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いよいよ言わねばならない。タツキは身を固くしてリョウとミリアをひたと見詰めた。
そんなタツキにはしかし一向に介する素振りも無く、「いいばあさんだなあ。」リョウが感嘆するように言った。「あんなばあさんが一緒に暮らしてくれんなら、たしかにワイドグライド出ることになんな。」
「リュウちゃんことも、すっくとお上手に抱いたわねえ。子育ていっぱいしてるから、慣れてるのねえ。いいなあ。リュウちゃんのことで困ったことあったら、教えて欲しいわ。」
「……あ、ああ。」タツキは慌てて「いつでも来て下さいよ。近所なんですから。」
「そうそう、こいつここ引っ越してきてうちと近所だって気付かなかったんだぞ、おっかしいよなあ。」
「うち何度も来たことあんのに!」ミリアも思わず笑い出す。
「……あのリョウさん。」タツキは意を決して、ずいとリョウの前に進み出た。
「な、何。」今の軽口がそれ程気に障ったのかとリョウは驚く。
「あの、アオイのことなんですけど。」
「ああ。三つなんだろ。可愛い盛りだよなあ。何、もう喋るの?」
「実はそれが……。」
「ただいまですよ。」そう言って清子が扉を開けた。その後ろから小さな女の子と子猫が同時に顔を出す。リョウは一瞬真顔に戻って女の子の顔を見詰めた。
「こちらがですねえ、アオイ様とモモ様ですよ。ほら、お庭のクローバーのお花でこんなに、腕輪を作っていたんですよ。お上手なもんです。」
「まあ。こんにちは!」ミリアはすぐに立ち上がってアオイとモモの前に坐った。「アオイちゃん、こんにちは。」
アオイはしかしじっとミリアを見詰めるばかり。
リョウは未だ微動だにできなかった。無論その視線が向かうのは、アオイの顔に大きく広がった痣、である。なぜ、こんなことに? リョウの脳裏には疑念ばかりが浮かんだ。ぱっちりとした大きな目に、形の良い唇。おそらくは美人になるであろう。ただし、この容赦ない痣さえなければ。
今はいい。でも、学校に行くことになったら、社会に出て行くことになったら、辛い対応をされるであろうことは容易に想像がついた。それまでに治ればいいが、おそらくは岩村家が清子が喧伝するように、医師の家系で富裕であることに鑑みて、それは厳しいのであろう。リョウは知らぬ内に鼓動の厭に高鳴るのを覚えた。
その様子を見ながらタツキは頭を抱えたくなった。言っておくべきだった。タイミングがどうの、とそんなことを考える前に。しかしその妙な緊張感を打破したのはミリアの言葉であった。
「こんにちは、アオイちゃん。私はミリア。タツキのお友達なの。だからアオイちゃんもミリアとお友達になってくれる?」そう言ってミリアは手を差しだした。アオイは戸惑いつつも、おずおずとその人差し指を握った。
「ありがとう。こちらはモモちゃん? なんて可愛い子なの。おめめぱっちり、アイラインもくっきり、しっぽもスマートにひょいっとしてるわ、素敵。ベストキャットだわよう!」感極まってミリアはモモを抱き上げた。モモは大人しくミリアの腕の中におさまった。
ミリアが頬擦りしかけた時、後でリュウが泣き出した。
「あらあら。」ミリアはモモを床に下ろすと、慌ててリュウを抱き上げる。アオイはその様をじっと見つめている。
やがてリュウを抱き上げ揺さ振ってやると、アオイは珍し気に自分を見上げているアオイを見て、「アオイちゃん、赤ちゃん見たことある? 赤ちゃん見てみない?」としゃがみ込んだ。
アオイはトコトコとミリアに近寄った。
ミリアはごく自然にアオイに対応している。アオイが喋れないことには、もう気づいたのであろうか。タツキは心配そうに二人の様子を見守った。
「小さいでしょう。二カ月なの。まだおっぱいしか飲めないし、夜長く寝ることもできないのよ。」
アオイはこっくりと頷きリュウの顔を見詰める。
「みんな生まれたばかしはこんなんなの。ミリアもね、それからアオイちゃんもそうだったのよう。見て、おてて。こーんなに小っちゃいのよ。」
ミリアはおくるみの中からリュウの手を取り出し、アオイの前に見せた。アオイはいい? とでも問うようにミリアをちらと見上げてから、そっとその手に触れた。それは想像以上に柔らかく、暖かかったので、アオイはほうと長い溜息を吐いた。
いつの間にやらリュウも泣き止んでいる。
「あの、……すみません。アオイは喋れないんです。」タツキは初めて訪れた静寂にようやく、告白をした。
「あら、そう。」ミリアは一切気にするそぶりも無く微笑んだ。
「ただ、ひらがなが書けるんで、それスケッチブックに書いて、話ができます。」
