぐうぅぅっ……!!」
痛みで再び蹲る私。最早何に泣いているのか不明。
「あーあー……大丈夫ぅ?」
そんな私を暫し放置したまま、夫は半笑いでそう言うと、電気ケトルに水を入れてスイッチを押した。茶碗にご飯を盛り、味噌汁の具と調理味噌の入った袋を破り、それぞれお椀に出す。
そして冷蔵庫から海苔の佃煮を出すと、それらをテーブルに並べた。
「いいじゃん、たまにはこういうのもさ」
沸かした湯をお椀に移しながら、夫は事も無げに言う。
まだ泣きながら蹲っている私の腕を抱え、子供をあやす様に席に着かせると彼はケトルの湯をお椀に注いだ。
「はい、いただきます!」
「……いただきます」
自分のお椀を箸で混ぜながら「よく混ぜてね」と私にも促す。
彼は海苔の佃煮(新品)の封を切り、蓋を開けてホカホカのご飯に乗せて美味しそうに食べた。
「あ、美味いねコレ」
まるで初めて食べたような感想。
確かに今まで出したことはなかった様な気はするけれど。
そんな疑問が顔に出ていたのか、彼は少し真面目な顔をして口を開いた。
「俺、これ嫌いだったんだよ」
「え」
夫は家庭に恵まれなかったそうで、長い不仲の末に御両親は離婚していた。
私自身両親とは未だに確執があり、あまり喋りたい事は無く……それは彼も同じだったため、互いに喋りたいタイミングでしか喋らないのが暗黙の了解となっている。
そのタイミングが今のようだ。
夫曰く。
──ゴタゴタの最中、ある程度育つと両親は共に帰らなくなり、食事代として500円玉か1000円札がテーブルに置かれている事が常だった。
「とにかく早く家を出たくて……それは貯金に回して、家にあるもので間に合わせることが多かったんだ。 で、これには結構お世話になった。 美味いし……ただ」
ある日調子が悪くて、熱を測ったら38℃位あった。
薬を飲むために、コンビニでレトルトの白がゆを購入し、いつもの様に海苔の佃煮を冷蔵庫から出して食べようとして……なんとなくラベルを見た。
──『ご飯ですよ♡』
「熱が出るとさ、人恋しくなったり感情的になったりするじゃない? なんかその時の状況が凄く気持ちが悪くなって。 今思うと馬鹿みたいなんだけど」
それ以来、食べていないそうだ。
高熱の中一人、フラフラ用意したご飯。
寒々しい部屋で『ご飯ですよ♡』と言ってくれる唯一の相手が……
海 苔 の 佃 煮 。
馬鹿みたいかもしれない、というか……酷い冗談みたいだ。
でも切なくて、悲しくて、泣いた。
「馬鹿だなぁ、なんで泣くの? 違うよ」
「ほら、アーン」と私の口元に海苔の佃煮を乗せた一口分のご飯。……なんだかよくわからない。
よくわからないまま、とりあえず食べた。
「美味しい?」
「……うん」
「俺もそう思う。
『ご飯ですよ♡』っていい商品名だよねって、今はそう思う」
『ご飯ですよ♡』は私の台詞。
それはふたりの食事。
はにかんで夫は言う。
「幸せの言葉だ。
上書きしてくれて、ありがとう」
──なにそれズルい。
結局涙は止まることなく、私は泣きながら海苔の佃煮とご飯とインスタント味噌汁しかない夕食を完食した。
泣いてたけど、美味しかった。
内容的には酷い夕飯だけど、美味しかった。
「勿論『ご飯ですよ♡』は美味いけど、いつものご飯も美味いから…………これがメインは5回に1回くらいで頼んます」
そんなことを言うから、「……そんなに失敗しないもん」と膨れると彼は「知ってる」と言って声を出して笑った。
ご飯ですよ、は幸せの言葉。
……いつまでも、そんなふたりの食卓を。
海苔の佃煮を冷蔵庫に入れながら、これからを思う。
その想像がいい意味で裏切られる一ヶ月後のことを、この時の私達は当然まだ知らなくて──
やっぱり少し足らないから、手を繋いでコンビニスイーツを買いに行ったのだった。