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STIGMATA  作者: maria
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タツキが一人、アオイについて考えながら部屋でギターを爪弾いていると、携帯電話が鳴った。画面に映し出されたのはリョウの名である。

 慌てて出ると、「おお、お前引っ越したんだって?」とリョウの面白そうな声が聞こえてきた。

 「あ、ええ。まあ。」

 「一体どうしたんだよ。ワイドグライドに骨埋めるなんつってた奴がよお。びっくりしたぜ。」

 「……それが、実は、」タツキは先日、故郷の両親と姉夫婦が事故死したことと、それに伴って遺産であるこの家を相続しなければならなくなった事情を説明した。リョウは暫く絶句していたが、「……すまん。」と一言絞り出すように言った。「興味本位で聞いちまって。マジで、悪ぃ。……そんなことだとはとても、その、思ってなくて……。」

 「否、全然気にしねえで下さい。……何つうか、俺自身も全然まだ信じられねっつうか。正直、五年も家族とは連絡断ってたんで、いまいちピンとこなくって。」

 「ずっと、実家帰ってなかったんか。」

 「まあ。俺、親に嫌われてたんで……。」

 今まで何人もの人間に否定されてきたその文言を、リョウはしかし否定しなかった。それがタツキにはありがたかった。

 「……そんでどこに引っ越したんだ?」

 「あ、ええ、S区です。」

リョウは即座に、「マジか、一緒じゃねえか。」と言った。

 「え、ああ、そうですね。」タツキは今更ながら思い出して言った。

 「S区のどこ?」

 「あの、……M寺とか、S小学校のすぐ近くで。」

 「マジで近所じゃねえか。」呆気に取られたような声がした。

 「そう、すか。」日頃ワイドグライドの徒歩圏で生活の全てが完結していたのと、リョウの家に行く時には大抵リョウのバイクに乗せてもらっていたので、タツキは五年も東京にいながらこの周辺に関する土地勘なんぞまるでなかったのである。

 「なあんだ。じゃあこれからしょっちゅう行き来できんな!」

 「ああ。是非ミリアさんとリュウちゃんと遊びに来て下さいよ。」と、言った矢先、タツキの胸中にはアオイの顔が思い浮かんだ。「あ、その、実はですね……、家に小さい子がいて。」

「はあ、小さい子だあ? お前、一体誰の子だよ。」その声は明らかに責任追及の意を孕んでいた。

「いやいや、俺の子じゃねえすよ。」慌てて否定すると、「その……姉さんの子で、まだ三歳なんです。」と声を潜めるようにして言った。

 リョウは息を呑んだ。「……そんな小さい子残して、……亡くなっちまったんか。」

「ええ。」

「親がいなくて大丈夫なんか。そんな小っちぇえ子……。」リョウの脳裏には小さなミリアを育ててきたあの日々が蘇る。あの時ミリアは小学一年生であったから、一応身の回りのことは一人で行えたが、それでも親から虐待を受け、心に傷を負っているのだからとリョウなりに気を遣ったのは事実である。

「その、……親がいなくなったっつうことは、わかってないんです。小さいのもあるし、それに……。」タツキは口籠った。これ以上はとても電話口では言い出せなかった。すなわち、顔に痣があるばかりに親から引き離され、ほとんど存在しない者として病院で育ったとは――。それはあまりにも残忍だった。まだ正面切って罵られる方がマシだとさえ思われた。でもそれはもう終いなのだ。これからは自分や清、それからたくさんの友人たちに囲まれて過ごすのだ。タツキはそう思えば勇気を得て、言った。

「……もしよかったら、ミリアさんやリュウちゃんも一緒にうち、遊びに来てくれませんか。うちならアオイもいるし、赤ちゃんにミルクでもおむつでも、何でも遠慮なくやってもらって大丈夫なんで。」

