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STIGMATA  作者: maria
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 上京して来た時、二度と故郷の土は踏まぬとそう、頑なに思い込んでいた。もう今までの人生は全て消去し、新たなバンドマンとしての人生を歩むのだとそう決意していた。だからこそ東京の地に降り立った時には解放感とも、達成感ともつかぬ思いに酔いしれたし、その後五年以上も続いた楽屋暮らしに一度も不満抱いたことはなく、そればかりか感謝の念を抱きながら生活することができたのだ。

 父が、母が、姉が、自分が地元に戻ってきてライブを行うなどということを知ったら、一体何を思うのであろうか。恥知らずと罵るか。それともすっかり自分の存在など忘却しているか。いずれにせよ、もうその人たちはこの世にいない。死後の世界、というものが存在すれば別だけれど、それにせよ自分の存在などなきものとしたいというのが生前から継続した思いであろう。

 タツキは次第に緑の増えて行く高速道路からの風景を眺めながら、そんなことを思っていた。

 タツキが少々センチメンタルな気分に浸っていることは傍から見ても明白であったので、メンバーはとりわけ話をするでもなく、夢の世界に誘われながらただ車中に流れているIN FLAMESの『COLONY』に聴き入っていた。北欧のどこか物悲しいメロディは、今のタツキの気分を代弁しているようにも思われた。

 「……あ、そうだ。お前さ、アオイちゃんにちゃんと土産買って帰れよ。」ハンドルを握ったコウキが、突然そうルームミラー越しにタツキを睨みながら言った。

 「……あ? ああ。」タツキは不意に現実世界に戻される。「そう思って今朝聞いてきたよお、クレヨン欲しいっつうんだよ。しかも灰色のクレヨン。」

 「灰色だけ?」

 「うちの猫灰色なんだよ。んで、そればっかし描いてっから、灰色だけ短ぇの。」

 コウキは噴き出した。

 「灰色一本かよ、しけたお土産だなあ。」うたた寝をしているように思われたレンが半目を開けて呟く。

 「違ぇよ。ちゃんと他にも土産っぽいの買うよ。でも灰色が一番欲しいんだって。あいつ、何か欲しいなんて今まで言った例、ねえのに。」

 「じゃあさ、ネコグッズ買ってやればいいじゃん。猫好きなら。」ショウが言った。

 「そうか。」タツキは目を見開いた。「いいな、それ! 猫のぬいぐるみでも、猫のキーホルダーでも。」

 「……あーあ、いいなあ。なんかそういうの。」レンが欠伸をしながら言う。

 「何がだよ。」

 「そういう小っこい子がいて、おねだりとかしてくんの。」

 「そのうち喋りだしたら、『お兄ちゃん』とか言うのか。」ショウがそう言って自分で噴き出す。

 「兄じゃねえからな、兄じゃ! つうか、じゃ、おい! ……叔父、になんのか。」

 「叔父!」ショウが更に噴き出した。

 「叔父さんはやめよう。それは、何か、……辛ぇ。でも何て呼ばせたらいいんだ? 兄貴でもなく叔父でもなく、……そうだ。俺のこと、スケッチブックに『たつ』って書いてるし、清さんもタツキっつってるから、きっとそのうち名前で呼ぶだろ。うん、そういうことにしよう。」タツキは勝手にそう納得し、安堵に胸をなでおろす。

 「おい、そろそろサービスエリア着くぞ。交代だかんな。」

 昼時のせいか駐車場は混雑していた。ようやく隅の方に空きを見つけて停めると、四人は店の中へと入った。食べ物屋の手前にあった土産物コーナーを覗くと、即座にアオイへの土産は揃った。

 「これは本当にモモそっくりだ。」タツキは改めて感嘆しながら、ビニール袋の中から猫のぬいぐるみを取り出した。灰色に縞模様の入った、タツキの顔程の大きさもある猫である。「アオイ、びっくりするな。」と言ってから、それを想像できないことに気付いた。未だ、アオイのはっきりとそれとわかる表情らしきものには、遭遇したことがないのである。

 「良かったじゃん。」レンがラーメンを啜りながら言った。「あと、クレヨンも買ってやれよ。クレヨン。」

 「そうだよ。何か欲しいかって聞いて、灰色のクレヨン一本取り出すなんて、無茶苦茶いじらしいじゃねえか。叔父としてそんなの買ってやらなきゃあバチあたるぞ、バチ。」コウキも水をかぶかぶと呷りながら言った。

 「叔父って言うなよ。」

「だって事実、叔父じゃねえか。」レンが箸でタツキを指す。

「『叔父ちゃん』って言っても怒んなよ。事実なんだから。」コウキまで乗ってくる。

「そりゃあ、怒りゃしねえが、何かなあ。……つうかお前らなんでそんなにアオイ寄りなんだよ。」

 「そりゃたりめえだろ。」ショウは五目飯を水で飲み込むと、「小っちぇえ女の子なんて、俺らの近くにはいねえんだからさ。」

 「小っちゃくなくたって女の子はいねえ。俺らを愛してくれるファンはいかつい野郎どもばっかしだしな。」

 「それは知ってる。」タツキは猫のぬいぐるみを仕舞って、目の前のラーメンに箸を突っ込んだ。でもアオイの顔には消えることのない大きな痣がある。あれをどう思っているのだか、彼らはそれを自分の手前だからか口にすることは、ない。しかしこれは社会の受け止め方とは異なっているであろう。いつかアオイが外に出た時、アオイはその痣のために嘲弄され軽侮され、そして排除されるであろうことは想像に難くなかった。タツキはそれを思うと胸が締め付けられるような思いがする。何とかして、それを避けることができないか。アオイをこれ以上傷つけることは、どうしたって我慢できなかった。

 「冷めるぞ。」レンが顎でしゃくって、タツキのまだほとんど手を付けていないラーメンを示した。

 「うん。」

 「アオイちゃん、連れてきても良かったのにな。」コウキがラーメンを啜りながら言った。

 「はあ、……一週間も連れ回せるかよ。」

 「じゃあさ、一旦東京戻って日帰りで行ける所あったじゃん。あそこぐれえだったらさ、いい遠足になんじゃねえの。」

 「遠足。」タツキはあまりにも縁遠くなったその言葉を、噛み締めるように繰り返す。

 「そう、遠足。」コウキはにやりと笑う。

 「……遠足かあ。」断られているという幼稚園に通うことができれば、そんな機会も容易に与えられるのであろう。でも顔はともかく、言葉の出ないアオイが幼稚園に通える可能性は、低い。同じくらいの経験を与えたいとすれば、自分が与えてやる他にはないのだ。

 「遠足、いいな。」タツキはぼそりと呟いた。

 「おお、マジか。連れてこい、連れてこい。」レンが膝を叩いて破顔する。「クレヨンと、それからおもちゃと楽屋にいさせんなら耳栓も忘れんなよ。」

 タツキはその様を思い描き、どうしようもなく微笑んだ。デスメタルバンドのツアーに帯同するアオイ。バンの隅でじっと外を見詰めるアオイ。何か気に留めるようなものがあれば、スケッチブックにクレヨンで描き始めるアオイ。それはとても愉快な光景であった。

 「あいつにはさ、いろんな景色を見せてやりてえんだよ。ずっと病院の中に閉じ込められていたようなもんだからさ。叔父でも兄でも何でもいいけど、それを俺が与えてやんなきゃ、もしかすっと誰も与えてくれねえかもしんねえんだ。」

 三人は肯き合いながら残りのラーメンを啜り上げた。

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