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「おい、おい、何してんだテメエ。」と言葉遣いとはうらはらに優しく肩を揺さ振られ、タツキは眠い目を擦った。目の前には田舎ではとんと見たことのない、背まで髪を伸ばした中年の男が、心配そうな眼差しで自分を見下ろしていた。
「……あ。」タツキは涎の垂れた口許を慌てて拭い、寝惚け眼でその場で正座をした。「イワムラタツキです。今日からお世話になります。」
長髪は目を見開いてタツキを凝視した。「お前か……。その、……早かったな。」それは三月初旬というこの時期のことであるのか、まだ日の昇り切る前のこの時間のことであるのかにわかにはタツキには知れなかったが、とりあえず「はい。」と返事をした。
「まあ、ヒロキからは聞いてたが、正直三月終わりぐらいかと思ってたんだ。」時期のことであったか、とタツキは小さく肯いた。
「昨日卒業式が終わったんで。」
「は? お前、卒業式の日に家出てきたんか。」
「はい。でも……、卒業式は最後まで出ました。昼ぐらいに終わりましたけど。」眠気も醒めてきたタツキはそう言って大欠伸をする。
「否、そういうんじゃなくって、な。」長髪は暫く考え込みながら、「親からは了解、得られたんか。」ヒロキから聞いてはいた。この目の前のやたら張り切った少年が、家ではその存在さえ認められていない状況であるのを。ほとんど、お手伝いさんの女性によって育てられたであろうことも。しかしそれは一方的な見方に過ぎない。子どもの言い分をそのまま呑み込むほど、男はお人よしではなかった。
タツキの顔は強張った。「少し、一方的だったかもしれませんが、一応。」高校には行かないとはっきりと告げた時、父母は、高校に行かないなど人間として認められる行動ではないのだから、二度と家の敷居を跨ぐなと言った。それをこの上なく有難い言葉として受け取って、タツキは一種爽快な気分で家を出て来たのである。
「まあ、でもお前は未成年なんだから、二十歳まではどうしたって責任の所在は親にある。何か言われたら帰れよ。帰り賃ぐれえは出してやっから。」
タツキは返事はしなかった。
「お前な、目上の人間から何かを言われた時には、はいでもいいえでも返事をするもんだ。そんなことも教えて貰わなかったのか。」
タツキは一瞬泣きそうな顔をして、「すみません。……わかりました。もし親が自分のことを家に引き戻したいというようなことになれば……、」それが可能性としては極めて低いであろうことをタツキは熟知していた。「帰ります。」
「約束だぞ。」店長はタツキの顔を見ず、腰のポケットから鍵を取り出すとライブハウスの重厚な扉を開いた。それがすっかり開き切ると、中には闇が広がっていた。それはタツキにとって郷愁にも似た安堵感を齎した。ヒロキに出会った場所。その一点によってこの闇はこの上なく素晴らしい、自分の将来を照らし出す闇であった。
その日から始まったライブハウスでの生活は、タツキにとって素晴らしく刺激的であった。店長は楽屋に布団を運び入れ(店長があらかじめ買っておいてくれたらしい)、夜はここで寝ていいと命じた。その代わりにタツキは毎日ライブハウスの掃除をし、ライブの毎に受付を行い、(酒以外の)ドリンクや軽食を作った。そうして毎夜のようにライブを観る。タツキはそんな生活を数日も続けていく内に、元々音楽のセンスは培っていたものだから、次第にその音楽を呈するためのパフォーマンスの良し悪しが掴めてくるようになった。それはいつしか自分もこういうライブをやればいいのだという指針を確立させるようになっていった。
月末になった頃、店長はタツキに封筒を手渡した。
「何すか、これ。」
「何すかって、少ないが給料だよ。」
タツキは目を見開いた。「マジで。」思わずいつもの口調が出る。
「マジでって……。金もねえでお前、どうやって東京で暮らしていくつもりだったんだよ。」
「いやあ、その内バイト探そうかと思ってて……。」
「ここがバイトだろうが。」
タツキは意想外の展開にごくりと生唾を飲み込み、そっと封筒の中を覗いてみた。一万円札が何枚も入っている。中学時代にやっていた日雇いのバイトで出る金額とは全くの桁違いであった。
「こんなに……。」
呆然とするタツキに、次第に店長は居心地の悪さのようなものを感じ始める。
「もうちっと金貯まったら、安アパートでも借りな。」
「え、それって俺に出て行けっつうことすか?」タツキは思わず身を乗り出した。「お、俺がいたら邪魔ですか。迷惑ですか。」
「いいい、いや、そういうんじゃねえけどよ、いつまでもここにいたくねえだろ? こんな落書きばっかのコンクリ床で寝起きしてよお、風呂もシャワーもねえし……。」
「風呂は銭湯がすぐ近くにあるし、落書きだのコンクリだのなんて、寝て生活すんのに何の問題もないじゃないですか。絵と一緒ですよ、絵と。それにそれに、ここならまいんちライブも観れるし、そうすっと自分の勉強になるし……。」
「いや、別にお前にバイト辞めろっつう話じゃねえよ。バイトは続けて貰って結構。お前、中卒の癖してなかなか頑張って働くしな。さすが中学時代からバイト仕込まれただけのことはあると感心してるぐれえなもんだ。だからそれこそお前がその内プロのミュージシャンみてえになって、もうバイトなんかしなくたって結構、十分食っていけますってなるまではいてくれていいよ。まあ、とはいえ、そのぐれえしか給料は出せねえけどな。」
「ありがとうございます。」タツキはありがたく封筒を胸に押し頂き、深々と頭を下げた。
「で、どうなんだ、バンドの方は。順調なんか。」
「もちろんです。」タツキは即答した。「あのですねえ、この間会ったドラムの人も、凄ぇテクニックあって。ようやく全員揃って。曲もすぐ合わせられてこの調子でいきゃあライブも近いうちにできそうだなって思ってるところです。」
「おお、そうなんか。」店長はにっと笑って「いつでも待ってるかんな。もしあれだ。金のこと心配してるっつうんなら、そうだな……。昼間の枠なら、社員割引で半額にしてやるよ。今まで出したことねえがな、初、社割。」
「マジすか!」タツキはついに店長の腕にしがみ付いた。
「うわ! 引っ付くな! いっとくが夜じゃねえ。昼間だぞ昼間。」
「いいっす! こんな有名なライブハウスでできんなら、朝でも昼でも……。」
「有名、か。まあうちもそろそろメタルの部類じゃあ老舗の部類に入るからな。」店長はそう言って自慢げに微笑み、髭を捻って、「その内、週末の夜、湧かせられるようになってくれよな。待ってっかんな。」と言って身を翻した。
「ありがとうございます!」タツキは暫く恍惚とした笑みを浮かべていたが、はっと我に返ると掃除用具入れからモップを取り出し、丹念に床掃除を始めた。今夜もメタルバンドのライブがある。チケットの売れ行きから行って、百人強の客が来る筈である。タツキは頭をバイトに切り替えながらも、いつか自分がここで演奏する日を想像し、こそばゆく微笑んだ。