「まあ、すっごい!」ミリアはアオイの目の前にしゃがみ込むと、器用にリュウを抱きながらアオイの頭を撫でた。「三つで字が書けるなんて、とってもとっても頭がいいのね!」
「そうでございます。」幾許胸を仰け反らせるようにして清子がずいと進み出る。「アオイ様のお母様は大変優秀なお医者様でございまして、お父様も海外留学までされたそれはそれはご立派なお医者様でございます。」
「ほんまもんのエリートじゃねえか。」リョウが目を丸くする。
「そういうのはいいからさあ。」タツキは気抜けしながら言うと、「そうだ。アオイ、スケッチブック持っておいで。ご挨拶しないと。」
アオイは目を瞬かせると部屋を出(そこにはモモがぴったりとくっ付いていた)、すぐに大きなスケッチブックとクレヨンを持って帰って来た。
ミリアはリュウを抱きながら、にこにことアオイを見つめている。
アオイは床にクレヨンを置いて箱から出し、じっと吟味すると灰色のそれを取り出した。灰色は随分短くなっていた。
「灰色はね、モモの色だからアオイのお気に入りなんですよ。」タツキはそう付言する。
アオイは小首を傾げ、床にスケッチブックを広げるとたどたどしい字で「こんにわわ」と書いた。「わ」が連なったことに違和感を覚えるのであろう、首を傾げる。
「まあ、すんごい! お上手な字ね! こんにちは、アオイちゃん。」ミリアは叫ぶようにして言った。
「こんにちは。」リョウも静かに頭を下げる。
「まあ、こんな具合でやりとりをするんですよ。」
「本当におつむがいいのねえ! 将来はお医者さんでも何でもなれるわ!」
「それもようございますね。」清子がうんうんと大きく肯く。「お父様の病院は今もございますし。」
「アオイのしたいようにさせるんだよ。」タツキが不満げに呟いた。「今字が書けても学校で成績がいいかはわかんねえし、それに、他にアオイにやりたいことができるかもしれない。」やけに真剣に呟いたその文句に、リョウはタツキの不満のようなものを感じ取った。
「ギターだって教えてやれば才能が開花すっかもしんねえぞ。」リョウは面白そうに言った。「こいつなんて小学一年の時にうちに来て、何もねえからギター弾かしてたらしれっとギタリストになったもんなあ。同居人の影響つうのも何気にでけえぞ。」
「そうか、リョウさんはミリアさん育ててきたんだもんなあ。清さんと一緒で手慣れたもんですよね。」
「子育てだあ? 来た時もうこいつは小学生だったから俺は何もしてねえよ。する必要もなかったしな。おむつ交換だ、風呂だ、ミルクだっつうのはこれが初めてだよ。」
「え、リョウさんおむつ交換とかやってんすか!」
まずい、とでも言ったようにリョウが言葉を喪っていると、「そうなのよう。リョウはなかなか上手だわよう。」とミリアが威張り腐って言った。「一緒に助産師さんにね、おむつの交換の仕方とかミルクの作り方教わったんだから。」
「マジか。」
「まあ、でも休みん時だけだかんな。夜は起きりゃあやるが、寝ちまって気付かねえことも多いし。やっぱ母親っつうモンは違ぇよ。こう、子ども専用アンテナみてえなモンが付いてんだろうなあ。泣く前からぴくって起き出してっ時もあっかんな。」
「そうでございますよ。」清子が大きく肯く。「タツキさんもお小さい頃はよーく、泣いて。一緒にいると、そろそろお泣きになるかなっていうのはわかりましたですよ。」
「マジか。」そっくり同じ文言を繰り返す。
「そうですよ。」清子は懐かしそうに破顔する。「それにお姉様と違って、タツキさんは男の子ですからお小さい頃から重くて重くて。……でもなかなか寝つきのお悪いお子様でしたから、ベビーベッドに寝かしておいても寝て下さらないんですよ。ですからこう、家の中でねんねこに包んでおんぶして回って、そろそろお静かになった、お休みになったかしらと思って窓際に来ましてガラスに映すと、こう、にーっこりされて、なんて可愛いでしょうと思う反面、ああ、またおんぶが終わらないと思うことも何度もありましたですよ。」
ミリアはくすくすと声を殺して笑う。「そんなにして子供が大きくなるのねえ。」
「まあ、勝手に育ちやしねえっつうことか。」
その時ふと、タツキはアオイを見た。灰色のクレヨンを持ったきり、まるでそれとそっくりの灰色の眼をして茫然としているアオイを。
アオイには無論そんな経験はない。味気もそっけもない病院の一室で、おそらくは看護師だの保育士だのを付けられたものの、三年間、親の愛情なんぞからは遠くかけ離れた場所で育ったのだ。それを悲しむ術も知らず。
「アオイ、何か書いてごらん。」どうにかその灰色の眼を辞めさせたく、タツキはせっつくように言った。「絵も上手だよな、アオイは。」
アオイは恥ずかしがって俯いた。そこにモモが大丈夫よ、と言わんばかりにアオイに顔を近づけ、鼻先をぺろりと舐める。
