58
参道を通って拝殿の前で足を停める。脇には手水舎があり、清水をこんこんと湧きたたせていた。「おい、何これ。」「ああ、ここで手洗うのか。」「おお、冷てえな、気持ちいい。」三人が口々に小声で喋っているのを背に、タツキは目を細めて拝殿の奥を見詰めた。
タツキの祈りは決まっている。--アオイが喋れるようになること。アオイの痣がなくなること。この二つである。
自分のバンドのことは自分の努力でどうにだってなると信じている。だから祈らない。けれどアオイのことを考えると、努力ではどうにもならない気がした。だから鳥居を潜った瞬間から、タツキはアオイがどうにか言葉を発せるようにと、そしてあわよくば痣が消えてなくなるようにと、そう、ほとんど反射的に祈ったのである。しかし――、後者に関しては、おそらくは両親が巨額の金を投入して治療を試みたのであろう。それであの結果であれば、もしかすると現代の医療では難しいのかもしれない。正直、そんな諦めもあった。
しかし言葉に関しては、心の問題であると清子がカウンセラーから聞いている。それはたしかに、三年間も親から離され病室で一人育てられたのであるから、そうなるのも然るべきであるかもしれない。でも今は違う。清子も自分も、それからバンド仲間も近所の人々も、皆、誰もがアオイを可愛がっているのだ。痣があろうが、会話がスケッチブックを介したものであろうが、何であろうが。
だから――、とタツキは思うのである。そろそろ言葉が出てくれてもいいのではないか。少なくともそうしてくれなければ幼稚園に通うこともできない。どうかアオイが普通の人生を歩めるように。特別な恩恵はいらない。ただ、普通に幼稚園に通って学校に通って、そして何か好きなことを見つけて、そうやって生きていってほしい。その出発地点で躓かせないでほしい。だって今までたった一人で愛してくれる存在もなく病室で育ったのだから、そのぐらいのギフトは与えてくれてもいいのではないか、タツキは眉根を寄せながらそんな脅迫めいた祈りを神に捧げていた。
アオイはごそごそと後部座席で人の気配がするのに目を覚ました。タツキが何か探し物でもしているのだろうか、ふと頭を上げて座席の隙間から後ろを見遣ると、アオイは息を呑んで目を瞬かせた。そこにいたのは、タツキでもコウキでも、ショウでもレンでもなかった。全く知らぬ男たちが総勢三名。こぞって不機嫌そうな、表情のない顔をしていた。
男たちは目配せをすると、一体どうしてであろう、手前に置いてあったアンプに手を掛け、再び目配せをして黙って運び出していく。アオイはその様を凝視しながら、心臓が早鐘のように鳴っていくのを覚えた。男たちは手早くアンプを降ろすと、すぐ隣に停めたちょうど同じようなバンに乗せる。アオイは座席の隙間から、息を呑んでその様を見ていた。
タツキはどこにいるのだろう。どうして知らない人がタツキたちの大切なものを持って行こうとするのであろう。アオイは哀し気に眉根を寄せた。
そして次の瞬間、アオイはぐしゃりと熟柿潰したような顔になった。アンプを積み替えた男が、戻ってくるなり手に取ったのは、タツキが最も大切にしているギターであった。ケースに幾つものシールが貼ってあるので、見紛うはずはない。先程と比べると随分軽いので、男は微笑んだ。軽々とそれは運び出されようとする。
――「これな、俺の一番の宝物。」「俺が中学生の時からね、一日も欠かさず毎日毎日弾いてんだよ。」「ずっとずっとこれからも一緒なの。」そう教えてくれたタツキの顔が幾つも思い浮かんだ。ダメだ、あれだけは、持っていってほしくない。
アオイは手で、ごつごつと痛み始めていた喉元を覆った。そればかりではない目の奥がじんじんし出して、景色が滲んで来る。ひっく、と今まで出たことのない変な音が喉から出た。持って行かないで。それはタツキのだから。タツキの大切にしているものだから。アオイはふらふらと立ち上がった。あれ、とその時初めて、ベースを持ち出そうと車内へ足を踏み入れていた男が車中のアオイの存在に気づいた。アオイは開いていた窓からぐい、と顔を出し、力の限りに叫んだ。
