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「アオイちゃん、絵の才能があるのよ、きっと。」ミリアは助手席に身を落ち着けるなり、そう意気揚々と言った。手に丸めた画用紙をそっと広げ、満面の笑みで見詰める。「リュウちゃんも、も少し大きくなったら何か好きなことができるといいわねえ。もちろんね、ギターでもいいし、絵でもいいし、なんかスポーツとかでもいいし……。ミリアも駆け足は得意な方だったし、リョウもマラソン出たり運動会の保護者リレーでも一等賞取ったし、リュウちゃんも……、」
「あのさ、」リョウは発車させると、ハンドルを握りながら、言いにくそうに言った。「……アオイちゃん、……その、さ、顔に痣、あったな。」
「痣?」
まさか気づかぬわけがないのである。リョウは焦燥して「ほら、顔がちょっと、その……黒くなってたろ。この辺。」と、目の辺りに触れる。
「ああ、そうねえ。」ミリアは何でも無さそうに言った。
「ああそうねえって……。見えなかったつうもんでもねえだろう。」
「ううん、でも……。」ミリアは首を傾げながら続ける。「最初はこういうお顔なんだあ、って思ったけど、それからはあんまり気にしてなかったわよう。タツキにもおばあちゃんにも大切にされてて、あんまり幸せそうだったから。」ミリアはそう言って照れたように微笑んだ。
「幸せそう?」言葉が出ないのは、おそらく心理的な疵を負っているからなのである。そのどこか幸せなのか。逆ではないか。リョウは訝った。
「あのねえ、きっともうすぐアオイちゃんお話できるようになるよ。」ミリアははっきりと、そう、断言した。「あのねえ、そういうものなの。」
「何だよ、そういうものって。」
ミリアは小さく笑って、「あのねえ、ミリア、小さい頃リョウとお話をしたかったの。ミリア、お話、下手だったでしょう? でも、もっともっと色んなこと聞きたくて、言いたくて。だからいっぱい頭で考えた。合う言葉が見つからなくって、しょっちゅう、こう、がっかりしたり悲しくもなったりしたけど、それでもリョウはうんうんってちゃんと最後まで聞いてくれたから、頑張って考えたの。でもね、もっともっとちゃあんとお話したくって、本いっぱい読むようにした。」
「おお、そうだったんか!」リョウは思わずハンドルを叩いた。「そうだよなあ。お前たしかいっぱい本読んで、小学生の頃、先生に表彰してもらってたじゃねえか、ライオン賞みてえなやつ!」
「そうなのよう!」ミリアは助手席で飛び上がる。「あれはね、ライオンっていうのもリョウっぽくってカッコよかったし、それに本読むと言葉がいっぱいあって、覚えられたし、だからミリア頑張ってたのよう!」
「そっかそっかそっか。」リョウは今更ながら納得し、何度も頷く。
「だからね、今日アオイちゃん見ててね、もっとタツキとか、おばあちゃんとか、リョウともミリアともリュウちゃんとも、いっぱいお話したいって思ってるのがわかったの。今はなかなか言葉がお口から出てこようとはしないんだけど、でも、アオイちゃんもね、言葉出てくるのじっと待ってんの。探してんの。昔のミリアとおんなしなの。だからきっと言葉出るよ。お顔は黒いかもしんないけれど、でもね、そんなことは全然どうでもいいの。チャームポイントだわよう。」
リョウは口の端で微笑む。ミリアが見ている世界は表面的なそれではない。もっと深遠な、おそらくは真髄に最も近い所。だからこそ自分の曲も、誰よりも正確に理解し、時には自分よりもより明確に解釈すすることができるのだ。そしてそれこそが、自分がミリアを愛する、尊敬する、その最大の因たり得ることもリョウははっきりと解していた。でなければいくらミリアの我儘で唐突に結婚式が執り行われたとしても、夫婦生活を営むことは不可能であったろう。だからこそこうして夫婦となり子を成し……、とそこまで考えた時、後部座席でチャイルドシートに寝せていたリュウが泣き始めた。
「まあまあ、リュウちゃんもうすぐにおうち着くから、もうちょっとの辛抱よ。いい子ね。」ミリアは身を翻してリュウの頭を撫でてやる。
「そうだ、あとちっとじゃねえか。泣くこたねえ。男じゃねえか。」リョウはそう言って力強くハンドルを切った。どういう因果か、ちっぽけな少女だったミリアが心から尊敬できる女性となり、そしてバンドでも人生でも自分をどこまでも支え、切ってくれ、二人の遺伝子を持った子供まで誕生させることができた、その感謝の念が今更ながら沸き起こってきたのである。「ほーら、何だ、腹減ったんか、しょんべんでもかましたんか、どっちにしろ俺が面倒見てやっから。」リョウがそう面白そうに言った時、もう既にそこは家の前であった。