アオイはそれに勇気を得たように灰色のクレヨンを仕舞うと、赤のクレヨンで何やら塗りたくり始めた。
「アオイはね、今から可愛がってやるんです。とはいえすぐにツアーに出ちまう身で言えた義理ではないんですが。」
「だよなあ。」リョウも苦笑を浮かべる。「俺もこいつが小さい頃一人留守番させてツアー出るの、滅茶苦茶心配だったもんなあ。」
「え、一人で留守番させたんすか。」
「それがさ、近所にこいつと仲良しの同級生がいて。その子んちになんだかんだで世話んなってたんだよ。下手すると一か月泊まり切りとかな。もしあの子がいなかったらさすがにツアー、出れなかったろうなあ。」
「へえ。」
「美桜ちゃんちね。」ミリアはうっとりと目を閉じる。「その子、リョウん所来て転校して来て、そんで最初に隣の席になって仲良くなったの。ずうっと本当に偶然、って思ってたんだけど、この間同窓会があって、そこでその時の担任の先生がね、美桜ちゃんが面倒見が良くてしっかりしてるから、だから隣にしたんだって。ミリアあん時お喋りも下手糞だったから、とっても心配だったんだって。」
「そうなんか。」リョウも再び苦笑する。
「へえ、でもそれからずっと仲良くできる友達がいるなんて、いいですねえ。」そう言うタツキの脳裏にはかつて中学時代仲良くバイトに励んだダイキの姿が浮かんだ。彼は今頃何をしているであろうか。どこかに勤め出したであろうか。父親は出稼ぎから帰って来たであろうか。
「ううん。ずうっとじゃあないの。美桜ちゃんは小っちゃい頃から英語が得意で、高校ん時は海外留学してて、大学で戻って来てからまた仲良くし始めたの。それでね、すんごいのよ。」ミリアはぐい、と顔をタツキに近づけて言った。「私の高校時代の仲良しだった男の子と付き合って、結婚したんだから!」
「マジすか。」
「その男の子ね、高校一年生の時おんなしクラスで席も隣同士だったの。それから仲良くなって……、」
「こいつは隣同士にして貰わねえと友達になれねえんだ。」
「そんなことないけど! 全然ないけど!」ぺっぺと唾を吐きながらミリアは訴える。「……でもね、その子とは三年間ずっと同じ調理部だったし、ミリアが困ってた時は助けてくれたり、なんだかんだ言って一番仲良しな男の子だったの。」
「ミリアのことが好きだったんだよな。」
「それは若気の至りなの! 今は美桜ちゃんが好きなんだから。今は全然違ってんの!」
「そんで、……ミリアさんが二人をくっ付けたんですか?」
「ううん、違うの。その、男の子はねミリアとおんなし高校だったんだけれど頭が良くって、K大学に行って、美桜ちゃんは元々頭が良くってK大学に行って、一緒になって、そこでボランティアのサークルに入って、出会ったの! で、家も近いしそんで仲良くなって、大学出てからなあんと結婚したの!」ミリアはそう言って勝手に感極まっている。「それでね、近所にすんごいかっこいいおうちも建てて、だって美桜ちゃんちもカイトんちもお金持ちだから。そんで今もミリアんちのすぐ近所なの。美桜ちゃんはリュウが産まれた時にすっ飛んで来てくれて、すってきなお祝いまでくれてねえ。でも美桜ちゃんとカイトんとこに今赤ちゃんができてるから、今度はミリアがお祝いをあげるの。」
「……良かったですねえ。」
「こいつは友達には恵まれてんだよな。」
「アオイもそうなってくれたら、嬉しいな。」タツキはそう言ってアオイを優しい眼差しで見詰めた。
リョウとミリアも自然と、何やらスケッチブックに向って真剣に絵を描くアオイに視線を遣った。
「……おい、これもしかして」リョウが慌てて身を乗り出す。
「リョウだ!」ミリアはそう叫んだ。「こっちはミリア! これリュウちゃん!」
アオイが必死になって描いているスケッチブックには、真っ赤な髪をした大きな人と、黒髪をした小さな人と、それからその間にはもっと小さな人が描かれていたのである。
「アオイ、……これ、リョウさんたち描いたんか。」
アオイは恥ずかし気に目を反らして、小さく俯いた。
「まあ、お上手ですこと。……お医者様にも画家にもなれますわ。」清子はそう言ってしきりにアオイの頭を撫でた。
「本当に、素敵。」ミリアはうっとりと呟く。「仲良しな感じがようく出てるわ。」
「本当でございますよ。まあ、ステキなご家族でございます。」
「……ねえ、アオイちゃん、これ貰えないかしら。」
アオイは暫くリョウの髪の毛と思しき赤を塗ったくっていたが、ふと、描き終わったのか、一息を吐くとスケッチブックごとミリアに差し出した。
「本当に? いいの? ありがとう。小さな画家さん。額縁に入れて、大事に飾るわ。」ミリアはそう言ってスケッチブックを愛おしそうに撫でると、丁寧にその絵を破り取った。