「たーーちゅーーー!」
手水舎で手を清めていた三人と拝殿に向き合っていたタツキは、一斉に驚いたように声のする方を見た。幼子の叫びのようなものが聞こえた気がして。無論それがアオイの声などということは、誰一人として考えもしなかった。ただ、声のする方を確認して、窓の外から真っ赤な顔を出しているアオイの姿を目にし、嗚呼、起きたのかななどと思った。
そして二声目、
「たーーちゅーーー!」
今度こそはっきりアオイが叫んだのを、タツキたちは見た。その大きく開けた口から、叫びが発せられたのを。タツキは腰を抜かして、へたへたとその場にしゃがみ込んだ。その時背が麻縄を揺らし、カランカランと鈴が大きな音を立てた。
「おい、おい、あれ、俺らの機材じゃねえか!」そう一声怒鳴ってコウキは駆け出した。レンも即座にそれに続いた。男たちはとりあえず持ったものを放り投げて、慌てて車に乗った。後部座席の開けたままなのもそのままにいきなり発進したものだから、アンプが土埃を上げて転がり落ちた。
「たーーちゅーーー!」三度目の悲鳴が上がった。
タツキはようやくそれが、タツ、と、自分の名前を呼んでいることに気づいた。
アオイが、喋った。否、喋ったところの騒ぎでは無い。叫んだ。力いっぱい、声の限りに叫んだ。自分たちの機材が盗まれそうなのを見て、咄嗟にどうにかしなければならないと思ったのであろう。そうして今まで一言も発したことのない喉を、振動させたのだ。
タツキは恐々拝殿の中を見た。もしやあなたが祈りを聞き届けてくれたのか――? こんなにも、早く?
「待て!」コウキがエンジンのかかった相手のバンに飛び蹴りを食らわす。既に犯人たちは全員乗り込んでしまっている。コウキは更に「クソが!」と叫んで、後部座席に飛び掛かった。その瞬間、バンは急発進をして、まだ閉めていなかった後部ドアからアンプとギターケースが雪崩落ちた。レンが慌てて落ちたベースアンプに飛びついて、傷の具合を確認する。次いで落ちたギターをショウとコウキが抱き上げる。バンは砂埃を上げて後部ドアを開けたまま勢いよく発進し、公道へと去って行った。
「ちくしょう! 野郎、ナンバー付けてなかったな! わざと取って来たか、それとも盗難車の類か。」レンが呟く。
「とりあえず警察に連絡は入れておこう。」レンが既に姿を消した彼らの走り去った方向を睨みながら言った。
「機材は多分大丈夫だ。中見たら、タツキのギターはネックもボディも傷一つねえ。」
「アオイ、アオイ……。」タツキはゆっくりと立ち上がり、アオイの方へとつんのめるようにして小走りに歩いた。
アオイのいるバンにコウキもレンも戻って来る。
アオイは後部座席で立ち上がり、肩で息を切らしながら泣いていた。涙に濡れた頬を、掌で何度も拭う。
「アオイ、ありがとな。」コウキがそう言って優しく頭を撫でていく。
「俺らの機材、盗まれちまうと思って、俺らのことでけえ声して呼んでくれたんか。」レンが愛おしそうに、まだ茫然としているアオイの頬を両手で包み込む。
「助かったよ。呼んでくれなかったら、今日ライブできなかった。」ショウが小さなアオイの両肩を撫で摩った。
「アオイ、アオイ……。」よたよたとタツキも入って来る。三人はそっとアオイの前を開けた。
「お前、今、たつって呼んだな。たつって。声、でけえ声、出たな。」
「……うん。」球を転がすような、愛らしい声だった。
タツキは堪らずアオイを抱き締めた。
「もう一回呼んでくれ。」
「……たちゅ。」
「清さんのことも呼べるか。」
「……きよ。」
「凄ぇ、凄ぇよ。お前、喋れるようになったじゃねえか! 滅茶苦茶凄ぇよ!」タツキの目からは滂沱の涙が流れていた。アオイの、レースの帽子に半分隠れた瞳はどこか誇らし気に神社の緑を眺めていた。