「おお、いいのか。」

 「ええ、是非。」

 「じゃあ、ミリアに聞いてみて、……近々遊びに行くわ。まあ、ガキと二人っきりで家に閉じこもってちゃあ、ストレスも溜まるしな。あ、……でもそろそらお前らツアーだろ?」

 「そうなんですよ。」思わずタツキは破顔する。「再来週からまた、あちこち出ちゃうんで、良かったら今週、来週の内に遊びに来てくださいよ。本当、待ってますんで。」

 「おお。社交辞令にはしねえかんな。」


 リョウがミリアとリュウとを連れてタツキの家を訪問したのは、その翌々日のことであった。リョウが乗って来たのは、シュンに押されるようにして手に入れることになった、VWのゴルフである。タイヤは断固二つまで。三輪以上は乗らないと長年豪語し続けていたリョウも、やはり妊娠したミリアをバイクの後部座席に乗せるのはあまりにも非情に過ぎるように思われたのである。

 「おお、凄ぇ家じゃねえかー!」と、車を降りたリョウが驚愕していると、「悪いすけど、親父の遺産なんで。親父、金持ちなんで。」と庭先まで出迎えたタツキは弁明した。

 「まあ、ステキなのねえ。うちもとってもステキだけど、タツキの家もとってもステキ!」チャイルドシートからリュウを抱き上げたミリアもそう感嘆の声を上げる。

 「でも、リョウさんちみてえにスタジオとかはねえすよ。金持ち仕様だろうがなんだろうが、あくまでも普通の家なんで。……さあ、中へどうぞ。」タツキはそう言って庭を先導すると玄関を開けた。

 するとそこで「まあ、まあ、よくいらっしゃいました。」と、深々と頭を下げたのは白髪頭を引っ詰めにし、着物を着た清子である。

 恐ろしいぐらいの芸術品の数々と共に登場した和服姿の清子に、リョウとミリアは否応なしに驚かされ、一瞬言葉を喪った。

「あ、この人は、俺の親代わりで、今も色々世話んなってる清さんつうんです。長年実家のお手伝いをしてくれてて。」とタツキが説明する。

「岩村家でお手伝いをさせて頂いております、清子と申しますです、はい。」

 「お、おお、お手伝いだあ?」リョウは盛んに目を瞬かせる。「お前、お手伝いって、……んな、バカな。」

 「タ、タツキはお、お、お坊ちゃんなの?」

 「ええ、ええ」清子は進み出て、「岩村家と言いますのは、江戸時代から続きます由緒正しい名家でございまして、地元ではそれはそれは大きな病院を経営されておりまして、知らぬ者は一人とてございませんです。はい。」自慢げに言った。

 「マジか。」リョウはそう発したきり、再び言葉を喪った。

 「あのですね、でも俺は親には断然嫌われてたし、だから中卒でそっからとっとと出てきたんですから、全然親父とは違うんです。違う生き物。」

 「何を仰います。タツキさんは岩村家の由緒正しきご嫡男でございまして、それはそれはお小さい頃からピアノが上手で。全国のコンクールで入賞なさったこともあるんでございますよ。ウィーンにだって行けましたのを、もったいなくもご辞退なさったのでございます。」

 「んまあ、凄いのねえ!」ミリアが目を丸くする。

 「もう清さんはいいから。……さあさ、リョウさんミリアさん、中入って。」

 「そうでございました。もう、私としたらこんな所でいつまでもお客様を立たせたりして、いけません。まあま、こんな小さなお子様いらっしゃいますのに。お茶をお淹れ致しますからね。さあさ、こちらへ。」

 リビングの張りのあるソファに座らせられながら、リョウもミリアも部屋の調度品の数々に瞠目せずにはいられなかった。高価そうなスタンドランプにはほんのりと灯りが灯り、カーテンもまるで舞台の緞帳さながらの重厚感があった。ちょいと奥を覗けば、リョウにはさっぱりわからぬ高価そうなワインが幾つも並んでいる。

