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STIGMATA  作者: maria
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 それからというものの、タツキは一層ピアノのレッスンに励んだ。幼い頃からタツキを教えているピアノ教師は、タツキもその姉の師も教えて来たというのと、そのレッスン代が破格であったことから、エレキギターを弾きたいというタツキに自宅で眠っていたオールドのGIBSONのフライングVを与えた。タツキは感極まる程感謝をし、それからというもののピアノと並行して熱心にギターの練習にも励んだ。家で弾けば不審がられると思い、もっぱらタツキの練習場はピアノ教師の家と近くの空き家だった。電気も通らない、昔一家心中がされたと噂のある家だったが、そんなことはタツキにとって全く関係なかった。タツキの胸中にはいつか見たヒロキのステージングの様が、まざまざとあたかも炎のように燃えていた。冬の寒さに手がかじかみつつも、いつか自分もあんな風になるのだと、自分に何度も何度も言い聞かせて練習に励んだ。

 義務、であるからと中学にはどうにか通ったものの、自分がこう無駄な日々を過ごしている間に、世界のどこかにいる自分のライバルはギターの腕を磨いているに相違ないと思うと、授業中でさえ叫び出したいような焦燥に駆られた。

 しかしどうにか三年間の苦行を勤めあげ、ついに卒業証書を手にしたその日、タツキはそれを清子の部屋にそっと忍ばせると、小さなボストンバッグに服とバイトで得た僅かな収入を捩じ込み、ギター一本を持って夜行バスに乗り込んだのである。誰に怪しまれることもなく、タツキの周囲には沈黙が訪れた。早々に電灯が消され、僅か五時間後には新宿に到着するというアナウンスが静かに流れ出す。もうそれだけでタツキには感涙してしまいそうな、究極的な安堵感が胸中に広がっていった。そっと目を閉じた時、不思議と家族のことは考えていなかった。たった一枚卒業証書と共に置いて来た、「清さん。今までありがとう。」というメモ書きが、どんな顔して読まれただろうかとそんなことをぼんやりと考えた。

 暫くは興奮も冷めやらず、真っ暗な窓の外を凝視していたタツキも、朝早くから卒業式に出、その後慌てて家を出てきた疲弊感にぼんやりと眠りにつこうちしていた。その直前に昨夜、ヒロキと交わした電話の内容が蘇って来る。

 「明日卒業するので、東京に行きます。」タツキは誰もいない空き家で、そう電話越しに叫ぶように言った。

 ここ二年のタツキの生活と家庭環境とを熟知しているヒロキはおかしそうに声を殺して笑った。

 「気を付けてこいよ。……にしても、店長が、こんなの久々だなっつって笑ってた。」

 「こんなのって何すか。」

 「だから、中学出て速攻上京して、バンドやりてえなんつうの。」

 「……ヒロキさんは違うんですか。」

 「俺は高校は出た。」

 「……。」

 「周りは大学出てるやつもいっぱいいる。そもそも今大学進学率っつうのは半分超えてっかんな。お前、知ってるか。」

 「……そう、ですか。」少々不満げに答える。

 「まあ、お前が決めたんなら、周りが何と言おうと貫くべきだけどな。お前の人生なんだかんな。死ぬ間際に誰かに責任取って貰おうっつったってそうはいかねえ。」

 「そうです。」こればかりは自信満々に答える。「俺が俺が決めた。誰に決められたんじゃない。」

 「店長に明後日の朝着くって言っといたから。ただかつて、ライブハウスをねぐらにする人間つうのは当たり前だがいないらしい。お前、……布団買う金はあるか。」

 「多分。もし足りなくても、布団一枚なくたって死にやしません。」東京はここよりも随分温かいと聞いていた。

 「飯は、働けばドリンクコーナーでちっと出してるのを食っていいと。」

 「ありがとうございます。」

 「風呂はねえけど、徒歩五分ぐれえの所に銭湯はある。」

 「やった!」

 「……まあ、我慢できなくなったらいつでも部屋探せばいいし。東京なんざどこ行ったってアパートあるから。俺もちょくちょく顔は出すから、しっかりやれよ。」

 「もちろんです、ありがとうございます。」

 そう電話をしている時、空き家の窓から赤い月が真ん丸に輝いていたのを、タツキはなぜだかずっと忘れることができなかった。それが自分の未来を象徴するものであるかのように、思われてならなかったのである。


 旭日が昇る頃、タツキはビルディングに囲まれ、忙しなさそうに人々の行き交う憧れの地に降り立った。

 タツキはかつてこれほど清新な朝を迎えたことはなかった。何か、自分が冀っていたものに生まれ変わったような気分だった。ここで自分は夢を叶えていくのだ。ヒロキに近付いて行くのだ。

 タツキは意気揚々として電車に乗り、目的のライブハウスへと向かった。その前に腹が鳴ったのでファストフードのハンバーガー店でもっとも安い、ぺらぺらの肉一枚しか入っていないハンバーガーを食し、がぶがぶと無料の水を飲んで腹を満たすと、不意に清子が「そんなものを食べていては体に悪いですよ。」と顔を顰める様を思い出し、ふっと噴き出した。慌てて真顔に戻る。もう清子に甘えかかるのは終いだ。これからは名実ともに自分一人で生きていくのだ。

 そう決意を固めながら三駅ばかり電車に揺られると、ライブハウスへと到着した。しかし朝、それも世間がようやく動き出す頃に開いているはずがない。タツキはライブハウスの扉がどう押しても引いても開かないことを確認し、仕方なしにその場に胡坐をかいて座り込んだ。もうここまで来られたのであるから、安心だという確信があった。いうならば、人生に勝利したというような感覚さえあった。それからどうしようもないといった風に笑みを浮かべつつ、周囲に聳え立ったビルディングを眺め渡した。今日から自分はここで呼吸をして生きていくのだ、と思えば全く別の人生を歩み出したような解放感と興奮とがあった。

 タツキの故郷よりも大分温かいとはいえ、まだ三月上旬の肌寒い季節だった。タツキはボストンバッグから毛布一枚を取り出し、それをしっかと自分に巻き付けると、そのままころりと寝転がって眠りに就いた。久方ぶりの深い眠りであった。

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