 「いやあ、なんかすっげえなあ。」

 「リョウさんちの方が凄ぇじゃねえすか。オールドのギターばっかしあって。」

 「あ、あれは、ミリアの父親の遺産だから。俺のじゃあねえ。完全に無関係だ。」

 「ここだってそうですよ、何から何まで全部が全部、親父の遺産。」

 「おんなしなのねえ。イサンばっかし。」ミリアはそう言って部屋の中をうっとりと見回す。

 そこに清子が紅茶とマロンのケーキを携えて持ってきた。

 「いやあ、済みません。ああ、そうだ。これ召し上がってください。」リョウはそう言って手持ちの菓子箱を清子に手渡す。「なあんか小っちぇえ子がいるって聞いたんで、食いやすいようにって思って、焼き菓子とかなんだけど……。」

 「まあまあ、お気遣い頂きまして。ありがとうございます。アオイさんは焼き菓子大好きでございますよ。」

 リュウがそこに手を伸ばす。

 「まあま。可愛い赤ちゃんですこと。抱っこしてもよろしいございますか。」

「どうぞ。」ミリアはリュウを清子に渡す。さすがに手慣れた風に清子は抱いた。リュウは不思議そうに清子を見つめ、それからミリアを見詰めた。

「まあま、泣きもしないで。良い子ですのねえ。まあ、よく見ればお目目もお鼻もお口まで、パパにそっくり。」

「そうなのよう。」ミリアは満面の笑みを浮かべる。「本当にね、良かった。赤ちゃんがお腹にできた時からずうーっと、リョウに似ているといいなって思っていたの。」

「まあま、お母様だってこんなにお美人でいらっしゃるのに。どちらに似たって美しいお子におなりですよ。今、何か月でございますの?」

 「二か月なんです。夜何度も泣くのよ。」

 「まあま、お懐かしい。」そう言って清子はタツキに微笑みかける。「タツキさんもお小さい頃はお昼よりも夜の方が元気いっぱいで、皆さん休まれているのにどうしてもお休みして頂けなくて、夜おんぶしてお散歩にお連れしたこともございましてよ。」

 「知らないよ。」タツキは不貞腐れたように言う。

 「そんなにずっと前からタツキ……さんと一緒に暮らしてるの?」ミリアは目を丸くして言った。

 「ええ、ええ。タツキさんのお姉様がお生まれになるというので、わたくしは岩村家にお手伝いに入ることになったんでございます。タツキさんが生まれるより五年も前から、お世話になっておりますです。はい。」

 「へええええ。」ミリアは嘆声を発した。「そんでタツキとお姉さん、二人もママの代わりに面倒看たの?」

 「そうでございますよ。お母様はお父様と同じ病院にお勤めで、大変お忙しいお身でしたので。それからアオイ様も。」

 タツキはぎくり、として清子を見上げた。

 「そうですよ。タツキ様のお姉様のお子様でございます。」

 「どこにいるんだ? アオイちゃんは。」リョウは楽し気にタツキに問いかける。

 「アオイ様はですね、今、モモ様とお庭のクローバー摘みに行かれましたですよ。」

 「モモ様?」再びミリアが尋ねる。「モモ様は誰の子なの?」

 「モモ様のお母様は、……たしか、ショコラ様でしたかねえ。……アメリカンショートヘアの美人なお猫様でございます。」

 「ねこ!」ミリアは思わず小さく叫んで、口許を覆った。

 「あら、奥様は猫さん好きでいらっしゃいます?」

 「ええ。そうですの。」思わず上品な口調になって、「うちにも白ちゃんという猫がいますの。小っちゃくってふわっふわでとーっても、可愛いんですの。」と笑った。

 「まあま、そういうことでしたら、早くお会いして頂きたいですわ。アオイ様とモモ様早くいらっしゃらないかしら。せっかく頂いた焼き菓子、美味しいおやつがありますよと呼んで参りましょうか。」そう言って清子はリュウをソファに寝かせると、そそくさと部屋を出て行った。

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